ヘブライの信徒への手紙7章 新たな大祭司
新しい祭司職
「ヘブライの信徒への手紙」7章1〜14節
「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は旧約聖書を知悉していたためイエス様がレビ族に属する祭司ではありえないことを知っていました。しかし旧約聖書はそれとは別の種類の祭司職も存在することをごく稀にはありますが述べています。それはメルキゼデクの祭司職です。サレムの王メルキゼデクについて旧約聖書はわずか4つの節で述べているだけです(「創世記」14章18〜20節、「詩篇」110篇4節)。メルキゼデクは謎に包まれた人物でした。
「メルキゼデク」という名はヘブライ語で「義の王」、「公正の実現者は私の王である」、「私の王は義である」などと訳すことができます。「サレム」は古い時代のエルサレムのことです(「詩篇」76篇3節(口語訳では2節))。しかしこの名は「平和の王」と訳すこともできます。その場合、この名は次の引用箇所のように「平和の君」すなわちメシアを私たちに想起させます。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」
(「イザヤ書」9章6節、口語訳)
「ヘブライの信徒への手紙」は旧約聖書に明示的には書かれていないことについても述べています。「創世記」には重要人物たちの系図が多く含まれていますが、メルキゼデクの両親や家系については記述がありません。「ヘブライの信徒への手紙」は、ユダヤ教のラビたちもそうしたように、メルキゼデクには父も母もいなかったとみなしています(7章3節)。
メルキゼデクには系図がなかったということは彼がユダ族出身の祭司にはなりえなかったということでもあります。レビ族出身の祭司は自分が本当にレビ族に属していることを証明しなければならなかったからです(「エズラ記」2章61〜63節)。それゆえメルキゼデクの祭司職はレビ族の祭司職とはまったく別の祭司職でなければならなかったことになります。
イエス様もレビ族に属さない祭司でした。このことからは次の二つの結論が出てきます。
1)ユダヤ人の律法はレビ族の祭司職に基づくものでした。それゆえ祭司職がレビ族のものから別のものに変更される時にはそれに応じて律法も変更されなければならなくなります(12節)。
2)その別の祭司職はレビ族の祭司職よりも高位のものであるはずです。メルキゼデクはレビよりも先に生まれています(9〜10節)。それゆえメルキゼデクの祭司職はレビ族の祭司職よりも高位であり後者を傍に退けたのです。なおアブラハムはレビの曽祖父にあたります。
「というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章14節)
この節にはいささか奇妙な表現が用いられています。イエス様はユダ族出身であるというのです。この表現の旧約聖書的な背景には「ヤコブの子孫の中から昇ってくる星が来るべきメシアである」というバラムの予言があると思われます(「民数記」24章17節、また「ルカによる福音書」1章69、78節も参照してください)。
「その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、それを受けている。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章8節、口語訳)
この節にはメルキゼデクが永遠に生きる存在であるという考えが含まれています。この背景にも旧約聖書があります。
「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、
「あなたはメルキゼデクの位にしたがって
とこしえに祭司である」。」
(「詩篇」110篇4節、口語訳)
この「詩篇」はメシア予言に関わるものです(特に1節)。この意味でもメルキゼデクはイエス様の予型とみなすことができます。
新たな大祭司
「ヘブライの信徒への手紙」7章15〜28節
「このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、(律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章18〜19節、口語訳)
この箇所は律法と祭司職が変更になった第三の理由を述べています。古い律法はそれを通して人が救われることがないという意味では無益なものでした。ただし律法の命じる内容自体は正しく善いものです(「ローマの信徒への手紙」7章12節)。しかし人間はそれを完全に守ることができないため律法の行いによっては救われないのです。
キリスト御自身によるいけにえの捧げ物は次の三つの点でモーセの律法の要求するいけにえの捧げ物とは異なっています。
1)それは日々の捧げ物ではなく一度かぎりの捧げ物だった
2)旧約の大祭司たちとは異なりイエス様は御自分のために捧げ物をする必要がなかった(「レビ記」16章6節)
3)イエス様は動物をではなく御自分をいけにえとして捧げられた
「彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章16節、口語訳)
この節は「レビ族の祭司職が神様の命令に基づくものではなかった」と主張したいのではありません(7章28節および「申命記」18章1〜8節も参照してください)。手紙の執筆者が強調したいのは「レビ族の祭司職は遺産相続に基づくものであった」ということです。この祭司職はレビ族の中で継承され存続していくべきものでした。
「このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」7章22〜25節、口語訳)
前任の大祭司たちは全員時とともに死去したため、その度ごとに新しい大祭司が選出されなければなりませんでした。それとは異なり復活されたキリストはもはや死ぬことがないため、キリストを大祭司の職から退けるような「新任の大祭司」はもはや出てきません。キリストはすべての人間の罪の罰をすべてその身に引き受けて帳消しにする究極のいけにえとして御自分をゴルゴタの十字架で捧げられたお方であり、その意味で最後の大祭司だったのです。