ヨハネによる福音書12章 エルサレムへ
- インターネットでヨハネによる福音書12章を読むか聴く(口語訳)
「ヨハネによる福音書」12章の冒頭の言葉(「過越しの祭の六日前に」)は、この章の出来事が来るべき出来事(イエス様の死と復活)に関連していくことを印象付けています。今までにも、ゴルゴタへの道を示すシーンはたくさんありましたが、「ヨハネによる福音書」は、ここからイエス様の受難の道筋を本格的に描写していくことになります。
イエス様の受難と復活を語るときに、「ヨハネによる福音書」は、他の三つの福音書とは異なるやり方で出来事を描写しています。他の福音書には語られているのにこの福音書にはない事柄もたくさんあるし、この福音書でしか語られていない新しい事柄もたくさんあります。このような相違にもかかわらず、四つの福音書は内容的な一致を保っています。「ヨハネによる福音書」は、他の三つの福音書を見事に補完しています。
香油の無駄遣い? 12章1~11節
ベタニヤでの食事の折に驚くべきことが起こります。すべての福音書が語っている女、「ヨハネによる福音書」ではマリアと呼ばれているこの女は、誰にも断らず、不意にイエス様の上に高価な香油を注ぎかけたのです。
香油は量的には約0.3リットルほどであり、極めて高価なものでした。男が一日の仕事で得る賃金はデナリでした。ということは、男の一年分の賃金に相当する価値の香油が一瞬にしてイエス様の上に注がれてしまったことになります。すべての福音書は共通して、弟子たちがこの浪費に憤ったことを伝えています。この香油で得るお金を貧しい人々に分けることもできたはずだからです。
「申命記」15章11節を引用しつつ、イエス様はこの弟子たちの女に対する詰問を斥けて、マリアをかばいます。香油の注ぎかけには明らかに二つの意味がありました。まもなくエルサレムに入城されるイエス様を王として宣言する油注ぎの儀式だった、ということと、まもなく死ぬことになるイエス様の身体が墓に収められる準備のための高価な油の塗布だった、ということです。
この段階でイエス様の受難の歴史に登場してくるのが、イスカリオテのユダという悲劇的な人物です。「ヨハネによる福音書」は神様の御計画の底知れぬ深淵を描き出しており、このユダについても、他のいかなる教会の教師たちよりも巧みに、またおぞましく活写しています。このユダの役割は、はじめから明確でした(「ヨハネによる福音書」6章70~71節)。実は、その遥か以前からすでにそう決まっていたとも言えます(17章12節の「滅びの子」という表現)。イエス様を裏切るためにユダが皆のもとを出て行った時ほど、夜が深い暗闇に覆われたことはなかったのではないでしょうか(「ヨハネによる福音書」13章30節)。
イエス様に香油を塗るこの箇所の出来事は、多くの聖書釈義者の理解を超えるものでした。なぜ四つのすべての福音書に、この出来事が収められることになったのでしょうか。この出来事の意味と、私たちが学ぶべき真に核心的な事柄とはいったい何でしょうか。もしかしたら、そのようなことが実は一切存在しない、ということこそが、最も感動的なことなのかもしれません。そこにあるのは、一人の女の人のイエス様への深い惜しみない愛であり、うっとりとさせる香油の薫りであり、イエス様を待ち受ける受苦の出来事への関連性です。そのようなものとして、この出来事は私たち福音書の読者を、聖なる出来事に結びつけるのです。そのことに、この出来事が記述された意味を遺憾なく見いだすことができるでしょう。
エルサレム入城 12章12~19節
イエス様がエルサレムに来られるシーンでは、「ヨハネによる福音書」における描写は他の三つの福音書と共通しています。主は王様のような歓迎を受けました。ロバをイエス様の御許に連れてくる行為は、「ゼカリヤ書」9章9節の預言と直に関連しています。これまでにも私たちは、「ゼカリヤ書」と仮庵の祭との間には直接的な相互関係があることを見てきました。「ヨハネによる福音書」の記す「棕櫚の枝」は、まさに仮庵の祭に関係するものであり、「ゼカリヤ書」の引用と相まって、ここでのすべての出来事を、イエス様が王様としてエルサレムに入城されたことに結びつけています。ここにおられるのは、長く待望されてきたイスラエルの王なのです!
突然の大騒ぎに「何事か」と興味を抱いた群集がイエス様に歓声を送った人々の中に合流して行くにつれて、黒々とした暗雲が次第に立ち込めるようになります。「人の子が挙げられる時」が、間近に迫ってきています。
死について語るイエス様 12章20~36節
イエス様と話す機会を得ようとするギリシア人たちについて、「ヨハネによる福音書」は丁寧に細かく報告しています。彼らは正式に割礼を受けてユダヤ人となった人々ではなく、いわゆる「神様を畏れる人々」、つまりユダヤ人にはならないままでイスラエルの神様を敬う異邦人のことです。
この出来事には私たちの想像を超える大切なことがらが隠されています。ユダヤ人は異邦人とは付き合う習慣がありませんでした。ユダヤ人は、異邦人と一緒に食事をしなかったし、必要に迫られないかぎりは異邦人とコンタクトを取ることもありませんでした。福音書においても、イエス様が異邦人と話をするシーンは稀です(「マルコによる福音書」7章26節)。ところが今、数人のギリシア人がイエス様に会うためにやってきたのです。結局、彼らはイエス様に会うことができなかったのですが、それは彼らがユダヤ人ではなかったからではありません。神様の大いなる御計画は今や大変な勢いで進み始めており、人々が新たにイエス様にコンタクトを取る時間の余裕は、もはやこの段階ではなくなっていたのです。それゆえ、異邦人にとってのイエス様の真の重要性は、イエス様の復活の後になってようやく明らかになったのでした。
これまでも「ヨハネによる福音書」において、イエス様は「御自分の時」について何度も話してこられました(2章4節、7章6節)。今やその「時」が来たのです。人の子は栄光を受けますが、この「栄光」はイエス様御自身も驚愕するほどの迫力です。この栄光とは「一粒の麦の道」です。それは、あらゆる防御を失って、死ぬことを意味していました。イエス様のたとえについて多くを語らない「ヨハネによる福音書」においては、この一粒の麦のたとえは、めずらしいものといえるでしょう。
27~30節は、ゲッセマネの園でのイエス様の祈りの戦いについて「ヨハネによる福音書」が語っている、とみることができます。この箇所では、死を直前にして震えつつも、御父から与えられた道から退かない神様の御子が祈り戦っている様子が描写されているからです。イエス様の受洗の出来事(「マルコによる福音書」1章9~11節)も、このシーンを読むときに思い浮かぶ箇所だと思われます。
もうひとつ想起されるのは、「マルコによる福音書」8章のフィリポ・カイザリヤへ向かう道すがらでの出来事です。そこでは、ペテロの立派な信仰告白を受けて、イエス様は御自分の道がこれから十字架と受苦へと下降していくことを明らかになさいました。「マルコによる福音書」と同じく、「ヨハネによる福音書」にも、この箇所にはイエス様から弟子たちへの忠告が記されています。すなわち、イエス様に属する人々の道は十字架と苦しみが伴う道だが、この道のみがキリストに従う唯一可能な道である、ということです。この道を通してのみ、私たちは天の父なる神様の御許へと行くことができます。
短い戦いの後で、イエス様の道が明示されました。神様が戦いに加わって、悪魔を支配の座から引き落とします。これは恐ろしい展開を経るものでした。イエス様は「地から挙げられ」、十字架にかけられ、人々皆の侮辱の対象となります。しかし、これによって、イエス様は人々を皆、御許へと引き寄せることになります。各人の受ける裁きは、その人が十字架にかけられた主との関係がどのようなものかによって決定されます。主の中に命があるので、主との絆がなければ人は皆死ぬことになります。たんなる好奇心から群がってきた不信仰な人々は、イエス様に無理解な質問を投げかけます。それはイエス様のこれからの戦いに黒い影を落とすものでした。
「光は暗闇の中で輝いているのに、暗闇はそれを理解しませんでした」 12章37~50節
この章のおわりは、受苦の一連の出来事が始まる前までの、イエス様のこの世における活動の概要をまとめたものとみることができます。「ヨハネによる福音書」の冒頭のロゴス賛歌が今や完全に実現したのです。イエス様はこの「世の光」でしたが、暗闇の支配下にある人々にはこの光を受け入れる用意ができていませんでした。こうして、「イザヤ書」(53章1節、6章9~10節)の預言が成就しました。神様は御自分の民をかたくなにし、霊的な意味で盲目にしたので、彼らはキリストの栄光を見ることができなくなりました。まさにこの盲目さのゆえに、イエス様は十字架にかけられることになったのです。もちろん、キリストの栄光を理解した人たちもいましたし、その中には支配者層の人々さえ含まれていました。しかし、彼らは臆し、無実の人に下される有罪判決を阻止すべく行動に移る勇気がありませんでした。
この章の最後の数節は、大勢の聴衆に向けたイエス様の最後の語りかけでした。それはまた、皆への強い嘆願でもありました。イエス様は天の御父様が遣わされた世の光であり、罪人たちの唯一の救い主です。イエス様と結びつくことが、罪人である人間が永遠の滅びを免れるための唯一可能な道なのです。イエス様を裁き主とみなす必要はありません。神様の真理が各人を裁くからです。そのかわり、イエス様は罪や死や悪魔から罪人を解放する救い主として、かけがえのないお方です。人間にとって、神様の栄光の中に入る道は、この道をおいて他には存在しないからです。