ヨハネによる福音書18~19章 イエス様の受苦について

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

受苦に関する四つの記載

これから、「ヨハネによる福音書」に基づいて、イエス様の受苦の出来事を追っていくことにしましょう。この出来事の核心部分は、四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に共通しています。その一方で、それぞれの福音書には独自の強調点と細部があります。最古の福音書と考えられている「マルコによる福音書」は、他の福音書の成立にも影響を与えていると考えられます。しかし、どの福音書も独自の資料にもとづいているのは確かです。これは、すべての福音書の成立の背景にはイエス様の受苦の出来事を目撃した者たちによる確実な伝承があった、という証拠でもあります。

「ヨハネによる福音書」は、少なくとも「マルコによる福音書」を知った上で書かれていると思われます。それゆえ、他の福音書ですでに語られていることがらのいくつかは、この福音書では省略されているのです。とても重要な箇所さえも記述されていない場合があります。例えば、すでに述べた聖餐式の設定の箇所もそうですし、ゲッセマネでのイエス様の祈りの戦いや、イエス様がユダヤ人の最高議会で尋問を受けるシーンもそうです。一方では、「ヨハネによる福音書」は、独自の資料に基づいて、他の福音書では語られなかったことについても記述しています。例えば、イエス様が捕らえられる前のせめぎあいでイエス様を守るために剣を抜いた弟子はペテロであり、またペテロに傷を負わされた僕の名はマルコスだったことなどです。

「ヨハネによる福音書」におけるイエス様の受苦への道のりの記述では、イエス様の偉大さが前面に出ています。キリストの人間的な面、悲しみや驚愕などについては、すでに以前記されています。今や神様の御子は、死へと向かって毅然とした態度で赴かれます。イエス様を捕らえるために来た者たちは後ずさり、地に倒れます。ピラトは恐れを抱きます。しかし、あらかじめ人の子は、受苦への道の歩みをことごとく知っておられたのです。

捕らえられるイエス様 18章1~14節

「ヨハネによる福音書」は、ゲッセマネでのイエス様の祈りの戦いについては語りません。イエス様がおられた園の名さえ記していません。すでに扱った箇所(12章23~33節)には、この出来事と内容的に関連する大切な記述が残されています。すなわち、御父は御子に杯を与えられた、御子はそれを飲み干さなければならない、ということです。「マルコによる福音書」14章36節で、イエス様が自分のもとから退けられるように祈ったこの杯は、「エレミヤ書」の次の御言葉を思い起こさせます、「この怒りのぶどう酒の杯を私の手から取り、私があなたを遣わすあらゆる国民にそれを飲ませなさい」(「エレミヤ書」25章15節)。イエス様の使命は、全世界のために天の父なる神様の怒りの杯を飲み、それによって全世界の罪を取り除くことだったのです。

ユダがどうしてあのようなそぶりをしたか、夜に外出したことがある人なら誰でもわかるでしょう。過越の祭の時期には満月があたりを照らしていたとはいえ、逃げ出す人々の一群の中から目的の人物を見つけ出すことは難しかったでしょう。もしもここでイエス様を捕えることができなければ、翌朝にはエルサレムで宗教的な騒乱が起こることにもなりかねません。ペテロが剣を抜いたのも、混乱に乗じてその場を脱出するための方便であったかもしれません。しかしイエス様はその機会を利用せず、天のお父様が御自分にお与えになった使命を終わりまで遂行するおつもりでした。

イエス様は御自分を捕らえに来た者たちのことを避けようとはせず、彼らに向かって毅然とした態度をとられます。彼らの問いかけに対するイエス様のお答えには、「ヨハネによる福音書」によくみられるように、「それは私だ」、と、「私はある」、という二重の意味が込められています。後者の意味からもわかるように、ここでのポイントは、イエス様が本当に神様であり、神様としてその場に臨在なさっている、ということです。この言葉にけおされて、捕縛者たちは恐怖にとらわれ、後ずさりします。彼らはしかし、どうにかこうにかイエス様を捕らえることができました。

「ヨハネによる福音書」は、イエス様が死なれた当時のユダヤ教の祭司階級の状況をよく伝えています。西暦6~15年に大祭司の座にあったアンナスはローマ人によってすでに罷免され、当時大祭司の職にあったのは、彼の親戚カヤパでした。イエス様がユダヤ人の最高実力者のもとに連行された際、まず行ったのはアンナスのところでした。そしてその後で、当時大祭司の職にあったカヤパ(在職期間18~37年)のところにイエス様は連れて行かれました。

イエス様を否認するペテロ 18章15~18節

「ヨハネによる福音書」は、弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ出したことを記していません。それはおそらく、読者がすでにこのことを他の福音書などを通じて知っていることを想定してこの福音書が書かれているためだ、と思われます。ここに登場する「もうひとりの弟子」が、「イエス様が愛しておられたあの弟子」と同一人物であるのはまず間違いありません。この不思議な弟子は、ペテロには開かれなかった門を通して、中庭に入ることができました。つまり、ここで語られているイエス様の受苦の出来事は、その場で一部始終を目撃していた人物による、きわめて確実な伝承に基づいていることになります。彼は大祭司の知り合いであり、一般の人々が知らない裏の事情にも通じていました。一方では、彼は、イエス様のすぐ傍らで過越の食事をし、そこでの一部始終を間近から見ていたのです。ユダヤの山中の4月の夜は冷え込みます。門衛に、イエス様を知らない、と言って、今までの自分の信仰を捨てたペテロは、いくら焚き火で温まろうとしても、ちっとも温まらず、心は不安でいっぱいでした。

「この方に属する人々はこの方を受け入れませんでした」 18章19~24節

これまでに私たちは、「ヨハネによる福音書」の読者として、人間はこの世に神様が遣わされたまことの光を見ることができないほど盲目である、ということを学びました。神の選ばれた民(ユダヤ民族)の代表者であるアンナスは真理を見ることができず、状況を正しく把握する能力にも欠けていました。そのため、イエス様は虐待を受け、捕縛されてカヤパのもとに送られることになりました。福音書の記述から察するに、イエス様は一晩中そこで縛られたままでした。

この箇所の「ヨハネによる福音書」の描写は、とりわけ「ルカによる福音書」のものと合致します。イエス様や使徒たちがファリサイ派の人々と出会ったときには、さまざまな問題について激しい議論が戦わされました。にもかかわらず、そうした論争には、たとえ意見が違っていても互いを論敵として認め合う、という関係がありました。ところが、神殿の祭司階級を代表するサドカイ派の人々との関係は、それとはまったく異なっていました。ファリサイ派のシモンのように(「ルカによる福音書」7章36~50節)サドカイ派の誰かがイエス様を自分の家の食事会に招待するなどということは、およそ想像もできないことでした。サドカイ派の人々や大祭司たちがイエス様の御許にやって来た時には、真っ当な論争などにはなりませんでした(「マルコによる福音書」12章18~27節)。まさしく彼らこそが、イエス様とイエス様のことを証する人々を積極的に死に追いやったのです。

イエス様を再び否認するペテロ 18章25~27節

ペテロは門衛の女の質問をどうにかやり過ごしました。しかし、それよりもはるかに切り抜けるのが難しい状況が、焚き火に当たっている男たちの中に混ざっている時に、彼を待ち受けていました。ペテロに怪我を負わされたマルコスの親戚が、園でペテロがイエス様と一緒にいたのを、皆のいる前で指摘したのです。ペテロはそれを否定し、鶏が鳴きました。この福音書には、ペテロがその時泣き出したことが触れられていません。このペテロの否認の出来事は、非常に感動的な形で、福音書の最後の章にて再び取り扱われます。

ピラトの尋問 18章28~38a節

ローマ人は、ユダヤ人に自律した支配権を広範囲に認めていましたが、きわめて重要な決定事項に関しては、依然として裁決権を保有していました。こうした決定事項の中には、死刑の宣告も含まれていました。そうした理由から、イエス様は、ローマ人の総督の手で裁かれることになったのでした。

ポンテオ・ピラト(Pontius Piratus)は、ユダヤ属州総督を西暦26~36年の間に務めました。彼がこの職に任命されたのは、皇帝ティベリウスの信任厚い親衛隊長官(Praefectus praetorio)ルキウス・アエリウス・セイヤヌス(Lucius Aelius Seianus)のあからさまな反ユダヤ主義的な政策の一環であったと思われます。当時のユダヤ人たちが残した資料によると、ピラトは残虐で、しばしばユダヤ人を故意に侮辱する行動を取る支配者でした。ついには過酷さの度が過ぎて、彼の直接の上官であるシリア総督ウィテッリウス(Vitellius)によって罷免され、引責のためローマに召還されました。おそらくそこで彼は39年に自殺したものと思われます。イエス様の受難史に描かれている出来事の頃、ピラトの立場は度重なる失策のために危うくなっており、さらには彼の擁護者だったセイアヌスも反乱の罪ですでに処刑されていた可能性があります(セイアヌスの処刑は31年)。ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、そうして生じたごくわずかの政治的な自由を行使して、このような不安定な状況の中で小利を稼ぐ達人でした。上述のことを念頭に置くと、なぜローマの地方総督ともあろう者が優柔不断な態度をとる存在として福音書に描かれているのかが納得できます。ピラトにはもはや政治的な過失を重ねる余裕がなかったのです。

ユダヤ人たちの取った作戦は単純で、当時の歴史的状況から見ても理解できるものです。ローマ人たちは、安息日を破ったからという理由で、人を死刑にする気はまったくありませんでした。イエス様を目の前から取り除くためには、「この男はユダヤ人の王になろうとした」、という罪状によらなければなりません。(ヘロデ王の)宮殿の庭には、互いに心底から侮蔑し合っている二つのグループが立っていました。ユダヤ人たちはピラトを必要としていましたが、宮殿の中には入ろうとはしませんでした。「異邦人の家は汚れている」、というのが、一般的なユダヤ人の教えだったからです。異邦人の家の中には、ユダヤ人を汚すもの(特に偶像の絵など)があってもおかしくはなかったからです。ユダヤ人は、そうしたもので汚れると、再び清くなるまでに七日間も隔離される場合もありました。過越の祭を目前に控えて、誰もあえてこのようなリスクをとりたくなかったのは当然だったと言えます。自分を清く保つことに神経を尖らせていた「神の民」の代表者たちは、神様の御子を死刑に処するために、ピラトを宮殿の外で待ち続けました。なんともひどい構図です。

ピラトは、イエス様についての案件をなかなか取り扱おうとはしません。やっと重い腰を上げてからも、彼はユダヤ人を小馬鹿にしたような態度を取ります。「はたしてイエスは王であるかどうか」、というのがその争点でした。どの福音書においても、イエス様はピラトに単純明快な回答をお与えにはなりません(「マルコによる福音書」15章2節を参照してください)。とりわけ「ヨハネによる福音書」においては、意図的に二通りの意味で受け取れる回答になっています。それによると、「イエス様は、この世の王ではないが、神様がこの世に遣わしたキリストという王である」、ということです。イエス様がこの世に来られたのは、地上の権力を手中にするためではなく、真理をもたらすためでした。地方総督や裁判官という立場とは関係なく、ピラトもまた、他の人々と同様に、生死の問題に、すなわち、「命と死、暗闇と光、神の真理に対して目をそらすかそれとも開くか」、という問題に対峙することになります。「真理とは何なのだ」、とピラトは尋ねます。彼は、「血筋や肉の欲や人の欲によらず、神様によって生まれた」(「ヨハネによる福音書」1章13節)人々の中には属していなかったのです。

真理についてのピラトの言葉は、驚くほど現代にも通じるものです。当時、人間の人生に関しては明確な答えがないことを強く意識していた哲学の流派がありました。この世の出来事を懐疑的に観察し、万物を統べるような永遠の真理の存在を否定する哲学者たちがいたのです。一方で、現代のキリスト教は、教義に関する挑戦状を突きつけられています。神様とその福音こそが最終的な真理である、ということがキリスト教信仰の出発点です。しかし、現代の西欧の考え方は、キリスト教に限らず、一般的にも、このような「諸真理」の存在をすべて相対化しようとします。このようにして、現代の人々は、まったく新しいタイプの偽の「キリスト教」を密かに捏造しつつあります。この「キリスト教」によれば、人はそれぞれ、自分に合った「神」と「生き方」を作り上げ、教義的な問題などは一切無視して、美しいローソクの光などといった、フィーリングや体験ばかりに関心を向けます。本来、「真理とは何か」という問題は、キリスト教信仰の末節ではなく、その根幹にかかわることです。しかし、一体誰がこのことを理解して、非常警報を打ち鳴らすのでしょうか。人としてお生まれになった神様(イエス•キリスト)の御言葉こそが、あらゆる「諸真理」の上位に位置する本物の真理なのです。

死刑の宣告を受けるイエス様 18章38b節~19章16a節

過越の祭はユダヤ人の大きなお祝いであり、その核をなしていたのが過越の食事でした。普通ならこの食事にありつけないはずの者を食事に招くのは、「よきわざ」とされていました。囚人を招待するのがその一例でした。過越の祭の時に囚人が恩赦を受けて釈放される具体的な事例は、福音書以外の文書からは見つかっていませんが、知られているその他の歴史的な事例と整合するような慣習であるのは確かです。

「ヨハネによる福音書」は、バラバのことを「強盗」と呼んでいます。「マルコによる福音書」15章7節によると、バラバは暴動の際に人を殺しました。これらの記述は整合的です。ユダヤ人の立場からみると、ユダヤ民族の自由のために戦う闘士である人物は、ローマ人の立場からみると、たんなるテロリストであり、強盗にすぎなかったわけです。バラバがイエス様の代わりに実際に赦免されたかどうか、「ヨハネによる福音書」は語っていません。ピラトは、状況を打開するために実力行使に出ます。その結果、イエス様はひどく鞭打たれることになりました。それがどれほど酷いものだったかは、私たちの想像を超えています。イエス様が十字架の上でわずか数時間以内に死なれたのは、疑いもなくこの鞭打ちが原因でした。鞭打ちによる流血と昼間の暑さがイエス様の死を早めました。

鞭打ちに加えて、イエス様は兵士たちから侮辱を受けました。彼らは、王様が着るような高価な紫の上着を持ち出してきました。茨を編んで冠が作られました。パレスチナで任務に就く兵士たちは、主としてシリアから徴用されました。彼らはユダヤ人に敵意を人一倍抱いていたからです。このようなグループが、ユダヤ人の王を手中にし、嬉々として残虐な行為に耽りました。ここに、人間というもののおそるべき暗黒面がよくあらわれています。

「ヨハネによる福音書」の描き方から、イエス様を鞭打ち侮辱させたのは、実はピラトがイエス様を殺さずに釈放するための方便だったのではないか、という印象を受けます。ピラトはイエス様を民の前に連れ出します。この男はもう誰にとっても危険人物などではない、ということを示したかったのでしょう。虐待を受けた王は、御自分の民からの激しい怒りを一身に浴びます。そして、ピラトは彼らからイエス様の真の罪状を知らされます。この男は自分を神の子とした、というのです。うろたえたピラトはイエス様に、お前は一体何者か、と尋ねますが、イエス様はお答えになりません。窮地に追い込まれたピラトには、もはやなすすべもありませんでした。もしも王になろうとする人物を釈放すれば、ユダヤ人たちから異議申し立てを受けるのに決まっています。ピラトには、これ以上職務上の過失を重ねる余裕などはなかったのです。ユダヤ人たちは、自分たちのメシア待望をとりあえず脇に置いて、今まで憎んできたローマ皇帝をキリストの代わりに受け入れることにします。こうして、史上最大の誤審が起きたのでした。

十字架に磔にされるイエス様 19章16b~27節

「ヨハネによる福音書」は、イエス様のゴルゴタへの道と十字架にかかるまでの出来事を簡潔に語ります。ピラトは復讐心から、「ユダヤ人の王」という罪状書きによって、ユダヤ人の指導者たちへの侮蔑をあらわにしました。「ユダヤ人の王」であるためにこの男は十字架にかけられた、という罪状は 、この地における真の権力者が一体誰であるかを、通行人全員に改めて確認させるものでした。「私はユダヤ人の王である」という罪状書きのほうが、ユダヤ人たちにとっては好都合だったことでしょう。しかし、ピラトは、この「ユダヤ人の王」に起きたことは他のユダヤ人のどんな王に対しても起きることだ、ということを明示したかったのです。十字架の下で、悪の力は堰を切ったように猛威を振るいます。十字架に打ち付けられた神様の御子の目の前で、御子自身にとってはすでに不要になった衣服を誰が受け取るか、くじが引かれました。しかし、まさにこの侮辱的な行為において、イエス様の十字架刑の出来事が神様の大いなる御計画の通りに進行していることが明瞭に示されています。「詩篇」22篇19節の御言葉1が実現したのであり、あふれる歓喜に包まれる同じ「詩篇」の終わりの部分も、同様に必ず実現しつつある、ということなのです。十字架の下には証人が立っていました。それはイエス様の最愛の弟子でした。彼にイエス様は、御自分の母親の世話をゆだねました。この弟子はイエス様の従兄弟あるいは親戚だった可能性もあります。「マタイによる福音書」(27章56節)によれば、十字架刑の現場には、ゼベダイの子らの母親がいましたし、「ヨハネによる福音書」(19章25節)によれば、数人の女たちの中にはイエス様の母親の姉妹がいました。

イエス様の死 19章28~37節

「ヨハネによる福音書」は、十字架の出来事の本質を最後までしっかりと描き切ります。暗闇や、失望の叫び声や、悲嘆にくれた祈りなどについては記しません。イエス様は本当の人間として苦しみを受けられました。「ヨハネによる福音書」が書かれた時代にはすでに、「イエスが苦しんだのは実体を持たない霊としてだけだ」、と主張する人々がいましたが、それは間違っています。十字架の上で死にゆく王様の強大な権威は、地獄のような苦しみの中でも、崩れ去ることがありませんでした。天の御父様から受けた使命を全うなさった後で、イエス様は息を引き取られたのです。

「モーセの律法」は、木に架けられた男を太陽が沈む前に墓に葬るように命じています。それは、十字架刑に処せられた者は神の呪いを受けている、とみなされたので、もしも外に放置しておくと、この呪われた者が聖なる地を汚すことになってしまうからでした。十字架で長時間苦しんだ上で死んでいかなければならない人々への同情心からではなく、 汚されていない地で過越の祭りを祝うために、ユダヤ人たちは、死刑囚を速やかに十字架から降ろすことを、ピラトに願い出たのでした。その時点で、死刑囚の足の骨(脛骨)を折り、大量に内出血させて死を早める手段(ラテン語でcrucifragium)がとられるのが普通でした。

イエス様のところに来たとき、足を折りにきた専門家たちは、十字架上のイエス様を見て、もうわざわざ足を折る必要がないことを告げました。普通の人が死ぬようにして、ユダヤ人の王は死にました。実際に死んでいることを確認するために、イエス様のわき腹を槍で付きました。傷口が開いたわき腹からは、血と水が流れ出ました。医学者たちは、何十年間も議論した末に、このような現象は死んだばかりの人間についてはありうる、というほぼ一致した見解に至りました。

イエス様のわき腹から血と水が流れ出た、と語る「ヨハネによる福音書」は、ここで何を言いたかったのでしょうか。様々な説明があります。イエス様の内側から今や命の水の泉が流れ出るようになったこと(7章38節)を意味していたのかもしれません。あるいは、洗礼(水)と聖餐(血)のことを示唆しているのかもしれません。または、十字架の傍らに立っていた証人に強い印象を与えたこの不思議な出来事を読者に伝えたかった、ということもあるでしょう。この証人が、何らかの形で「ヨハネによる福音書」の成立に関係していたのは、間違いありません。たしかにイエス様は息を引き取られました。しかし、無意味な暴力の犠牲者としてではありません。イエス様の死の瞬間においてもなお、万事は神様の御計画の通りに事が進んでいたことを示す奇跡が起きていたからです。

イエス様が槍で突かれ、釘で打たれ、傷ついた時、「ゼカリヤ書」12章10節の御言葉が成就しました。旧約聖書からのもう一つの引用箇所は、「ヨハネによる福音書」にとって、非常に重要な意味をもつことがらに関係しています。すなわち、イエス様は神様が定められた「過越の小羊」である、ということです。かつて「主の過越」がエジプトに隷属していたユダヤの民を解放したように(「出エジプト記」12章)、私たちの罪のためにほふられる「神の小羊」もまた、罪人たちを暗闇から光へと導き出してくださるのです。

 

イエス様の埋葬 19章38~42節

すべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、アリマタヤのヨセフがイエス様を埋葬した、と記しています。「ヨハネによる福音書」では、ここにもうひとりの人物が登場します。彼、ニコデモは、始めの頃は、昼間堂々とではなく、夜にこっそりとイエス様を訪ねる程度の勇気しか持ち合わせていませんでしたが、後には、ユダヤ人の最高議会において、自分なりのやり方で、イエス様のことを弁護するほどまでになりました。ユダヤ人たちは大急ぎで仕事に取りかかりました。ユダヤ人には埋葬の前に遺体を洗い清める習慣がありました。しかし、このことに関しては、どの福音書も語っていません。ヨセフとニコデモは、30キロもの大量の高価なクリームを持参しました。こうして速やかに、イエス様は 王として埋葬されました。