ヘブライの信徒への手紙3章
「ヘブライの信徒への手紙」3章1〜6節
「使徒」としてのイエス様
「そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章1節、口語訳)
イエス様について「信仰の使者」という名称が用いられているのは新約聖書を 通してこの箇所だけです。この言葉はギリシア語では「アポストロス」といい「使徒」と訳されるのが普通です。後期のユダヤ教ではモーセについても「使徒」という名称が用いられるようになりました。モーセとイエス様の間の類似性を示しているこの名称には「招き」という意味もあります。イエス様は神様による御国への「招き」であるということです。神様がこの世にイエス様を遣わされたのは人々が天の御国に入れるようにするためでした。イエス様も「自分は特定の使命を果たすために神様によってこの世に遣わされた」と何度も言っておられました。次の「ヨハネによる福音書」の箇所がその一例です。
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」
(「ヨハネによる福音書」6章38節、口語訳)
「ヘブライの信徒への手紙」1章はイエス様が御使たち(天使たち)よりも偉大な存在であると述べています(1章5〜14節)。そして今扱っている「ヘブライの信徒への手紙」3章の箇所はユダヤ人たちから歴史上最も偉大な人物とみなされていたモーセよりもイエス様のほうがはるかに偉大な存在であることを宣言しているのです。
モーセは人類を救済するという神様の御計画を実現する過程の一部に関わった神様の僕にすぎません。それとは異なりイエス様は人類救済計画そのものなのです。
「おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章3節、口語訳)
上節で「彼」とはイエス様を指しています。
「主なる神はへびに言われた、
「おまえは、この事を、したので、
すべての家畜、野のすべての獣のうち、
最ものろわれる。
おまえは腹で、這いあるき、
一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、
おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう」。」
(「創世記」3章14〜15節、口語訳)
上の「創世記」の箇所で「へび」とは悪魔を「女のすえ」とはイエス様を指しています。この箇所はイエス様が悪魔に勝利なさることを予言しています。
「すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章16〜17節、口語訳)
モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出しました。ところがエジプトを出立したイスラエルの民のうちのほぼ全員が荒野で人生を終えることになってしまいました。イスラエルの民はようやく次の世代になってから約束の地にたどり着けたことになります。それと同じようにイエス様は御自分の民を天の御国まで導いてくださいます。しかし御民のうちの一部の人々の旅が天国にたどり着くことなく終わってしまう危険は依然として存在しています。
「キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章6節、口語訳)
このように天の御国にたどり着くためには忍耐心が必要とされるのです。
「彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章2節、口語訳)「さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章5節、口語訳)
これら二つの節が前提としている旧約聖書の出来事は次の「民数記」の箇所です。
「しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。」
(「民数記」12章7節、口語訳)
この節で神様はモーセの姉ミリアムでも兄アロンでもなくまさしくモーセを御意思の伝達者として選ばれたことを宣言なさっています。これほどまでに偉大な人物とされたモーセが受けた最大限の威光さえも「モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者」(「ヘブライの信徒への手紙」3章3節)とされたイエス様の栄光の比ではないということになります。
「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章4節、口語訳)
上の節は実在するこの世界の誕生をめぐる問題へと私たちの思考を誘います。「全宇宙が偶然の産物にすぎない」と考えるにはよほどの「信仰心」が要求されると思われます。それに対して「神様が全宇宙を創造された」と信じるほうがはるかに容易なのではないでしょうか。
中世に試みられた「神の存在証明」のうちにはこの問題に関連しているものがあります。それによれば、あらゆる出来事はそれに先行する何らかの出来事の帰結とみなせることになります。しかしすべての出来事の始まりとなる最初の出来事はいったい何だったのかという疑問が生じます。いったい何があるいは誰がすべてのものを動かしたのでしょうか。実にこの「不動の動者」こそが神にほかならない、とこの神の存在証明は主張します。
不信仰に対する警告
「ヘブライの信徒への手紙」3章7〜19節
これから扱う箇所には旧約聖書の二つの箇所が関係しています。3章7〜11節に引用されている「詩篇」95篇7〜11節がそのひとつであり、約束の地の偵察後に表面化したイスラエルの民の不信仰およびエジプトに戻りたがる後ろ向きの態度について述べている「民数記」13〜14章がもうひとつの箇所です。
「だから、聖霊が言っているように、
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章7〜8節、口語訳)
上掲の節で「ヘブライの信徒への手紙」は「きょう」の重要性を強調しています。「民数記」が記述している出来事の内容をここで思い出しましょう。「きょう」ではなくその翌日になってようやくイスラエルの民は約束の地を征服するために出陣する準備ができました。しかし時すでに遅し、神様は彼らの助太刀には来られず、イスラエルの民は痛恨の大敗北を喫することになります。これには私たちへの大切な教訓が含まれています。神様の約束は二つの要素から構成されています。それは約束と条件です。「条件」とは私たちが神様から期待されていることです。神様から期待されていることを私たちが行わない場合には神様の約束も有効にはなりません。
「荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
あなたがたの先祖たちは、
そこでわたしを試みためし、」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章8〜9節、口語訳)「そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。」
(「出エジプト記」17章7節、口語訳)
「ヘブライの信徒への手紙」はイスラエルの民の荒野での出来事に言及する際に上掲の「出エジプト記」の箇所に出てくる荒野の地名を「翻訳」しています。「マッサ」とは試練を「メリバ」は苦々しい反抗心を意味するヘブライ語の言葉です。
旧約聖書の出来事はたんなる遠い過去の出来事なのではなく歴史の中で何度となく繰り返されるものでもあります。このことに気付くのは重要です。出来事の「一回目」はモーセの時代に起きました。数々の詩篇が書き記されたのは神様に反逆しないようイスラエルの民に改めて警告しなければならなかった時期でした。「ヘブライの信徒への手紙」の執筆された時期には三度目の警告がなされました。私たちが生きている現代も何度目かの警鐘が鳴らされるべき時期だと言えるでしょう。旧約聖書は常に現代性を失わないテキストです。これは「ヘブライの信徒への手紙」が3章7節で「聖霊が言っているように」と過去形ではなく現在形で書かれていることからもわかります。
モーセの時代にイスラエルの民はかつて彼らが住んでいたエジプトに戻りたがりました。それと同じように「ヘブライの信徒への手紙」は読者たちにユダヤ教に逆戻りしないよう警告しなければならなかったのです。現代の読者である私たちも「この世」の中に入り浸ってしまう危険に常にさらされています。神様への不信仰と反逆心は「ヘブライの信徒への手紙」の書き記された時代だけに存在した罪ではなく、あらゆる時代のキリスト信仰者(当然私たちも含めて)を脅かしている罪なのです。
罪は私たちキリスト信仰者が天の御国に入るのを妨げることはできません。イエス様が私たちのすべての罪をすでに帳消しにしてくださっているからです。このことをきちんと理解しておくことはとても大切です。人間が天の御国に入ることを妨げるものはその人の不信仰です。「不信仰」とはイエス様が私たちのために成し遂げられた救いの御業を自分に受け入れようとしないことです(3章19節)。
神様に対する不信仰や反抗心に私たちの心が囚われないようにするためにはどうすればよいのでしょうか。聖書は私たちに四つの助言を与えています。
1)神様の御言葉を聴いたり読んだりするべきである(3章7節と15節)
2)聴いたり読んだりした御言葉を信じるべきである
3)聴いたり読んだりした御言葉に従うべきである(「申命記」29章28節(口語訳では29節)も参照してください)
4)聴いたり読んだりした御言葉を広く伝えて他の人々とも分かち合うべきである。教会とのつながりを保つのは必要不可欠である(10章19〜39節)
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」
(「ヘブライの信徒への手紙」3章13節、口語訳)
キリスト信仰者は神様の御言葉と過ごす時を日々守るべきです。信仰の霊的な戦いは自分自身の力ではうまくいきません。それゆえ神様からの力を毎日のようにいただかなければならないのです。