ヨハネによる福音書6章 祝宴に招く「知恵」

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

今まで見て来たように、「ヨハネによる福音書」は、多くの箇所で他の三つの福音書とは異なったやり方で、イエス様のみわざを記述してきました。しかし、この6章に至って、四つの福音書の記述は一挙に合流します。多くの人々に食べ物を分け与える奇跡の後にイエス様が水の上を歩かれる記述は、「マルコによる福音書」でも共通しています。他にも共通する点がいろいろとあります。例として、人々はイエス様から「しるし」を要求します(「マルコによる福音書」8章11~13節)。ペテロはイエス様をキリストであると信仰告白します(「マルコによる福音書」8章27節)。「マルコによる福音書」(8章31~38節)でも「ヨハネによる福音書」でも、キリストの歩まれる道は、今はっきりと恥辱と下降へと向かっていきます。

「ヨハネによる福音書」が聖餐式の設定については語っていないことを覚えている読者にとって、この6章の内容は困惑を招くでしょう。確かにこの福音書は、聖餐について、直接には一度も言及していません。にもかかわらず、この6章は、聖餐式の施行について語っているものと考えないと、まったく理解できなくなります。

「ヨハネによる福音書」が聖餐や洗礼についてヴェールで覆うような書き方ばかりしている理由を、研究者たちは説明できませんでした。「ヨハネによる福音書」は、該当事項の記述に関して、他の三つの福音書(とりわけ「マルコによる福音書」)に信頼して任せたのかもしれませんし、すでに聖餐や洗礼について基礎知識をもっている人々に対して語りかけたかったのかもしれません。あるいは、神様の御国の奥義をすべての人には明かしたくなかったのかもしれません。

6章の意味は、5章との関連で明らかになります。5章の終わりで、イエス様は、すでにモーセが御自分について証していた、と語られます。ユダヤ人たちは、この証を旧約聖書から見つけることができませんでした。にもかかわらず、キリストのみわざとペルソナは、すでに旧約聖書の端々に見出されるものです。大勢の人に食べ物を与える奇跡と、イエス様が水の上を歩かれる奇跡とは、まさにこのことに関連しているのです。

多くの人に食べ物を分け与える奇跡 6章1~15節

数百年前には、イエス様が本当に何千人もの人々に食べ物を分け与えられたという考えは、学識のある人々には受け入れられるものではありませんでした。彼らによれば、第一に、そのような奇跡は自然に反することであり、奇跡は決して起きないはずからです。第二に、パンを次々と懐から出して配るような手品師などよりもイエスは偉大なはずだからです。イエスは実際にはパンの数量を増やしたのではなく、自分の示した模範にしたがって人々がめいめい自分のパンをお腹のすいている他の人に分けるようにさせたのだ、と彼らは説明しました。

実のところ、この奇跡について読む人は、旧約聖書をひもとく必要があります。「列王記下」4章42~44節の出来事の流れは、そこでの会話も含めて「ヨハネによる福音書」の内容とほぼ一致しています。そして、この奇跡のゆえに人々がイエス様を預言者とみなしたことがわかります。はるか昔、神様が御自分の民の只中で行われた偉大なみわざが、今再現されたことになるからです。そして、目に見える形での神の国の到来を人々が熱心に待ち望んでいた時代に、イエス様の奇跡がどのような意味をもっていたか、もわかります。

おそるべきことに、この大成功した奇跡は、一方では不幸ももたらしました。人々は奇跡を見て、それを行ったのが神であることを認めました。しかし、この時に彼らは神様の御子のことは拒んだのです。イエス様は、パンを与える救世主(メシア)ではありませんでした。表面的に快適な生活を送ることを目的としてイエス様をさがすべきではなかったのです。奇跡もまた、人々の心をイエス様への信仰で満たすことを、その目的としていたからです。

人々に顕現される神様 6章16~21節

イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された時には、マナの奇跡(荒野で飢えたイスラエルの民に神様が天からマナと呼ばれる食べ物を与えられたこと)と、救いの奇跡(紅海がイスラエルの民の前で二つに分かれて追っ手のエジプトの軍隊から救われたこと)とが、互いに結びついていました。このように聖書は、キリストがこれらの奇跡に対応する奇跡を再び繰り返したことを証しているのです。この奇跡に関して、「ヨハネによる福音書」とその他の三つの福音書との記述は、明らかに一致しています。「ヨハネによる福音書」は、イエス様が水の上を歩く奇跡とは別の奇跡についても語っています。それは、弟子たちの舟が岸から5~6キロほどの地点でイエス様に遭遇した後すぐに目的地についた、という奇跡です。

イエス様は実に不思議なことを言われました。この「私はある」という言葉は、モーセが神様の御名前をお尋ねした時に彼に与えられた啓示(「私はある、という者です」)を思い起こさせます(「出エジプト記」3章14節)。この出来事のメッセージは、イエス様は湖を越えるために近道された、ということではなく、全能なる神様が顕現された、ということです。そして、まさにこれは「ヨハネによる福音書」の1章冒頭の「ロゴス賛歌」のテーマです。

イエス様は命のパン 6章22~59節

「ヨハネによる福音書」が奇跡の出来事を語るのは、奇跡が人々の興味を引くからではありません。イエス様のなさった「しるし」の目的はいつも、奇跡の表面的な興味深さよりも深く大いなることがらに関わっています。ここでも、それはあてはまります。食べ物の奇跡の後には、命のパンについての話が続きます。ひどいことに、これほど壮大な奇跡をなさったにもかかわらず、またしてもイエス様は人々から誤解され拒絶されることになります。

この内容豊かな箇所から、私たちは幾つかのことを取り上げるのに留めましょう。イエス様が命のパンについて語られる時、そこには少なくとも三つの層が見出せます。 1)この話の背景には、食べ物の奇跡があり、パンはまったく普通のパンを意味しています。ユダヤ人たちは、命のパンを決してなくならない(この世的な意味での)パンのことだと理解します。

2)この話の背景には、「箴言」9章(特に1~6節)があり、そこには「知恵」が行う祝宴が描かれています。「ヨハネによる福音書」のプロローグでは、「知恵」=「ロゴス」=「御言葉」が肉となり、人々の間に住まわれたことが語られています。イエス様こそが、この「人となられた知恵」です。この「知恵」は、人々が間違った生き方を捨てて、御自分の諭しを受ける道を歩みだすよう、呼びかけています。 3)この話の背景には、新しい契約の食事、主の聖餐があります。「ヨハネによる福音書」はこのことについて、直接的にではないものの、十分明確に語っています。キリストの肉を食べることと永遠の命についての話は、まさに聖餐に結びついています。11節での言葉遣いが、聖餐式の設定の流れとほぼ一致しているとみなせることからも、それがすでにわかります。

ここで起きた食べ物の奇跡は、イエス様の教えによれば、二次的なものでした。パンを求めてイエス様をさがすのは意味がありません。イエス様の真の使命は、人々に神様の恵みをもたらすことでした。そして、すべての核心にあるのが、キリストの死でした。全世界の罪のために、イエス様は御自分を殺させたのであり、世の罪を帳消しにするために、その血を流してくださったのです。こうしてイエス様は、自ら「命のパン」となられました。イエス様において、「知恵」が祝宴へと招待しています。神様は人々を、暗闇から救い出されて御自分の光の中で生きるように、召してくださいました。この祝宴に招かれた者は、死から命へと移っているのです。

この箇所が最高潮に達するのは、52~59節です。実は、それは「ヨハネによる福音書」の一番の核心となる真理のおさらいでもあります。つまり、人には完全な救いがキリストの中にあり、またキリストの中にしかない、ということです。

荒野で不平を言うイスラエルの民 6章60~71節

食べ物の奇跡は人々に信仰を形成するどころか、逆に破壊することになりました。民は大勢でイエス様の御許に押し寄せましたが、今彼らは同じように大勢でどこか別の方角へと去っていきます。イエス様の「命のパン」の話が、それを聞いた人々を傷つけ追い払うことになったのでした。自分からすすんで御自分の御許に来る人はひとりもいないので、彼らを無理に引き止めても無駄であることを、イエス様は御存知でした。十二弟子さえ躊躇しました。しかし、ペテロはきっぱりとイエス様への信仰告白をします。その一方では、彼らの中に裏切りの影が忍び寄ってきています。「マルコによる福音書」によく出てくる「メシアの秘密」というテーマは、「ヨハネによる福音書」にも共通するものです。神様の御計画は主の御心通りに実現しようとしています。