使徒言行録13章 全世界の福音

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

宣教師への召し 「使徒言行録」13章1〜3節

いままで何度も注意を促してきたように、これまでの「使徒言行録」の記述において福音宣教の対象はユダヤ人がほとんどでした。しかし、シリヤのアンテオケから新たな展開が始まります。それは当時知られていた世界全体を根本的に革新する出来事でした。パウロとバルナバが周辺諸民族の間で伝道するための宣教師としてアンテオケ教会から派遣され異邦人に対する世界福音伝道が実行に移されたのです。

「使徒言行録」13章の出来事は40年代後半に起きたものと推定されています。ということはキリスト教会が誕生してからすでに15年ほどが経過していたことになります。

「さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。」
(「使徒言行録」13章1節、口語訳)

この節には5人の男の名前が挙げられています。名前からだけでもいろいろなことがわかります。例えば「ニゲルと呼ばれるシメオン」は肌の色が黒かったのでしょう(「ニゲル」はラテン語で黒色という意味です)。彼はまずユダヤ教に改宗しそれから後にキリスト信仰者になったものと思われます。

もうひとりの興味深い人物は「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」です。彼は王宮の関係者でした。最初の頃からキリスト教会には当時の社会の上流階層の裕福な人々が属していたのです。

研究者たちに注目された三人目の人物は「クレネ人ルキオ」です。実は彼は「使徒言行録」を書き記したルカ本人だったのではないかと推定する人々もいます。

また北アフリカ、ガリラヤ、キプロス、キリキヤ(現在のトルコの地域)というようにアンテオケ教会の指導者たちは地中海の東部の様々な地域の出身だったことになります。

とはいえ、異邦人伝道が始まったのはこれらの指導者たちの意思によるものではなく、聖霊様の御意思によるものでした。聖霊様がどのようにして御意思をあらわされたのかははっきりわかりませんが、アンテオケ教会に集っていた信仰者たちは神様が彼らに何をしてほしいと望んでおられるかはっきり自覚していたことに私たちは気付かされます。もしかしたら教会にいた誰か預言者が神様から異邦人伝道を行うようにという啓示を受けたのかもしれません。

宣教師を海外宣教のために聖別する式は教会の礼拝で施行されたと考えるのが最も自然です。礼拝は教会生活の中心だからです。異邦人伝道の始まりを告げるこの箇所は現代の宣教師を派遣する時の祝福式を彷彿とさせます。

キプロスでのパウロとバルナバ 「使徒言行録」13章4〜12節

シリヤのアンテオケからパウロとバルナバがアンテオケの港町セルキヤに出発したのはおそらく47年のことでした。この港町はアンテオケの西方25キロメートルのところにありました。晴れた日にはこの町の海岸からはキプロス島の山頂が見えたことでしょう。この島は海岸から100キロメートルほど離れたところにあったからです。

セルキヤではキプロス(口語訳で「クプロ」)行きの貨物船が簡単に見つかりました。当時、旅客船なるものは存在せず、旅人はお金を払って貨物船の甲板に自分の「席」をとったのです。

パウロとバルナバがキプロス島に向かったのは自然な流れでした。バルナバはこの島の出身だったからです。当時のキプロス島は銅の採掘地として有名でした。島名(Cyprus)に基づいてこの金属のラテン語名(cyprum)が与えられたほどです。

パウロとバルナバはサラミスからキプロス島に上陸しました。サラミスは現在のファマグスタからみて少しばかり北に行ったところにあります。実はキプロス島にキリスト教信仰の福音を伝えた最初の宣教師はパウロとバルナバではありません。遡ること10年ほど前(11章19節)、ステパノの石打ちの刑から始まった迫害の頃にはすでにキリスト信仰者たちがこの島に上陸していたのです。その時にはキプロス島に教会が設立されなかったことから推察すると、おそらくこれら最初の伝道者たちの働きは目に見える形では実を結ぶことがなかったのでしょう。

パウロとバルナバはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で伝道を開始しました(13章5節)。ユダヤ人の歴史家ヨセフスと哲学者フィロンがそれぞれの著作で語っているところによれば、当時のキプロス島にはユダヤ人がとりわけたくさん住んでいました。ルカはサラミスでの出来事については何も語ることなく、そのまますぐにローマ人の支配するパポスという町での出来事に話題を移しています。キプロスは西暦22年以降ローマ帝国の属州となっており、当時この島でローマの権力を代行した地方総督の地位にあったのはセルギオ・パウロという人物でした。

セルギオ・パウロのところにはバルイエスというユダヤ人の偽預言者が出入りしていました。この男は「魔術師エルマ」とも呼ばれていました。

何か重要な決定を下す際に魔術師に助言を求めることは当時では決して珍しいことではなく、むしろ入念にことを進める際のごく普通のやり方でした。

セルギオ・パウロが新参者の伝道者たちに耳を傾けることをバルイエスが快く思わなかったのは明らかです。パウロはしばらくの間はバルイエスの反対を甘受していましたが、それにも限度がありました。「バルイエス」は文字通りの意味だと「イエスの息子」あるいは「ヨシュアの息子」ですが、このバルイエスという魔術師はパウロとバルナバが宣べ伝えているイエス様の息子すなわち弟子などではなく、イエス様の敵対者サタンの追従者「悪魔の子」(13章10節)であることをパウロは看破しました。そしてパウロの予言した通りにバルイエスは視力を失いました。この出来事をダマスコに向かう途中のパウロに起こった出来事と比較してみるのもよいでしょう(9章8〜18節)。

魔術師が盲目となった奇跡は地方総督セルギオ・パウロがいったい誰の話に耳を傾けるべきであり誰を信じるべきであるかということについての証となりました。セルギオ・パウロが洗礼を受けたのかどうか、またパポスにキリスト教会が生まれたのかどうか、聖書には何も書かれていないため私たちにはわかりません。

この事件はルカにとってかなり重要な意味をもったようです。なぜなら、この事件以降「バルナバとサウロ」とは言わずに「パウロとその一行」(13章13節)という表現が用いられるようになったからです。この時以来、パウロは異邦人にキリスト教信仰を伝道することについて誰もが認める第一人者となりました。

キリスト信仰者になる前、パウロは二つの名前をもっていたと思われます。ヘブライ人名の「サウル」とギリシア・ローマ人名の「パウロ」です。パウロはラテン語で「Paulus」といい「小さい」「少ない」「背が低い」といった意味があります。

道が分かれる 「使徒言行録」13章13節

「パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。」
(「使徒言行録」13章13節、口語訳)

パウロの一行がキプロスから大陸(現在のトルコの南方の海岸部)に戻ってきた時にマルコというヨハネはパウロやバルナバと分かれてエルサレムに帰りました。彼が離脱した原因ははっきりしません。彼はまだ若かったために故郷が恋しくなって家に帰ったのだと単純に解釈する人々もいれば、彼は異邦人の他の地域で福音を宣べ伝える旅に出たくなかったのだと推測する人々もいます。さらに、彼は割礼を要求しない福音を宣教するパウロとバルナバの伝道の姿勢に不安を覚えたため、この件について報告するためにエルサレムに帰ったのだろうと考える人さえいます。この最後の説によれば、このマルコというヨハネこそが「使徒言行録」15章に記されている出来事と使徒会議の開催を促した関係者の一人であったとされます。

彼らの道が分かれた理由が何であれ、第二回宣教旅行のときにパウロがマルコというヨハネを同行させたがらなかったのに対して、バルナバは同行させることを希望したために、パウロとバルナバの道も互いに分かれてしまうことになります(15章37〜41節)。

ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教 「使徒言行録」13章14〜41節

ルカはペルガでの出来事を述べることなく、そこから160キロメートルほど北方にあるピシデヤのアンテオケでの出来事にそのまま話題を移します。より正確に言えば、アンテオケはピシデヤの中にではなく、それに隣接するフリギヤ地方のピシデヤの境界近くにありました。

この町でもパウロとバルナバはユダヤ人の会堂に行き、ユダヤ人だけにではなく神様を敬う異邦人(13章26節)にも福音を宣べ伝えました。

ユダヤ人の礼拝では旧約聖書の中からモーセの律法と預言書からテキストを選んで朗読されました。預言書の解き明かしはユダヤ人成人男子ならば誰でもしてよいことになっていました。それゆえ、その町を訪れたよそ者が会堂で説教するように頼まれるのはとりたてて驚くべきことではありませんでした。

ここでのパウロの説教は次のように四部に分けることができます。
1)イスラエルの歴史(16〜25節)
2)人々の救い主なるイエス様(26〜31節)
3)旧約聖書に基づいてイエス様がメシアであることを証明する(32〜37節)
4)聴衆への奨励と警告(38〜41節)

パウロはこの説教の中でイスラエルの歴史をダビデの時代のところまで説明した後、古い契約(すなわち旧約)を宣べ伝えた最後の使者、洗礼者ヨハネに話題を変えます。「約四百五十年の年月」(13章20節)とは、イスラエルの民がエジプトに移り住んでいた時期(400年間)と出エジプト以後の荒野での旅の期間(40年間)およびカナンの征服に要した年月(10年間)をすべて加算したものに相当します。

イスラエルの歴史は会堂のユダヤ人には周知の内容でした。それに対して、ナザレ人イエスこそが旧約聖書でその到来の約束されていたメシアであり救い主である、というパウロの主張は彼らにとっても初耳でした。

この主張をパウロはイエス様の死者からの復活を証する人々の言葉と旧約聖書の次の三つの引用箇所によって裏付けています。

「詩篇」2篇7節(「使徒言行録」13章33節に引用)
「イザヤ書」55章3節(「使徒言行録」13章34節に引用)
「詩篇」16篇10節(「使徒言行録」13章35節に引用)

説教の終わりでパウロは聴衆にイエス様を救い主として受け入れるように奨励する一方で、復活の主を拒絶する者にはいかなる結末が待っているかについても警告しています。また13章41節は「ハバクク書」1章5節に呼応する警告です。

新しい局面に入ったことを示す出来事については他の出来事よりも詳細に述べるのがルカの書き方の特徴であると思われます。これは容易に納得できることです。詳述される出来事は特に重要なものであるため、ルカはその時になされた説教の内容について使徒たちの他の説教よりも事細かく書き留めたのです。

パウロがピシデヤのアンテオケで行った説教は彼が海外宣教でしばしば行なったと思われる典型的な説教とみなすこともできるでしょう。同じようなスタイルでパウロはきっと他の多くの町や会堂でも説教しただろうからです。ルカは知っていたパウロのすべての説教を「使徒言行録」の中に採録することはできなかったため、最も重要であると思われるいくつかの説教を選別したのです。

好意と敵意 「使徒言行録」13章42〜49節

パウロの説教の聴衆の中にはもっと話を聴きたいと考える人もいて、彼らとの対話はシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の外でも続けられました。

使徒たちに次の安息日にも会堂で話してくれるように頼んだのが誰だったのか、ルカは明記していません。もしかしたら使徒たちを招待したのは、パウロの説教の内容を一週間ほどかけてじっくり検討する時間的な猶予を欲した会堂の長老たちだったのかもしれません。とはいえ、すでにこの段階でユダヤ人の指導者たちは使徒の福音のメッセージを拒絶していたと考えることもできます。使徒たちを会堂の次の安息日の礼拝の説教者として実際に招待したのは民衆だったからです。

次の安息日になると使徒たちの話を聞くために町の住民のほぼ全員が会堂に集まってきました。ユダヤの民の指導者たちにとってこのような状態は好ましくないものでした。彼らは使徒たちの収めた成功に嫉妬しただけではなく、使徒たちの説教が律法の重要性を十分に強調していないと考えて不安に駆られたのです。

使徒たちのメッセージをめぐる論争が会堂の外で行われたことからすると、もはやパウロは会堂の中に入れてもらえなくなっていたのでしょう(13章45節)。

論争の末にパウロは以後長期にわたって自身の伝道活動に影響を及ぼしたひとつの結論に達します。それは、イエス・キリストの福音をユダヤ人が受け入れなかったため、今後は異邦人に福音を宣べ伝えることにするという方向転換でした。この結論がそれ以後のユダヤ人伝道の進展を難しくしたのはまちがいありません。しかし一方でそれは異邦人伝道への道を開くことにもなったのです。

パウロたちの伝道の成果として都市部に生まれたキリスト教会がさらにその周辺地域へと福音を宣べ伝えていくことになります。ここでふたたび私たちはパウロの福音伝道の方針が非常に実践的であったことに気付かされます(13章49節)。

旅は続く 「使徒言行録」13章50〜52節

「ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。ふたりは、彼らに向けて足のちりを払い落して、イコニオムへ行った。弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた。」
(「使徒言行録」13章50〜52節、口語訳)

パウロとバルナバがどれくらいの期間ピシデヤのアンテオケで活動することができたのか、ルカは記していません。そこのユダヤ人たちは使徒たちの活動をやめさせなければならないという結論に達しました。しかし会堂から使徒たちを締め出してもその福音伝道やキリスト教会の成長を阻むことはできませんでした。それゆえ福音に反対するユダヤ人は他の対策を講じなければならなくなりました。

「使徒言行録」の後の箇所で何度も気付かされることですが、ユダヤ人はローマ人の役人に政治的に働きかけて自分らの希望を実現させるよう仕向けることに長けていました。

神様を畏れる信仰をもつ異邦人たちの中にはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に通うのをやめなかった人々もいました。ユダヤ教の指導者たちは彼らを利用して町の有力者を扇動し使徒たちを町から追い払いました。一般的にみてローマ人の上級官僚は政治的な理由から宗教問題には関わろうとしませんでしたが、彼らの妻たちは宗教行事に参加することがありました。

ユダヤ人たちは首尾よく目標を達成し、使徒たちは町から追放されることになりました。その際には、イエス様が使徒たちにお与えになった次の指示通りに、パウロとバルナバはその町のちりを振り落としました。

「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。」
(「マタイによる福音書」10章11〜15節、口語訳)

町のちりを払い落とすという行為は、使徒がその町にいた敵対者と一切関わりがなく、それは最後の裁きにおいてもそうであることを象徴的に表しています。

使徒たちを町から追い出しても福音が人々の間に浸透していくことを阻止することはできませんでした。使徒たちが福音を宣べ伝えた町々には次々と教会が誕生し、使徒たちによって始められた伝道を継続していったのです。

町を追われたパウロとバルナバはそこから100キロメートル以上離れたイコニオムに向けて出発しました。そこでの出来事は次の14章で取り上げることにします。