ヘブライの信徒への手紙11章 信仰の模範

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

この世での寄留者として

「ヘブライの信徒への手紙」11章1〜16節

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章1節、口語訳)

この節は信仰とは何かを定義しています。11章は旧約聖書に登場する信仰者たちの具体例を挙げていきます。

私たち人間の目には見えない神様は実在するお方として私たちに立ち現れます。ただしこれは信仰を通してのみ可能になることです。11章で挙げられている代表的な信仰者たちは皆、神様の約束を信頼した人々です。信仰とは神様の約束を必ず実現するものとして素直に受け入れることです。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章3節、口語訳)

上掲の節の「この世界」(ギリシア語「アイオーン」の複数形)は現在の世界と来るべき世界の両方を意味する言葉です。このことは11章10節、16節を読めばわかるでしょう。

この11章には合わせて18回「信仰によって」とそれに類似する表現が使用されています。

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章4節、口語訳)

最初の信仰者の例はアベルとその捧げ物です。アベルの捧げ物(「創世記」4章2〜16節)は信仰を通して捧げられたものでした(「マタイによる福音書」23章35節)。それゆえにアベルの捧げ物は神様に受け入れられたのです。それとは異なりカインの捧げ物は心の伴わない形だけのものでした。カインの心は悪で満ちていたからです(「ヨハネの第一の手紙」3章12節)。それゆえにカインの捧げ物は神様に受け入れられませんでした。

カインに殺されたアベルの血の声は土の中から主なる神様に叫びました(12章24節および「創世記」4章10節)。それに対してイエス様の血は罪の赦しの恵みを宣言しました。

アベルとカインの出来事は捧げ物について詳述している「ヘブライの信徒への手紙」にとって適切な例であると言えます。

「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章5節、口語訳)

エノクについては「創世記」5章18〜24節に述べられています。彼は死を見ないように天に移されましたが、このような例は他には預言者エリヤしかいません(「列王記下」2章11〜14節)。

「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章7節、口語訳)

ノアについては「創世記」5章28節から9章29節までの箇所に詳述されています。この世がまもなく洪水で沈むことを知ったノアは乾いた地面の上に箱舟を作り始めました。そのせいで周囲の人々から嘲笑されたことでしょう(「ヘブライの信徒への手紙」10章33節も参照してください)。しかし来るべき滅亡の時にあらかじめ備えていたノアは救われ、備えを怠った人々は溺れ死ぬことになりました(「ペテロの第一の手紙」3章20節)。11章1節の信仰の定義の通りにノアの信仰は未来を見据えたものだったのです。

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章8〜10節、口語訳)

アブラハムはユダヤ人たちの父祖です(「ローマの信徒への手紙」4章1節)。しかし「ヘブライの信徒への手紙」にとって彼は何よりもまずすべての信仰者の父でした(2章16節、6章13〜15節)。アブラハムの人生については「創世記」12章1節から25章11節にかけて詳述されています。

アブラハムの信仰はいざとなればすべてを捨ててでも神様の約束された地に向けて旅立つ心の準備ができていたところにあらわれています(11章8節、10章34節)。その地で彼は放浪する羊飼いまた寄留者として住むことを余儀なくされました(11章9節)。アブラハムの孫であるヤコブもまた自分のことを旅人とみなしていました(「創世記」47章9節)。このことは以下の引用箇所にある「恥」がどのようなものであったかについての説明を与えます。アブラハムは自分の土地を得なかったという恥に苦しみ、「神はアブラハムに所有地を与えることができなかった」という不当な言いがかりを受けた神様も恥をかかされたのです。

「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章16節、口語訳)

神様はキリスト信仰者たちに対しても自分の国家をこの世ではお与えになりません。それがようやく実現するのは来るべき世においてです。その時のために神様は彼らに都を用意なさっているのです(11章10節および16節)。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章13節、口語訳)

この節にある「みな」はアブラハムおよび彼の子孫たちのことを指しています。エノクは死を見なかったのでこの中には入っていません(11章5節)。

困難な時期における信仰

「ヘブライの信徒への手紙」11章17〜40節

これから扱う箇所には旧約聖書に関連する箇所がたくさんあります。そこにはまた旧約聖書続編の「マカバイ記二」への言及も含まれています。

「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章17〜18節、口語訳)

上掲の箇所はアブラハムの人生の最も困難な時期について述べています(「創世記」22章)。神様はアブラハムに一人息子イサクをいけにえとして捧げるようにお命じになりました。これはとても信じがたいことでした。神様はアブラハムに非常に多くの子孫を与えることを以前約束なさっており、この約束はイサクを通してのみ実現できるはずのものだったからです。その一方で、人間には不可能としか思えない状況下でも神様は約束をしっかり守られることをアブラハムはすでに学んでいました。

私たちは神様の約束に対してアブラハムと同じような姿勢で臨むことができるでしょうか。この約束が人間の考え方に合致した合理的なものかどうか疑問を投げかけたりせず、単純に神様の御意思に従って活動することがはたして私たちにはできるのでしょうか。神様は御自分を信じる者たちを実に奇妙な道へと導かれることがあります。次の「イザヤ書」の箇所にもそれが述べられています。

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
(「イザヤ書」55章8〜9節、口語訳)

「信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章20節、口語訳)

上の節は「創世記」27章27〜40節の出来事を指しています。

「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章21節、口語訳)

上の節は「創世記」47章29〜31節および48章8〜20節の出来事を指しています。

「信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章22節、口語訳)

上の節は「創世記」50章24〜25節の出来事を指しています。

「信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章23節、口語訳)

上の節にある「王の命令」に注目しましょう。これは「出エジプト記」1章16節、22節に関連しています。実は「ヘブライの信徒への手紙」を受け取った読者たちも旧約聖書のモーセの両親と同じような問題に直面していたのです。それは「神様とこの世の権力のどちらに従うべきであるか」という問題でした。幼子モーセの美しさは彼の両親にとって神様がモーセを大事に思っておられることについてのしるしでした(「出エジプト記」2章2節、6章20節、「民数記」26章58〜59節も参照してください)。

当時のユダヤ人たちは周囲から嫌われ蔑まれていた少数派でした。しかしモーセはファラオの娘の養子という立場を捨てて、自分の出身民族であるイスラエルの民(ユダヤ民族)の中に戻ることを望みました。モーセは今享受している報酬と将来受けられる報酬とを正しく比較して判断することができたのです。

「信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章28節、口語訳)

この節にあるはじめての過越の様子については「出エジプト記」12章に書いてあります。

「信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章29節、口語訳)

この節の描く紅海横断の模様は「出エジプト記」14〜15章に述べられています。

「信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章30節、口語訳)

この節の描いているエリコの征服について「ヨシュア記」6章に記述があります。

「信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章31節、口語訳)

「ヘブライの信徒への手紙」11章の勇敢な信仰者のリストの中には女性が二人挙げられています。アブラハムの妻サラ、そしてこの遊女ラハブです。ラハブについては「ヨシュア記」2章8〜11節と6章22〜25節、また「ヤコブの手紙」2章25節に記述があります。「マタイによる福音書」1章5節によればラハブはダヴィデの先祖であり、イエス様の先祖でもあります。

「このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章32節、口語訳)

「ヘブライの信徒への手紙」の挙げる信仰者の一覧表には特別な成功を収めた罪のない人々だけが含まれているものと私たちは勝手に考えがちです。しかし例えばダヴィデ(32節)は不倫を犯したばかりか不倫相手の夫を殺害させてもいます(「サムエル記下」11〜12章)。このことからもわかるように神様は不完全な罪深い人々を通じて御業を行われたのです。

上掲の節にはイスラエルの四人の士師(民の裁きを司った指導者)と一人の王と一人の預言者の名が挙げられています。ただし預言者サムエルは士師の一人に数えることもできます。彼らの登場する箇所は次の通りです。

「士師記」4章6節〜5章15節(バラク)
「士師記」6章11節〜8章35節(ギデオン)
「士師記」11章1節〜12章7節(エフタ)
「士師記」13章24節〜16章31節(サムソン)

上節に含まれる士師たち(バラクとエフタとサムエル)が主に遣わされてイスラエルの民を周囲の敵の手から救い出したと「サムエル記上」12章11節は述べています。またサムエルとダヴィデについては「サムエル記上」と「サムエル記下」と「列王記上」に詳述されています。

「彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章33〜34節、口語訳)

上掲の箇所は「ダニエル書」の3章と6章の出来事を指しています。

「女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章35節、口語訳)

上節に出てくる「女たち」はザレパテの寡婦(「列王記上」17章17〜24節はエリヤが彼女の死んだ息子を生き返らせたと述べています)とシュネムの裕福な婦人(「列王記下」4章8〜36節はエリシャが彼女の死んだ息子を生き返らせたと述べています)を指しています。

11章35〜37節の背景にある旧約聖書続編の「マカバイ記二」7章はシリア王アンティオコス・エピファネスの時代(紀元前160年代)にユダヤ人たちが味わった過酷な苦しみを描写しています。

11章36節にある「ほかの者たちは、あざけられ」という記述は預言者エレミヤに関わりがあるものかもしれません。エレミヤはユダヤの民にとって好ましくない主からのたくさんのメッセージを宣べ伝えたために多く苦しみにあいました(「エレミヤ書」20章7〜8節)。預言者イザヤは木の空洞の中に押し込められてのこぎりで引かれたとも言われます(37節)。石打の刑は祭司エホヤダの子ゼカリヤの出来事を示唆しているのかもしれません(「歴代志上」24章20〜22節、「ルカによる福音書」11章51節も参照してください)。

「ヘブライの信徒への手紙」11章は行いの伴わない知識を無価値とみなすユダヤ人教師たちの主張の正しさを示そうとしていると総括することもできるでしょう。キリスト信仰者の信仰とはたんなる知識ではなく、たとえそのために多大の犠牲を払うことになろうとも信仰に基づく行動を促すものなのです。

「神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章40節、口語訳)

この節は人が死んでから天国に入るまでの間に何らかの中間地帯が存在することを仄めかしているかのようにも読めます(「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章15節も同様です)。その一方で、新約聖書にはキリスト信仰者は死んだ後すぐに天国に入れることを示唆する箇所もあります(例えば「ルカによる福音書」23章43節)。私たちはこの問題についてほとんど何も知りません。まさにそれゆえにこの問題をめぐって数多くの議論がなされ様々な説明が提示されてきたのでしょう。最も重要なのは人が死んだ後に何が起こるのかについてすべてを知ることではなくて私たちが天国と地獄のどちらに向かって歩んでいるかを知ることです。