「ヨハネの第三の手紙」ガイドブック
聖書の引用は口語訳によっています。日本語版では表現や内容にある程度の編集が加えられています。
ガイオへの手紙
「ヨハネの第三の手紙」で扱われている内容は「ヨハネの第二の手紙」と同じものですが、構成は異なっています。たしかにこの手紙でも教会の間を巡回する教師たちやある地方のキリスト教会が主題となっています。しかし、この教会は不適当な人物に牛耳られている状態だったのです。この状況を打開するために地方の諸教会を巡回する教師たちが奮闘します。彼らは「ヨハネの第二の手紙」のケースとは異なり、偽教師ではなく正しい教師でした。
ガイオ、教会の正常化のために奮闘する教会員 「ヨハネの第三の手紙」1〜4節
「ヨハネの第二の手紙」の場合とは異なり、この「ヨハネの第三の手紙」は地方のある教会に宛てられた手紙ではありません。手紙の受取手は「ガイオ」、手紙の書き手は「長老」です。「ヨハネの第二の手紙」と同様に、この「長老」は手紙で自己紹介をする必要がありませんでした。彼はキリスト信仰者のグループ内ではよく知られた人物であり、彼には非難の余地のない権威が備わっていました。
「ガイオ」はローマ人の名前です。ローマ人の名前の種類はかなり限定されており、それらのうちの多くは非常に一般的なものであったため、この手紙のガイオが、例えば新約聖書の他の箇所に出てくるコリント教会のガイオ(正式の名はガイウス・ティティウス・ユストゥスであったと思われます)と同じ人物だったのではないかなどと推測するのはあまり意味がありません(「コリントの信徒への第一の手紙」1章14節)。ローマ帝国の国民がたくさん住んでいるところにはガイオという名前の人間もたくさんいました。ですから「ヨハネの第三の手紙」のガイオについてはこの手紙から読み取れる以外のことは何も言えません。それでもこの手紙を読めばわかるように、この人物についての情報が少なすぎるというわけでもありません。彼は長老が「真実に愛している親愛なる」存在でした。また彼は非常に裕福であり、教会の教義をめぐる論争において「真理のうちを歩いている」すなわち、正しい教えを支持する立場を鮮明にしていました。
正しい教師たちによる伝道活動 「ヨハネの第三の手紙」5〜8節
この手紙に収められた長老のいくつかの言葉からは、初期のキリスト教会の各地の個別の教会の状況についてかけがえのない歴史的な知見を得ることができます。長老からの強い支持を得た、各地の諸教会の間を巡回する教師たちがいました。おそらくガイオはそのような巡回教師を受け入れ身の回りの世話をして次の旅に送り出す責任を果たしていたのだと思われます。長老はこのガイオの奉仕を伝え聞いて深く喜びました。巡回教師たちは手弁当で活動し、自分自身のために誰かに何かを頼むことはありませんでしたし、異邦人たちから生活資金を受け取ることもありませんでした。彼らはキリストの「御名」のゆえにパウロと同じようなやり方で伝道を続けたのです。「コリントの信徒への第一の手紙」9章によれば、パウロは福音の仕事のために他の人々から生活援助を受けることをよしとしませんでした。
デオテレペスとデメテリオ 「ヨハネの第三の手紙」10〜11節
ようやく長老はこの手紙を書いた本当の目的に話題を転じます。問題はデオテレペスという人物に関わるものでした。彼は「みんなのかしらになりたがっている」(9節)というのです。これは彼がその教会の指導者の地位を今まさにねらっているという意味ではありません。彼はすでに教会を指導する立場にあって権力を乱用していたのです。長老はその教会に宛てて自分の知り合いの巡回教師の世話をするように要請する手紙を書き送りましたが、デオテレペスはその長老の指示にいささかの敬意も払おうとはしませんでした。それどころか、彼は長老の権威を公然と否定し、巡回教師を教会に受け入れることを拒みました。さらに彼は巡回教師を自宅に受け入れた教会員たちを教会から追い出したのです。表面的にみれば、彼はここで「偽教師を教会から追い出せ」という「ヨハネの第二の手紙」の指示を実行したことになります。しかし、適用した対象はまったく的外れだったのです。事態の解決を図るために長老自身がまもなくその教会を現地訪問するつもりであることが手紙では述べられています。
また「デメテリオ」という人物の役割も大まかには推定できます。彼は聖書を正しく教える巡回教師として他のキリスト信仰者たちや長老自身からもよい評判を得ていましたにもかかわらず、デオテレペスによって教会への受け入れを拒まれたかあるいはあやうくそうされそうになりました。これについてはさらに「真理そのものも、証明している」(12節)というやや謎めいた言い方がされています。しかし、主がこの証をどのようにお与えになったのかについては私たちにはわかりません。
終わりの挨拶 「ヨハネの第三の手紙」13〜15節
「ヨハネの第三の手紙」の終わりの挨拶は「ヨハネの第二の手紙」の終結部によく似ています。もうすぐ実際に面と向かって話し合うつもりであることが述べられています。また、実際にその時が来るまでは、今ここで与えたごく短くわかりやすい指示に従って何とか持ち堪えて欲しいという期待も読み取れるでしょう。難しい立場に置かれた長老はその教会の友人ひとりひとりに彼からの挨拶を伝えるように頼んでいます。長老の使徒的な権威をデオテレペスは否認しましたが、他の多くの教会員は承認していました。ですから、彼らにもデオテレペスの反抗的な態度について知らせておく必要がありました。それにしても、この問題の核心はいったいどのようなものだったのでしょうか。
この手紙に登場するガイオ、デオテレペス、デメテリオは私たちにはまったく馴染みのない人物です。それでも、手紙に基づいて当時の状況を整理して大まかに理解し、彼らの役割がそれぞれどのようなものであったかを推定するのは比較的容易であるとも言えます。デオテレペスは教会の牧者、ガイオは教会員でした。おそらくデメテリオは長老に託された手紙を携えた巡回教師としてガイオの許を訪れたのでしょう。デオテレペスは巡回教師を教会に受け入れることを望まず、長老の使徒的な権威をも批判しました。それを知った長老はデオテレペスを介さずに教会員ガイオに直接連絡を取りました。そして、教会の指導者の方針に振り回されることなく巡回教師たちを自宅に受け入れてくれるように彼に頼んだのです。
このように当時の教会の状況について大体の様子はわかるのですが、ここからはいろいろな疑問も生じてきます。はたしてデオテレペスは巡回教師たちを教義的な理由から拒絶したのでしょうか。それとも、彼は正しく教える牧者ではあったものの、教会員たちに対して高圧的に振る舞う人物だったのでしょうか。性格の違いや権力欲だけが問題の原因だったとは考えにくいところがあります。また、教会の秩序に関する互いにまったく異なる二つの見解がここでせめぎ合っているという解釈も根拠に欠けていると言わざるを得ません。結局、最も真実に近いと思われるのは、デオテレペスは信仰の教義に関わる理由で巡回教師たちを教会に受け入れなかったという解釈です。この点でデオテレペスは決定的に間違っていたことになります。それゆえ、教会員は誰も彼の命令に従うべきではなかったのです。
事の顛末がどうなったのか、私たちは知りません。デオテレペスが抗争に競り勝って首尾よくガイオを教会から追い出すことになったのでしょうか。それとも、ガイオの家が拠点となって長老とその友人が教会をデオテレペスの手から取り戻すことに成功したのでしょうか。たしかなのは、誰かがこの「ヨハネの第三の手紙」を保存してその写しを後代にまで伝えたことです。そうしたのがガイオあるいは長老とその仲間でなければ、いったい誰だったのでしょうか。ともあれ、この手紙を通して私たちが少なくとも学んだことは、間違ったことを教えている教会の牧者には誰も従う必要がないということです。
手紙から私たちが学べること
第二と第三の「ヨハネの手紙」はふたつの異なる状況を描写して私たちに提示しています。第二の手紙に登場する教会は正しい道に留まっており、巡回教師のほうは間違った教えを行く先々の教会でまき散らそうとしています。それに対して、第三の手紙に登場する教会は間違った道を歩んでおり、巡回教師のほうは正しい教えを守っています。これらのケースを私たちの時代や状況にどのように当てはめることができるでしょうか。
例えばフィンランド福音ルーテル教会では、牧師になる者はルター派の信条に留まると誓うことを按手式で要求されます。こうすることで教会はキリスト教の教えを純正に保とうとしてきたのです。教区の長であるビショップの役割は管区内のそれぞれの地方教会の教えが正しく保たれているかどうかを監督することです。本来ならば、これは誰ひとり異端教師たちの巻き添えになって永遠に滅びに陥ることにならないように教会員たちの霊的な安全を確保することをその目的としています。ところが、最近数十年におけるフィンランドでは上記の原則はすっかり形骸化し、誰かれかまわずどのような内容であろうとも教会で公然と教えることが大目に見られるようになってしまいました。まさにそれゆえにこそ「ヨハネの手紙」には今の私たちに伝えるべき大切なメッセージが含まれているとも言えるでしょう。
第一に私たちが学んだのは、偽教師たちを優遇することは決してあってはならないということです。これは具体例を通じて考えてみればわかりやすいと思います。キリスト信仰者である私たちは勧誘に来るエホバの証人やモルモン教徒を自宅に受け入れたりはしませんし、彼らの活動拠点として自宅を提供することももちろんありません。教会の牧者の責務には、神様の御言葉からはずれたことを教える異端教師たちを礼拝での説教者として招いてはならないということも含まれています。キリスト信仰者は異端教師たちの本は買わないし、彼らの雑誌も注文しません。それどころか、彼らとは一切関わりを持たない意志をはっきり明示しさえします。異端の教えは軽々しく扱ってよいことではありません。宗教改革者マルティン・ルターによれば、まさに異端の教えこそが神様の御名を私たちキリスト信仰者の間で貶めてしまうのです。
第二に私たちが学んだことは、牧師や教区長といった職制はその立場にある者を誰ひとり絶対的な権力者にするものではないということです。教会の牧者や教区長には使徒的な教えを守り抜く重大な使命があります。この使命を忠実に果たさなくなる時に、彼らは職制による権能を失うことになります。そのような場合には、教会員は彼らが命じたり禁じたりすることに振り回されるべきではありません。むしろ、たとえ教会の上層部から分派や異端のレッテルを貼られることになろうとも、聖書を正しく教える巡回教師たちを教会に迎え入れるべきなのです。重要なのは、教会の中での地位などではなく、使徒的な信仰にしっかりとつながっていることです。間違った教えを崇めている教会長はやはり間違っているのであり、正しい信仰を信条として告白する平信徒は、誰が何と言おうとも、やはり正しいのです。「ヨハネの手紙」は現代の教会の混乱した状況の中におかれている私たちに対して根本的に考え直すべき視点を十分すぎるほど豊かに提供しています。