ヘブライの信徒への手紙12章 正しい感謝の捧げ物
キリスト信仰者の人生は戦いである
「ヘブライの信徒への手紙」12章1〜13節
「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章1節)
現代人は何かを待ち続けることに慣れていません。むしろ全部をすぐに欲しがる人が多いようです。キリスト信仰者についても「信仰者は何事に関してもいつでも準備万端整っている聖人でなければならない」という先入観を持っている人も多いのではないでしょうか。ところが聖書はキリスト信仰者としての成長を短距離走ではなくマラソンなどの長距離走になぞらえています(1節)。信仰における成長とは自分の欲望やサタンの誘惑との戦いであるとも言えます。例えば「エフェソの信徒への手紙」6章10〜20節にはキリスト信仰者が身にまとう武装について詳述しています。
この戦いを不必要な重荷によって一段と困難なものにするべきではありません。不要な装備を携行する兵士は誰もいません。所有することで逆に悪い影響があるものならなおさらです。罪は私たちがイエス様に結び付くことを妨げます。罪は足に絡みついてくる縄のようなものです(1節)。罪を利用してサタンは私たちを自分のほうへと手繰り寄せようとします。
「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者には自分が毎日のように行ってしまう具体的な何らかの罪が念頭にあったのかもしれません。サタンは私たちを個別に誘惑してきます。このことに意識的であるのは重要です。あなたにとっては耐えるのがとても難しい誘惑となるある事柄が他の人にとってはあなたと同じような誘惑にはならないかもしれません。ですから他の人が何かの罪に陥ることをあまり軽々しく裁くべきではありません。その人は他の事柄に関してはあなたよりもはるかに強く耐えることができるかもしれないからです。
伝統的な教会建築では聖壇を取り囲む手すりは半円形に作られています。キリスト信仰者は聖餐式の時にこの手すりに沿って跪き主イエス様のからだと血を祝福されたパンと葡萄酒を通していただきます。そして手すりの欠けている半円の部分はすでに天国に辿り着いた信仰者たちのために備えられた場所であると説明される場合があります。1節にある「このような多くの証人に雲のように囲まれているのである」という表現はこのことを連想させます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章2節、口語訳)
私たちの信仰を始めてくださったのはイエス様です。それだけではなくイエス様は私たちの信仰を維持して終わりまで導いてもくださいます。イエス様が「はじめ」であり「おわり」であることは次の箇所に書いてあります。
「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。」
(「ヨハネの黙示録」1章8節、口語訳)
アルパ(すなわちアルファ)はギリシア語のアルファベットの最初の文字でありオメガは最後の文字です。それゆえキリスト信仰者は自己を中心におくのではなくキリストを中心にするべきなのです。自分を見るのではなくキリストを見つめるべきなのです。
「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章4節、口語訳)
この節には様々な解釈があります。10章32〜34節に言及されている迫害からすでにかなり長い時が経過していたことをこの節は示唆しているという解釈によるならば「ヘブライの信徒への手紙」が書かれたのは皇帝ネロの迫害後かなり時間が経過してからだったことになります。その他の解釈としては、ローマの信徒たちは死に至るほどの迫害をすでに受けていたのであるから「ヘブライの信徒への手紙」がローマの信徒たちに向けて書かれたものではありえないという解釈や、ネロによる迫害の始まる前の西暦60年代にこの手紙がローマに向けて書かれたことをこの節から読み取る解釈もあります。
ともあれ「ヘブライの信徒への手紙」が読者たちを迫り来る迫害に備えさせようとしているのはたしかです。イエス様も弟子たちが迫害の対象になることをすでに予言しておられました(「マタイによる福音書」24章9節)。次の「ヨハネによる福音書」の箇所も来るべき苦難を暗示しています。ブドウの木を手入れしてきれいにすることはキリスト信仰者たちへの迫害を意味しています。
「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」
(「ヨハネによる福音書」15章2節、口語訳)
苦難を通して人は清められ新たにされる場合もあります。これは苦難から得られる最善の利点であると言えましょう。しかし私たちが苦難に耐え抜く心構えをもたず途中で嫌気が差してしまう場合には、苦難はよい実ではなく悪い実を実らせてしまいます(12章15節)。
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章11節、口語訳)
キリスト信仰者である私たちが神様から懲らしめを受ける時にそれに対してどのような態度を取るかということも重要です。
「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章5〜6節、口語訳)
私たちが神様の約束に目を向けないでいると、理性は私たちが神様を呪うように仕向けます。例えば非常な苦難の最中にいるヨブに対してヨブの妻は神様を呪うように唆しました(「ヨブ記」2章9節)。神様の御意思に対する忠実さではなく神様に反抗する心が人間の心の奥底からは湧き上がってきます(「マタイによる福音書」15章10〜20節)。自分自身の理性と力に頼っているかぎり、私たちは神様の懲らしめを軽んじるかあるいは一切を破壊し尽くす脅威とみなして過剰な反応をするかのどちらかになります。
「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章7〜9節、口語訳)
上掲の箇所は両親が子どもに与える懲らしめ(あるいは訓練)について述べています。もちろんこの箇所が子どものしつけを教えていると考えるべきではありませんが、社会が親から自分の子どもに対してもっている権威をすべて剥奪してしまう場合には収拾しがたい混乱が生じてしまいます。同じことは学校における教師と生徒の関係についても言えます。とりわけ先進国では教師や親の権威を軽視しすぎる傾向がみられ、教育現場や家庭での混乱を招いている大きな一因となっています。
二つの山、シナイとシオン
「ヘブライの信徒への手紙」12章14〜29節
この箇所は二種類の救いの道について述べています。一つ目は律法による救いの道(シナイ山)です。もう一つ目は恵みによる救いの道(シオン山)です。このことは「ガラテアの信徒への手紙」4章21〜31節のハガルとサラについての説明と比較するとよくわかると思います。
神様の恵みは律法を超えるものであることに注目するべきです(「ヘブライの信徒への手紙」12章24節)。「ローマの信徒への手紙」は律法と恵みの関係について次のように述べています。
「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」
(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節、口語訳)
シナイ山でイスラエルは神様に恐ろしいほど近い場所にいました。ところがシオン山、ゴルゴタの丘で私たちは神様にもっと近い場所に佇むのです。このことはイスラエルの民が担った責任よりも大きな責任を私たちキリスト信仰者が担っているという意味でもあります。次の箇所が述べているのはまさにこのことについてです。
「あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章25節、口語訳)
「神様が神聖なお方である」ということについて現代の人々はあまり触れたがりません。しかしこれは旧約聖書でも新約聖書でも神様の中心的な本質なのです。例として「出エジプト記」19章9〜25節、「イザヤ書」6章1〜13節、「ヨハネの黙示録」1章9〜20節を挙げることができます。
「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章15節、口語訳)
キリスト信仰者は他のキリスト信仰者たちに対して責任を担うべきです。これはしかし現代ではともすると忘れられがちな考え方です(「マタイによる福音書」18章15〜18節も参照してください)。キリスト教信仰は神様と人間との間に存在する一対一の「汝と我」の関係に基づいています。とはいえ信仰は常に信仰者の集う教会で生まれて活動していくものなので、教会員が互いを無視するような集まりでは霊的な活動が途切れてしまいます。個人主義が強調され過ぎる場合が多い西欧諸国のキリスト教のあり方にはこの点で多くの誤りが含まれていると言えます。
誰であれ罪に陥る可能性があることを各人がわきまえておくべきです。この点で次の箇所にある注意は大切です。
「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章12節、口語訳)
私たちがやるべきことは他の人々を断罪する裁判官の役割を自認することではなく、苦しみや誘惑の中にいる他の人々に支えを与えることです。
12章14〜29節ではおなじみのテーマがふたたび取り上げられています。罪の支配力と危険とについて手紙の読者たちに警告しようとしているのです。
「また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章16〜17節、口語訳)
人は罪と戯れているうちにもはやそこから立ち戻ることができなくなる状況に追い込まれてしまうかもしれません。この世の快楽などを求め始めるときにキリスト信仰者は目に見えない永遠の真理の世界のことを忘れてしまいかねません。その例が上掲の節におけるエサウです。
「苦い心根(恨みつらみ)を抱かないように」という12章15節にある警告に注目しましょう。苦い心根(恨みつらみ)はすべてをだめにしてしまう毒のようなものです。1リットルの汚水だけでも浴槽一杯のきれいな水をすっかり汚染するには十分です。しかし1リットルのきれいな水では浴槽一杯の汚水を浄化することはできません。
「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章26〜27節、口語訳)
上掲の箇所はイエス様がふたたびこの世に戻ってこられることについて述べています。イエス様の再臨は「各人が永遠の世界でどうなるか」という点を除く他のすべてのことを変えてしまいます。その時には、いま存在するすべてのものは消え去ります。しかし人がこの世で歩んできた道は永遠の世界でも続いていくのです。すでにこの世にいる間に人は天国への道と滅びへの道のどちらかを絶えず選んで歩みを進めています。イエス様の再臨の時にはそのことが明るみになるだけなのです。
「しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」12章22〜24節、口語訳)
上掲の節にある「無数の天使の祝会」の「無数」とはギリシア語では数万を表す言葉(「ミューリアース」の複数形)です。