苦しみ、罪

フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

これは、人間がいつの時代にも頭を悩ませてきた問題です。
もしも全能で善い神様が存在するのなら、なぜ神様は、戦争や飢饉や殺人やその他生命を破壊する出来事が起こるのを許されているのでしょうか。
神様にはこれらすべてのことを妨げる権能がないのでしょうか。

聖書はこの問題に対してはっきりとは答えていません。
その一方では、聖書を通して答えの与えられている事柄もあります。
とはいえ、多くの疑問には答えが明示されていません。

聖書が提示する一つの見方によると、この世にある苦しみの多くは人間自身が引き起こしたものです。 戦争や暴力や不実など人の心を深く傷つける諸々の状況を生み出すのは、ほかならぬ人間自身です。 ですから、これらに関して人間は神様を責めることができません。
むしろ、自分の哀れな本当の姿を鏡に映して見ることを余儀なくされます。

一方では、この世には直接人間が引き起こしたものではない苦しみもたくさんあります。
例えば、病気や自然災害などです。
どうして神様はこれらのことを防ごうとなさらないのでしょうか。
この問題は、私たちにとって謎として残ります。

ここで、人生における「逆境」のもつ意味を考えてみましょう。
神様は逆境を通じて人をご自分の近くへ引き寄せようとされているのではないでしょうか。
苦しみが人に与えられるのは、その人が逆境の中で自らの小ささや弱さに気がついて神様のほうへ方向転換するように促すためではないでしょうか。

苦しみは人々を互いに近づける働きもします。
神様の御心は、私たちが苦しんでいる人々を助けることです。
キリストが復活されたことを宣べ伝える福音は、それを聴いて信じる私たちに慰めと希望をもたらします。 同時に真の神でもあり真の人でもあるイエス・キリストは、十字架の死に至る過程で極限の痛みと苦しみを人として実際に体験した上で、それらに勝利して復活なさったからです。

「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」
(聖書の詩篇34篇19節)

神様、悪と苦しみが私の心を圧迫しています。 どうか私を悪から救い出してください。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書はすべてを解き明かす書物ではありません。 人間が救われるために是非とも知っておくべきことについてのみ、聖書は告げています。

悪の起源について、聖書はあまり多くを語りません。 聖書の最初の数章には、本来人間には善か悪のどちらかを選ぶ自由があったことが書かれています。 人間と世界は「よいもの」として創造されました。 しかし、人間はサタン(悪魔)に欺かれて造り主に不忠実となり悪を選んでしまいました。 ここで補足しておきますが、悪魔もまた神様がお造りになった被造物のひとつです。
聖書によれば、かつて悪魔は神様に反抗した天使でした。
サタンは、神様の御心とは反対の行動をするように人間を誘惑します。
そのようにして、この世には悪がはびこるようになったのです。

善そのものであられる神様が、なぜこの世に悪が入り込むのを許されたのでしょうか。
これは、私たちには謎のままです。

しかし、神様ご自身が悪の諸力に勝利なさったことは明らかです。
神様が人としてお生まれになり、私たちの罪のゆえに私たちの身代わりとして十字架で死んでくださったことが、そのなによりの証拠です。

聖書によれば、最初の人間(アダム)は、神様の御心に反する悪の道を選択した際に、自分自身ばかりか自らの子孫たる人類全体をも「罪の奴隷」として売り渡す、というきわめて深刻な事態を招きました。 私たちも、最初の人間による罪の堕落の結果として生まれながらの罪が染み付いてしまい、神様に従順であろうとする自由意志を失ってしまいました。

イエス・キリストは、ご自分の流す十字架の血を「贖いの代価」として私たちを買い取り自由の身にするために、この世に来てくださったのです。
私たちは、イエス様を通してのみ、罪の隷属から解放されます。
それとともに、神様の御心に従って生きることを人生の目標に据えることができるようになります。

「イエスは彼らに答えられた、
「よくよくあなたがたに言っておく。
すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。
しかし、子はいつまでもいる。だから、
もし子があなたがたに自由を得させるならば、
あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」
(聖書のヨハネによる福音書8章34〜36節)

神様、あなたは私たちのすべての疑問に答えてくださるわけではありません。 どうか、そのことで私があなたへの信頼を失わないように助けてください。 あなたが聖書を通して告げ知らせてくださった内容に、私の関心を集中させてください。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

罪とはいったい何なのか、さまざまな言葉を用いて表現することができるでしょう。
罪とは、考えや言葉や行いが良くない方へと向かったり歪んでしまったり、神様に対して反抗的になったりすることです。
すべての罪に共通する特徴は、「命そのもの」なる神様から遠ざかるよう人を仕向ける点にあります。
短く言えば、罪とは心で神様を捨てることです。
原罪(生まれながらの罪)とは、あらゆる人間のうちに潜む、悪を選ぶ傾向のことです。
原罪は、さまざまな悪い考え、間違った行いや言葉、行えるはずのよいことをあえてやらないこと、といった形で現れます。

罪は人間の命を傷つけ、破壊し、滅ぼしてしまいます。
自分や他の人たちの人生を顧みれば、このことについて何かしら具体的な例が思い浮かぶのではないでしょうか。
それでも何も思い当たらない場合には、神様が人間にお与えになった信仰生活のルールとも言える「十戒」という鏡の前に立ってみましょう。
そうすれば、人は自分の惨めな真の状態を知らされることになるでしょう。

聖書によれば、人は皆、罪深い存在です。
人間は誰も、罪を完全に避けることはできないし、罪が引き起こす不幸な結果から免れることもできません。
罪は、私たちを神様とその神聖さから引き離してしまいます。
罪のもたらす最悪の結果は死であり、神様との永遠の別離です。
人間は神様の御前で自分の罪やその不幸な結果を自分の力では帳消しにできません。
私たちを救うことができるのは、イエス・キリストだけです。

   詳しく見る、信仰のABC、 4.12. 罪への堕落と原罪

「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。 そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」
(聖書のローマの信徒への手紙3章22〜24節)

神様、どうか罪深い私を憐れんでください。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

今から約二千年前、神様はその御子をこの世に遣わしました。
そして、御子が私たちの罪を身代わりに引き受けて十字架で死ぬようになさいました。
十字架にかかったイエス・キリストは、あなたの自己中心的な心、不信仰、貪欲、不正直、その他すべてのあなたの罪を肩代わりしてくださったのです。
また、神様は死者の中から御子を復活させることによって、この罪の赦しを確実なものとしてくださいました。

イエス様の十字架の死が神様と人間との間に和解をもたらしたことを受け入れる信仰を通して、あなたは罪を赦していただけるのです。
罪の赦しは、私たちに無代価で(ただで)与えられるプレゼントです。
罪の赦しをいただくために自分の生活の体裁を取り繕ったり、心の中から信心らしきものを絞り出したりする必要はありません。
自分自身の行いは罪の赦しをいただくための「前提条件」ではないからです。
私たちのためにすでにすべて用意されている罪の赦しの恵みをただ素直に受け入れさえすればよいのです。
私たち人間が自分の罪を自分の力で帳消しにできないことを、神様はご存知です。
だからこそ、神様ご自身が御子イエス様の贖いの御業によってすべての人間の罪を帳消しにしてくださったのです。
ですから、あなたもまた、「自分の全ての罪はイエス様のゆえに赦された」、と信じてよいのです。

「どのような人間か」、あるいは、「何をしてきたか」、といったことには関わりなく、
「神様の御業によって、自分は罪の呪いから解放され、罪の赦しの憐れみを受けている」、
とあなたは確信してよいのです。

神様の御前に立つ時、私たちのよい行いやすぐれた業績などは神様が私たちを受け入れてくださる根拠になりません。
自分のよい行いを神様に自慢するのは無益です。
神様が罪深い人間存在を受け入れてくださる唯一の根拠は、御子イエス様の十字架の死だけだからです。

「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
(中略)神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」
(聖書のコリントの信徒への第二の手紙5章19, 21節)

善そのものであられる神様、十字架の福音を感謝します。 イエス様のゆえに、「私の罪は赦された」、と信じてよいことを感謝します。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

罪がどれほど危険な力であるか、きちんと理解するのは人間には困難です。
罪の破壊力がいかに凄まじいものか、本当に理解しているのなら、上記のような質問が出てくるはずがありません。

罪の本質は 、人に命を与え救ってくださる神様から私たちを引き離す点にあります。
無条件に私たちを愛し私たちのために犠牲となられた唯一の真の神様に対して、どうして人は反抗を企てたりするのでしょうか。

罪は、それを行う者とその周りにいる人々とを傷つけます。
故意に罪を行うことは、罪深い私たちの身代わりとしてイエス様が受けられた十字架の死の苦しみを軽んじることです。
人間があまりにも自己中心的であり神様に対して不従順だからこそ、イエス様は十字架で死ぬことになったのです。
いかに人間が罪深いか、また、その罪の赦しのためにどれほど大きな血の代価が要求されたか、ということが多少なりともわかった人は、もはや平気で罪を犯し続けることはできなくなるでしょう。

いかなる場合であれ、罪は生命そのものに対する犯罪です。
罪と命との因果関係がはっきりとは見えないケースでも、それは変わりません。
罪は 、その罪を行った者自身にも他の人々にも悲惨な結果を招くものです。
人は故意に罪を犯すと、その良心が汚されて、生きる希望が瞬く間に失われていきます。

キリスト信仰者は、洗礼を通して暗闇から光へと移されており、神様の助けによって罪や悪に対して戦うよう召されていることを、覚えておきましょう。

「信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。
ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った。」
(聖書のテモテへの第一の手紙1章19節)

神様、どうか私を罪とあらゆる悪からお守りください。 私の行いと生き方があなたの御心にかなうものとなるように、私を指導してください。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「私は今でも罪の赦しを神様からいただけるのだろうか」、と自分に問いかける姿勢が失われないかぎり、その人に対して神様の恵みのドアはまだ開かれています。
罪を平気で行ったり楽しんだりせず、罪を罪として悲しむ心を失わないかぎり、私はイエス様からいただく罪の赦しという確実な守りの中にいるのです。

「私の場合は例外で、神様からいただく罪の赦しの恵みでも足りないだろう」、などと考え違いをすることが時にはあるかもしれません。

「私が行ってきた数々の罪はあまりにもひどく、私が罪の赦しを受けるのはもう無理だ」、などと人は考えがちです。

このような暗い考えを、悪魔は薄笑いを浮かべて私たちの耳元で囁きかけます。
そうやって私たちをだまして、人を神様の御許から引き離そうとするのです。

もちろん、すでに犯してしまった罪を行わなかったことにはできません。
しかし、神様の恵みは本当に一切の罪を覆うほどに大きいものなのです。
ですから、神様がくださる罪の赦しを安心して信頼しましょう。

罪深い存在である私たちは、同じような罪を何度も繰り返してしまうものです。
にもかかわらず、神様はそれらの罪を何度でも赦してくださいます。
神様からいただく罪の赦しから、まさにそこからのみ、私たちは罪と戦う力を得ます。
罪は危険な敵です。
この世を去る時まで、私たちは罪との戦いを続けていくことになります。

「主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
これは朝ごとに新しく、 あなたの真実は大きい。
主はおのれを待ち望む者と、
おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。」
(聖書の哀歌3章22〜23, 25節)

神様、聖書はあなたについて、「主の恵みは永遠に変わることがない」、と語っています。 この御言葉の約束を信頼してよいことを感謝します。 私がまた新たに信仰生活を始めることができるように、どうか私をきよめてください。
フィンランド語原版執筆者: 
マヌ・ルオソ(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

他の人を赦すことが非常に困難であったり不可能に感じられたりする場合もあるかもしれません。
自分に罪の赦しを願うと同時に、他の人の罪をも赦すように、と聖書は私たちに忠告しています。
実はもっと強い表現で、「私たちが互いに赦し合わないかぎり、私たちは自分の罪の赦しを受けられない」、とさえ聖書は教えています。

「他の人を赦せない」、「自分が受けた不正をいつまでも根に持つ」という心の状態によってさいなまれることがあります。
そんな時には、どうすればよいのでしょう。

まず大切なのは、この罪を神様に告白することです。
「自分は相手を赦すことができない」、という悲しい現実を神様の御前で打ち明けます。
それから、「イエス様のゆえにこの罪もまた赦されたのだ」、と信じましょう。
また、「神様、あなたの恵みにより、私たちのうちで御業を行ってください。
そして、私たちが他の人を赦せるように助けてください」、と祈り願います。
神様の恵みによってのみ、私たちの心の傷は本当に癒されるからです。
心理療法士や牧師や私たちを傷つけた当事者との話し合いが心の傷を癒すために役立つ場合もあります。
相手を赦すことは、私たちが行う決断です。
そうはいっても、心から相手を赦せるようになるまでには長い時間が必要かもしれません。
自分が受けた不当な扱いに対する怒りから解放されるまで何年もかかるかもしれません。
そのような難しいケースでも、復讐心を捨てることが癒しへの大切なポイントになります。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
(聖書のエフェソの信徒への手紙4章32節)

憐れみ深い神様、あなたは私の事情と私の心の奥底をよくご存じです。 私が心を固く閉ざしたり、受けた不正に怒りを持ち続けたりすることがないように、お守りください。
フィンランド語原版執筆者: 
パシ・パルム(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書は悪魔についても語っています。 もっとも、それは参照程度に触れられているにすぎない場合がほとんどです。
悪魔は、善そのものなる神様と対等に張り合う反対者などではなく、神様の造られた被造物のひとつです。
悪魔が悪そのものとなった理由は、人間が後に犯した誤りと同じです。
それは、自分で神様と等しい存在になろうとした傲慢さのせいでした。
神様はご自分がお造りになったこの世界に対して全き善き御心をもって接してくださるのですから、この御心を否定する悪魔の態度は悪そのものです。
悪魔は、神様を無視する反抗的な態度の具体的な現れであるとも言えます。

それでは、悪魔はどのように活動するのでしょうか。

「悪魔は神様に従順でない者たちのうちでその力を振るう」、と聖書は教えています。
もしも神様の御心に従わないならば、私たちは神様の敵対者である悪魔の影響を受け、その意志に追従することになります。
しかし、イエス様を自分の主、自分の救い主として認めて告白する時に、私たちは悪魔の側から神様の側に移動することになります。

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」
(聖書のエフェソの信徒への手紙6章11〜12節)