ヘブライの信徒への手紙10章 キリストのお近くにとどまり続けなさい
真の捧げ物
「ヘブライの信徒への手紙」10章1〜18節
この箇所は「ヘブライの信徒への手紙」が5章1節から10章18節にかけてイエス様が真の大祭司であることを述べた内容についての要約になっています。
旧約聖書(とりわけ預言者の書)は宗教儀式に依拠して自らの宗教的な正統性を誇示する人々の傲慢な態度への批判をしばしば行ってきました。すでに旧約の時代には、神様が人々に望んでおられるのは捧げ物ではなく神様の御意思への忠実さであることが知られていました。このことを示す箇所としては例えば「サムエル記上」15章22節、「イザヤ書」1章10〜20節、58章、「エレミヤ書」6章20節、「ホセア書」6章6節、「アモス書」5章21〜24節を挙げることができます。
「しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章3節、口語訳)
律法の命じる様々な捧げ物は人々に罪からの贖いをもたらすことができないばかりか、むしろ罪とそれを帳消しにする必要性とを改めて思い起こさせるものでした。
「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、
「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、
わたしのために、からだを備えて下さった。
あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
その時、わたしは言った、
『神よ、わたしにつき、
巻物の書物に書いてあるとおり、
見よ、御旨を行うためにまいりました』」。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章5〜7節、口語訳)
この箇所では「詩篇」40篇7〜9節が引用されています。ヘブライ語版のテキストには「あなたは私に両耳(ヘブライ語で「オズナイム」)を形作ってくださった」と書いてあります。「ヘブライの信徒への手紙」が多くの引用箇所で使用したギリシア語七十人訳旧約聖書(セプトゥアギンタ)の「詩篇」39篇7〜9節でも「私のために両耳(ギリシア語で「オーティア」)を備えてくださった」と訳されています。「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者はこれらのテキストの表現を選ぶこともできたはずです。なぜなら、それは忠実さについて述べているからです。耳は御言葉を聴くために与えられているものです。しかし手紙の執筆者は「からだ」(ギリシア語で「ソーマ」)という表現を選びました。それは奥義としてイエス様が受難と死によって自らをいけにえとなさった捧げ物について述べるためでした。
イスラエルの民をエジプトから導き出された時、神様はまず民に忠実さを要求なさりその後で律法をお与えになったという順序を預言者エレミヤは強調しています(「エレミヤ書」7章21〜23節)。忠実さの要求は時間的に見ても律法に先立つものであったということになります。
忠実さは新しい契約の礼拝においても中心的な役割を果たしています。「ローマの信徒への手紙」には次のように書かれています。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
(「ローマの信徒への手紙」12章1節、口語訳)
モーセの律法が定めるいけにえの捧げ物によっては罪から清められないことを人間の良心や理性も証しています(「ヘブライの信徒への手紙」10章2、4節)。それでは「ゴルゴタの十字架でのイエス様の御業によってすべての罪が帳消しにされている」という確信を私たちキリスト信仰者はどこから得ることができるのでしょうか。人間の理性や良心はキリストの十字架上の死による贖いに対してしばしば反抗的な態度を取ります。「ひとえにイエス様のおかげで自分のすべての罪は赦されている」という確信は神様の御言葉である聖書からのみ見出すことができるものです(「ヘブライの信徒への手紙」10章17〜18節)。
「この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章10節、口語訳)
キリストのいけにえの捧げ物による清めが一度きりのものであり繰り返したり新たにやり直したりすることはできないものであることをこの節は強調しています。原文をみると「きよめられたのである」という新約聖書ギリシア語の動詞は完了分詞形になっており、完了形は終わりまで行われた状態を表しています。律法の要求する罪からの贖いのためのいけにえの捧げ物がもはや必要ではなくなった最終的な状態がすでに実現しているのです(10章18節)。すべての罪はすでに帳消しにされているからです。
「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章11〜12節、口語訳)
祭司たちはユダヤ教の犠牲の儀式を立ったまま行っていました。これは彼らの仕事がいつまでも途中の状態にあり決して成し遂げられることがなかったという意味です。それとは異なりキリストは座っておられます。イエス様は犠牲を捧げる者としての仕事を完遂なさったからです。
10章15節は神様が三位一体なるお方であることが新約聖書で明示されている箇所のうちのひとつです。10章16〜17節には次の「エレミヤ書」からの引用があります。
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。」
(「エレミヤ書」31章33〜34節、口語訳)
この箇所は旧約聖書の本来の文脈ではイスラエルの民に対する父なる神様の語りかけでした。「ヘブライの信徒への手紙」10章16〜17節および8章8〜12節は今と同じ「エレミヤ書」からの引用であり、この手紙ではイエス様を予告するものとして解釈されています。なお聖餐式の設定辞となっているイエス様の言葉を収めた「ルカによる福音書」22章20節も新しい契約について述べています。しかしここで「ヘブライの信徒への手紙」は聖霊様もまたイエス様について証しておられると述べています。父、御子、御霊がそろって聖書の同一箇所にあらわれているのです。このように、聖書からは三位一体についての整然とした教義は見つからないかもしれませんが「三位一体」そのものはたしかに聖書の中に存在しています。
キリストのお近くにとどまり続けなさい
「ヘブライの信徒への手紙」10章19〜39節
「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章19〜20節、口語訳)
イエス様はすべての人に至聖所すなわち救いへの道を開かれました。イエス様はすべての人のすべての罪を帳消しにしてくださったのです。
イエス様の肉体を神殿の幕にたとえることで「ヘブライの信徒への手紙」は何を伝えようとしていたのでしょうか。これは至聖所への道が開かれるために神殿の幕が引き裂かれたのと同じように(「マルコによる福音書」15章38節)罪からの贖いが成就するためにイエス様の肉体も引き裂かれたことを教えるためであった、という説明を与えることもできるでしょう。この箇所のイメージは説明するのが難しい豊かなメッセージを湛えています。手紙の執筆者は読者たちに様々な考えを呼び起こすことを意図してこのイメージを用いたのかもしれません。
「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章22節、口語訳)
キリスト信仰者が神様に大胆な信頼を寄せることができるのは、その信頼が他ならぬ神様の約束に基づくものだからです(10章23節)。神様は信頼できるお方です。それゆえ神様の約束も信頼できるものです。
「ヘブライの信徒への手紙」は「キリスト信仰者たちに与えられているもの」をことさらに強調しています。その理由は、西暦70年のエルサレム神殿崩壊後に「ユダヤ人たちが失ってしまったもの」(神殿、捧げ物、大祭司など)をしばしば強調するようになったユダヤ教と対比するためであったかもしれません。そこには「今さらユダヤ教に逆戻りする理由は何もない」という強いメッセージが込められていたとも言えましょう。
上掲の22節は洗礼に言及しています。洗礼の教えについては次の「テトスへの手紙」の箇所も重要です。
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」
(「テトスへの手紙」3章5節、口語訳)
次の箇所で「ヘブライの信徒への手紙」は教会の集まり(礼拝)に参加するのを軽んじないように警告しています。
「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章25節、口語訳)
おそらくこの警告の背景にはキリスト信仰者たちが迫害にあっていたことか(32〜34節)あるいは自堕落な信仰生活を送っていたことが関係しているものと思われます。これは教会生活を軽視しがちな今日のキリスト信仰者たちにとっても必要な警告です。
キリスト信仰者たちは信仰の戦いにおいて互いに支え合わなければなりません。誰かがキリスト信仰者たちの集まりから外れても他の誰もそれを気にかけないことが残念ながら非常にしばしばみられます。そのような人を再び教会の集いに誘うことによって、その人がよくない方向に向かい始めた状態を再び正しい方向へと変えることができるかもしれません。これとは逆に多くの異端のグループは自分たちの集会に通う人々を自分のグループだけに過剰に厳しく縛りつけようとする傾向があります。ここで覚えておくべきことがあります。私たちはキリスト信仰者たちが形成したいかなるグループにも縛られるものではなくひとえにイエス様に結びつけられるのであるということです。とはいえキリストの教会はこの世においては常に人間たちが形成したグループという形を取らざるを得ないということもまた事実です。
「ヘブライの信徒への手紙」はキリストの再臨の時(「かの日」)がなかなか訪れないという問題に対して新しい見方を提示します。キリストの再臨がまだ起きていないことについて「キリストはまだ戻ってきていないのだからこの先も結局戻ってこないのだろう」と解釈しなければならないということではなく、むしろ「キリストの再臨は日に日に近づいて来ている」と解釈することができるということです。現代の私たちは「キリストがいない」と言う状態に慣れっこになってしまってはいませんか。
二つの例
「ヘブライの信徒への手紙」は6章でキリスト教信仰を捨てる危険について扱った後(1〜8節)、すぐそれに続いてキリスト教信仰を守る重要性についても述べています(9〜12節)。今扱っている10章でもそれと同じやり方で26〜31節は警戒すべき否定的な例について、32〜36節は勇気を与えてくれる肯定的な例について挙げています。
キリスト教を人々に宣べ伝える時には否定的なことばかり並べ立てるメッセージにならないよう気を付けなければなりません。これは福音のメッセージを聴く人々の魂の癒しのためにも大切なことです。肯定的な例について語ることで彼らを励ますべきだからです。
「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章26〜27節、口語訳)
罪に落ち込んだことのある多くのキリスト信仰者は上記の箇所を読んで心の動揺を覚えるのではないでしょうか。「信仰者として犯してしまった罪はもはや帳消しにされない」とこの節は教えているかのようにも読めるからです。
しかしこのような解釈は新約聖書の教えに反するものです。「ヘブライの信徒への手紙」もそのようなことを言いたかったのではありません。26節の動詞「罪を犯しつづける」は現在分詞です。新約聖書ギリシア語で動詞の現在形は継続的行為あるいは反復的行為を表しています(例えば「ヨハネの第一の手紙」3章6〜9節)。
どのような罪について「ヘブライの信徒への手紙」は述べているのでしょうか。それは信仰を捨てる罪についてです(39節)。この罪は信仰者の集まりを軽んじるといった小さなことから始まる場合があります(25節)。しかしこの罪を行い続ける人は最終的にはキリスト教信仰の反対者に豹変してしまうことがあるのです(29節)。
天の御国への唯一の道はイエス・キリストによる救いの道です。天国へ通じる他の道は存在しません。この道を教えるキリスト教会を捨てるということは天国には行けなくなるということです(27節)。教父キプリアヌスが「教会の外に救いはない」と述べているとおりです。
ユダヤ人たちにはまさにこの通りのことが起きてしまいました。キリスト信仰者たちの最初の主要な敵対者となりキリスト教信仰を敵視して迫害するようになったのは実はローマ帝国ではなく、キリストを捨てたユダヤ人たちだったのです(「ヨハネの黙示録」2章9〜10節、3章9〜10節)。この傾向はすでに「使徒言行録」の叙述する出来事において始まっていたことがわかります。
旧約聖書の律法では次の五つの罪に対して死刑の宣告が下されました。
1)神様に対する侮辱(「レビ記」24章14〜16節)
2)偶像礼拝(「申命記」17章2〜7節)
3)偽預言者としての活動(「申命記」18章20節)
4)姦淫(「申命記」22章22〜29節)
5)殺人(「レビ記」24章17節)
死刑の宣告の大部分は神様とその御意思に反する罪という宗教的な理由から下されました。
「モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章28〜29節、口語訳)
律法は神様に由来するものですが、人間の側でそれを否定する場合もあります。そのことを上掲の箇所は示唆しています。神様に由来する救いを否定する者すなわちイエス様による罪からの贖いの御業が自分のためのものでもあることを認めない者は他の人々よりもはるかに厳しい罰を受けることになります。
聖霊様に対する罪について次のように述べられたイエス様はまさにこのことを意味しておられたのでしょう。
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」
(「マタイによる福音書」12章31〜32節、口語訳)
次の「マタイによる福音書」の箇所では、キリスト信仰者の健全な信仰の成長を見守る立場にある者(例えば牧師)は罪を悔い改めようとしない者をその罪の中に縛りつける権能があると述べています。
「よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」
(「マタイによる福音書」18章18節、口語訳)
悔い改めて罪を捨てるという意思をもたない人は罪を本当に自覚しているとは言えないし罪の赦しを心から求めてもいません。それゆえ実際にはそのような人間は自分で自分を罪の赦しの恵みの外に閉じ込めてしまうことになるのです。神様の恵みは人々の足蹴にされるような安っぽいものでは断じてありません。
「あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章32〜36節、口語訳)
上掲の箇所で「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は手紙の受け取り手たちに対して今まで彼らがどのような目にあってきたかを思い起こさせようとしています。彼らもまた迫害を受けてきたのです。この迫害はローマ皇帝ネロによる帝国規模の迫害(西暦64年)あるいは群衆が企てた非合法な何らかの迫害のいずれかであったと思われます。例えばパウロは何度も違法なやり方で投獄されています。「使徒言行録」16章22〜40節にはそれについての記述があります。上掲の箇所だけからでは前述のどちらの迫害のケースであったのかは明らかではありません。帝国による公的な迫害ではキリスト信仰者たちの財産も没収されてしまいました。その一方では、荒れ狂う群衆も迫害を受けたキリスト信仰者たちの財産を無差別に破壊したのです。
投獄されたキリスト信仰者たちを慰問することは訪問者に危険が伴いました。そうすることで訪問者の信仰が他の人に知られてしまうことになるからです(「ヘブライの信徒への手紙」13章3節、なお「マタイによる福音書」25章36節も参考になります)。
「「もうしばらくすれば、
きたるべきかたがお見えになる。
遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章37〜38節、口語訳)
キリスト信仰者たちが迫害されることについて「ヘブライの信徒への手紙」は、イエス様が御自分に属する者たちへの迫害を予言されたこと(例えば「マタイによる福音書」5章11〜12節)によってではなく、これまでと同じく旧約聖書の引用(10章37〜38節)によって説明しています。引用箇所は「ハバクク書」2章3〜4節からです。預言者ハバククは不義がこの世でまかり通っている有様を嘆きます(「ハバクク書」1章2〜4節)。それに対して神様は預言者ハバククに忍耐を促します。神様は御自分の計画に基づいて御意思を実現していかれるからです。
「ヘブライの信徒への手紙」を受け取った人々もイエス様の再臨をいつまでも待ち続けなければいけないことに疲れてきていました。信仰を捨ててしまう危険に彼らの多くは直面し始めていたのです。このような状態にいたキリスト信仰者たちにとって、同じように忍耐が切れかかっていた預言者ハバククに対して与えられた予言(上掲の引用箇所)は深く共感できるものでした。「信仰を捨てる者は滅びてしまう。だから棄教する理由は何もない。それに対して忠実に信仰の中に留まる者たちは救われる」という予言です。あたかもこのことを実例に基づいて証明するかのようにして次章では神様に従い続けた過去の人物たちの信仰の戦いの数々が取り上げられていきます。