ヘブライの信徒への手紙8章 新しい契約
天におられる大祭司
「ヘブライの信徒への手紙」8章1〜5節
「以上述べたことの要点は、このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」8章1〜2節、口語訳)
イエス様は天にまします大祭司です。これは「ヘブライの信徒への手紙」全体を解く鍵となるテーマであり、これから8〜10章で詳述されていきます。
イエス様が天にあって大能者の御座の右に座しておられます。このことはいけにえを捧げる儀式自体がすでに完全に終了したことを表しています(8章1節、9章25節)。ということは天における祭司の職務(ギリシア語で「レイトゥルギア」)はもはや「いけにえを捧げる職務」ではないということです。
「おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」8章3節、口語訳)
この節に基づいてローマ・カトリック教会は、聖餐式が行われる度にキリストは人となりパンとぶどう酒の形でこの世に来られ御自分をいけにえとして繰り返し捧げているという解釈を提示しました。しかし今まで述べてきたことからもわかるように、キリストが御自分を捧げ物となさったのはゴルゴタの十字架の死においてのみであり、一回限りの出来事でした。
「そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。」
(「ヘブライの信徒への手紙」8章4節、口語訳)
レビ族出身ではなかったイエス様はユダヤ教の大祭司ではありえませんでした(7章12〜14節も参照してください)。
「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」8章5節、口語訳)
ユダヤ教の礼拝は天の聖所での礼拝のたんなる影や反映にすぎません(「出エジプト記」25章40節)。とはいえ古い契約が無効になったのではなく、新しい契約が古い契約において約束されていた事柄を成就したのです。これは新約の時代の到来によって旧約の時代が退きつつあることを意味します(「ヘブライの信徒への手紙」8章13節)。
キリストの捧げられたいけにえはまだこの段階では言及されていません(8章3節)。それについて述べる9章は8章の内容をより深く正確に考察していくことになります。
新しい契約
「ヘブライの信徒への手紙」8章6〜13節
「ヘブライの信徒への手紙」8章8〜12節は新しい契約についての預言者エレミヤによる予言を引用しています(「エレミヤ書」31章31〜34節)。
エレミヤは民が捕囚から帰還した時に新しい契約が実現することを待ち望んでいました。イスラエルの宗教生活は捕囚期にある程度刷新されたとはいえ、それで新しい契約が実現したと言うには程遠いものでした。
弟子たちとの最後の晩餐の時にイエス様は「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」と宣言なさいました。この言葉は後にキリスト教の礼拝での聖餐式の設定辞となりました(「ルカによる福音書」22章20節。口語訳)。
古い契約が新しい契約に変更になったことによって新たな事態が生じました。イスラエルの民が破った古い契約は罪の赦しを得させる力をもたず(7〜9節)、新しい契約の到来とともに傍に退かなければならなくなりました。「ヘブライの信徒への手紙」の最初の読者たちはユダヤ教に逆戻りすればキリスト信仰者への当時の激しい迫害に巻き込まれずに済むことになったかもしれません。しかしユダヤ教への逆行は罪の赦しをもたらさない無意味な行為なのです。
新しい契約には次のような特徴がありました。
1)古い契約よりも重要である(6節)
2)古い契約よりも優れている(6節)
3)人間の思いの中に入れられ心に書きつけられている(10節)
4)全世界の人間にかかわる(11節)
5)主なる神様を知るようにさせる(11節)
6)罪の赦しをもたらす(12節)
すでにパウロはユダヤ教のことを「古い契約」と呼んでいました(「コリントの信徒への第二の手紙」3章14節)。しかし「ヘブライの信徒への手紙」はさらに「古い契約は消えつつあり新しい契約の前から退きつつある」ということをはじめて明言しました。
「ヘブライの信徒への手紙」8章5〜13節に基づいてキリスト信仰者は「新しい契約の民」と呼ばれるようになりました。この名称は的を得ています。
そもそも「契約」とはどういう意味なのでしょうか。ギリシア語で「ディアテーケー」と呼ばれるこの言葉は「契約」とも「遺言」とも訳すことができます。「契約」という言葉からは二人の対等な契約者のイメージが浮かんできます。しかし聖書の他の文書と同様に「ヘブライの信徒への手紙」にもそのような考え方はありません。人間は神様の傍に立つ対等な存在などではありません。新しい契約の中心となるのは契約の仲保者キリストです(6節)。イエス様は人々と神様の間を取り継ぐ仲保者として働きかけてくださっているのです。
罪深い存在である人間はキリストの守りなしには聖なる神様に近づくことができない、とマルティン・ルターは言ったことがあります。
「わたしは、彼らの不義をあわれみ、
もはや、彼らの罪を思い出すことはしない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」8章12節、口語訳)
新しい契約は罪の赦しについての確かな約束にほかなりません。ゴルゴタの十字架での犠牲死によってイエス様は私たちの罪を帳消しにしてくださいました。そして神様はこの御業を私たちのためになされた贖いとして承認なさったのです。そうするように私たち人間の側が神様に要求することはできません。神様が御自身の善なる性質に基づいて、全くの恵みから、そうしてくださったのです。