コリントの信徒への第一の手紙

執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

インターネットでコリントの信徒への手紙一を読むか聴く(口語訳)


はじめに

パウロのヨーロッパ伝道は、さまざまな困難の中ではじまりました。「使徒言行録」16章はパウロとシラスが投獄されたことを記しています。テサロニケとべレアから、パウロは危うく死にそうな目にあいながら逃げ出さなければなりませんでした(使徒言行録17章)。「ヨーロッパ文明のゆりかご」、アテネでは、福音は嘲笑の的になりました。

これらのことを体験したばかりのパウロは、アテネから、悪名高い港町コリントへと向かいました。パウロがコリントの信徒たちに、

「私はひどく弱り、恐れ、震えながらあなたがたのところに行きました」
(コリントの信徒への第一の手紙2章3節)

と書いたのは無理もありません。ところが、おびえる心でコリントに着いたパウロは、主の器として一年半の間、誰にも邪魔されずに働くことができました。この時期の出来事については、「使徒言行録」18章で語られています。人間的に計算する場合にはまったくありえないことだが、実はコリントには「神様のもの」となる人々がたくさんいる、と神様はパウロにお告げになりました。主は約束されたことを実行なさり、多くの人の心を異教から引き離してキリストの方へと向けさせました。

まもなくユダヤ人たちはパウロが会堂(シナゴーグ)に入れないように邪魔しましたが、会堂の隣に住んでいた神様を畏れる異教徒のテテオ ユストの家で、パウロは迷うことなく説教を続けました(「コリントの信徒への第一の手紙」18章6~7節)。ユダヤ人と他の民族(「異邦人」)との間の溝は、現代の私たちの想像をはるかに超える深いものでした。福音がこの溝の上に橋をかけました。コリントの教会員の大部分は、以前異教徒でしたが、その中にはユダヤ人も含まれていました。

ほかの都市でも生じた艱難が、ついにはコリントでも起こりました。西暦50年、アカヤのローマ人の最高指揮官なる総督として着任したルキウス・ユニウス・ガリオに対し、コリントのユダヤ人たちはパウロのことを訴えました。ところが、総督は宗教に関わることがらを法廷で取り扱うことを認めませんでした。この決定にもかかわらず、パウロはまもなくどこかほかのところで福音伝道の仕事を続けることに決めました。こうしてパウロは活発なコリントの教会を後に残しました。この教会に宛てたパウロの手紙は、全新約聖書の中でも最も大切な書物のひとつです。

コリントの教会はパウロにとって、いろいろな意味でやっかいでした。まさにそのゆえに、パウロは全力を尽くして手紙を書かなければなりませんでした。このことは、「コリントの信徒への手紙」から読み取れます。そしてそれゆえに、とても読み応えのある手紙になったのです。

罪深い都市、コリント

コリントには古く輝かしい歴史がありました。ギリシア人が海洋術を学ぶとまもなく、両側に海浜をもつ狭い峡部に位置するこの都市は、絶好の港町となりました。ギリシアが勢威を振るった時代(紀元前480~330年)に、コリントは海洋業が盛んな活気あふれる町でした。

その後、ギリシアの覇権を握ったのは、フィリッポスとその息子アレクサンダー大王の率いるマケドニア人であり、さらに100年後、彼らに続いて支配の座に着いたのは、ローマ人でした。こうした変遷の中で、ギリシア人の都市国家の重要性は薄れていったのです。コリント主導の下に結集した都市国家は、ついにローマに反旗を翻しました。紀元前146年、ローマ人は、ほかのすべてのギリシア人に対するみせしめとして、コリントを破壊しました。

100年後、紀元前46年に、ガイウス ユリウス カエサルはこの都市をローマ人の植民都市として再建しました。地の利を生かして、コリントはまもなく新たな隆盛を迎えました。すでに紀元前29年には、コリントはアカヤ州の首都、総督府の都市となっています。

パウロの時代には、コリントは現代の大きな港湾都市と同じような賑わいを見せていました。そこには、ありとあらゆる堕落と不道徳がありました。都市には大金持ちも貧乏人も大勢いました。それに加えて、港町にはさまざまな新しい宗教がなだれこんできていました。これらすべてのことが、コリントの教会および「コリントの信徒への手紙」の中にくっきりと刻印を残しています。

パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり

私たちの手元に残されているのは、パウロとコリントの教会との間の手紙のやりとりのうちの一部にすぎません。「コリントの信徒への第一の手紙」の1章11節と7章1節には、パウロがコリントの教会から手紙を受け取ったことが記されています。5章9節では、パウロは以前自分がコリントの信徒に送った手紙についてふれています。

「コリントの信徒への第一の手紙」を書く前に、パウロは、コリントの教会には何か問題があるということを知らされました。パウロはコリントの教会にテモテを派遣しましたが(4章17節)、テモテも教会の秩序を正すことができませんでした。それで、パウロはこの手紙を書くことになりました。ところが、パウロの手紙でさえも、状況をすぐに変えることはできなかったのです。使徒パウロに残された唯一の方法は、自分自身で実際にコリントに赴くことでした。このコリント訪問について、パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」の13章2節で語っています。

このパウロの二度目のコリント訪問は完全に失敗に終わったようにみえます。その後で彼にできることは、全力を注いで非常に厳しい火の出るような手紙をコリントの教会に送りつけることだけでした(「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節、7章8節)。この手紙はコリントの信徒たちの心を砕きました。彼らは神様の御心にかなう仕方で悲しみ、悔い改めたのでした。「コリントの信徒への第二の手紙」では、パウロはこの都市の教会に宛てて愛情と仲直りの気持ちを込めて書いています(7章6~13節)。

パウロとコリントの教会との間の手紙のやり取りの過程や、意見の食い違いの原因について、私たちにはわからないところがあります。ともかくも、パウロはコリントの教会で強い影響力をもっている異端の教師たちに対して苦しい立場に追い込まれ、自分に与えられた使徒の任務が正当なものであることを自分で弁護しなければならなくなりました。

コリントの教会に宛てた最初の手紙は、エフェソで聖霊降臨日(五旬節、ペンテコステ)の頃、つまり春に書かれています(「コリントの信徒への第一の手紙」16章8節)。パウロの生涯に起きたほかの出来事と照らし合わせてみると、手紙が書かれたのは西暦54年か55年であったと推定できます。「コリントの信徒への手紙」の読者は、パウロがコリントの教会ととても難しい関係になっていることに気がつきます。しかし、パウロの努力はむだにはなりませんでした。コリントの信徒たちは、一世紀の終わりになってもまだ牧会の難しいやっかいな群れでした。このことについては、使徒教父文書のひとつ、「クレメンスの手紙」に語られています。ところが、後の時代になって、コリントは正しいキリスト教の信仰を守り続ける堅固な砦となったのでした。

牧会のプロとして

コリントの教会では、霊的な面と肉的な面とが奇妙に一体化していました。教会員の中にはさまざまな恵みの賜物をいただいた者が大勢いて、各々、自分の方がパウロよりも優れた専門家である、と自負していました。一方では、港町の悪弊が教会に入り込み、ひどい罪がおおっぴらに行われていました。パウロがこの愛する問題だらけの教会にどのような手紙を書いているかを読むのは、とても興味深いものがあります。

パウロは、自分で行ったことがないローマの教会に対しては、慎み深く礼儀正しい手紙を書きました。今回はそうではありませんでした。パウロは、ガラテアの教会に対しては、福音の核心を弁護するために、怒りのほとばしる手紙を書きました。今回は怒りを爆発させることもありませんでした。パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」で、できうるかぎり慎重に、コリントの信徒に対して自分自身の証をしています。パウロは、コリントの教会が彼の教えを受け入れることを信じ、コリントの信徒が愛用している言葉遣いを採用しています。もっとも、時には「ガラテアの信徒への手紙」で周知のパウロの鋭利な言葉の刃が飛んでくることもあります。そうした箇所ではパウロは、コリントの教会に自分勝手に活動する余地を微塵も与えてはいません(コリントの信徒への第一の手紙5章、14章)。

手紙の構成

1章1~9節 あいさつ
1章10節~4章21節 コリントの教会の争い
5章1節~6章20節 コリントの教会の倫理的な間違い
7章1~40節 結婚
8章1節~11章1節 偶像に捧げられた肉
11章2節~14章40節 礼拝
15章1~58節 復活
16章1~24節 手紙の終わり


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)