ヨハネによる福音書14章 道、真理、命

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

この章から始まる長大な箇所は、イエス様の名高い「告別の辞」を含んでいます。実はこのお別れの挨拶は、すでに13章31節から始まっており、17章のおわりまで続いていきます。古典時代には、偉大な人物の生涯最後の言葉に対して特別な関心が払われました。その意味では、「ヨハネによる福音書」においても、イエス様の告別の辞にはとりわけ大切な意味が込められていると言えます。

天のお父様の御許への道 14章1~14節

  今までの話と直接的には関係がない話を、イエス様はここで始められます。それは、イエス様が天のお父様の御許に戻られて、そこで御自分に属する者たちのために場所を用意してくださる、という約束です。「ヨハネによる福音書」はすでにその1章から、イエス様がこの世に人間としてお生まれになる遥か以前からすでに存在なさっていたことを強調しています。今や、主が栄光の中へと帰る時が訪れました。御自分に属する人々のための場所を天のお父様の御許に用意する、という主の使命は、いよいよ仕上げの最終段階に入りました。   イエス様に属する人々が栄光の幕屋に入ることについて、イエス様が語られるとき、そこには二つの視点が含まれています。ひとつは、他の三つの福音書が強調する「最後の裁きの時のキリストの再臨」です。この視点は、「ヨハネによる福音書」にもあらわれています(特に14章3節。また11章24節も参照のこと)。しかし、「ヨハネによる福音書」においてこの視点よりもさらに強調されているのは、「人はキリストに出会って信じる時に、死から命へと移っており、裁きを受けないで済むようになっている」、という視点です。この事実は、イエス様のお話や弟子たちの質問の中にはっきりとあらわれています。トマスとフィリポは両者そろって、実は同じテーマに関する質問を提示しています。トマスは天のお父様の栄光の御許への道を知りません。フィリポは天のお父様を見てみたいと願います。イエス様のお答えは、天のお父様への道を指し示すものでした。すなわち、イエス様を知ることが道であり、しかも天のお父様の御許への唯一の道である、ということです。イエス様を知るようになった人は、天のお父様をも知るようになったのです。このように御父と御子は一つなのです。父が子の中におられ、子が父の中におられるからです。イエス様に属する人々の活動を通して神様の奇跡が繰り返し起きるという約束は、来るべき教会の全世界伝道をすでに予見するものと言えるでしょう。

聖霊様をいただく約束 14章15~31節

14章の後半のメインテーマは、聖霊様がイエス様の弟子たちに助け主として与えられるという約束です。「助け主」(ギリシア語で「パラクレートス」)という言葉には多くの意味があります。ユダヤ教の文献にも、クムランのユダヤ人社会の中にも、また後にはマンダ教の文献の中にも、この「助け主」に多少似かよった者の存在が指摘されています。しかし、それらの文献は新約聖書の「助け主」の理解には役に立ちません。

新約聖書の「助け主」は、キリスト信仰者の弁護者であり(「ヨブ記」33章23節を参照のこと)、とりなしの祈りをし(「ヨハネの第一の手紙」2章1節)、助けを差し伸べられる方(とりわけ今扱っている箇所)です。この箇所からわかるように、 イエス様が天に挙げられ、もはや普通の肉体をもって御自分に属する人々の中に常住することがなくなった状況において、聖霊様は、彼らキリスト信仰者たちを助け続けてくださいます。まもなくイエス様は弟子たちのもとを去ろうとしておられます。しかし、助け主の働きのおかげで、イエス様に属する人々は、イエス様が天に挙げられた今でもなお、イエス様を見ることができます。「世の人々」とは異なり、イエス様に属する人々は、御父が御子の中にあり、御子が御父の中にあり、イエス様が彼らの中にあり、彼らがイエス様の中にあることを理解します。こうして、 眩暈を覚えるほどの神学的な高みに私たちは一瞬にして連れ去られるのです。一方、世にとっては、助け主は理解しがたい奇妙な存在であり、これからもそれは変わりません。

この箇所のもうひとつのメインテーマは、イエス様に属する人々が彼らの師、イエス様の御言葉に対して従順を貫かなければならない、ということです。もしも人がイエス様を愛しているのならば、その愛は人の具体的な活動の中にあらわれます。その人は、主御自身が言葉で伝えてくださった御心に従いたい、という思いをもちます。これは、「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの手紙」の中で繰り返し強調されていることです(例えば「ヨハネの第一の手紙」2章7~11節)。主への愛とは、たんなる机上の空論ではなく、イエス様の御言葉を真理としてそのまま真剣に受け入れることなのです。イエス様を愛している人は、その一方でイエス様の御言葉を拒絶はできないはずです。この箇所の最後の部分では、暗闇が栄光を覆い始めています。イエス様の十字架の道への時が、すぐそこまできています。御子が天の父なる神様の御旨に対して従順を通されます。それは、御子が先に自分で言われたことを実行なさる、ということです。天のお父様への愛は、具体的な活動を通して測られます。そして、主イエス様は十字架への道へと向かわれます。