「イエス様は救い主です」、という短い言葉で初期のキリスト教徒たちは自分の信仰を告白しました。 イエス様は人としてお生まれになった神様の御子である、と彼らは信じました。 「イエス様は主です」、という短い言葉の中に彼らの信仰が端的に表現されています。
新約聖書に含まれている四つの福音書は、イエス様についての「よき知らせ」(福音)を私たちに伝えてくれます。 どのようにしてイエス様が、聖霊様の働きによって処女マリアからお生まれになったか、この世で生活し教えられたか、力ある奇跡を行われたか、などということについて福音書は語っています。 イエス様は「真の神であると同時に真の人でもある」という特別な方であること、イエス様の受けられた苦しみと十字架の死、イエス様が三日目に死者の中からよみがえられたことなどが、キリスト教の核心をなしています。
あなたにとって、イエス様はどのような存在ですか。
イエス様にどのような態度をとるかによって、永遠の世界での居場所は決まります。 ですから、さっそく聖書を手に入れて読み始めましょう!
復活なさったイエス様は、今日もこれからも永遠に活きておられます。 ということは、今でもイエス様に出会うことができるのです。 そして、イエス様がどのようなお方であるか、知ることもできます。 イエス様を通してのみ、私たちは救われ、神様と一緒に生活できるようになります。
「この人(イエス様)による以外に救いはない。 わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。 (聖書の使徒言行録4章12節)
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イエス様が歴史上実在したことは、当時の資料によっても理性的な説明によってもまったく疑う余地がありません。 イエス様は少年時代と青年時代を僻地であるガリラヤ地方のナザレの町で過ごしました。 そのために、イエス様は「ナザレ人」とも呼ばれました。 町々を巡って教えたイエス様の周りには弟子たちが集まるようになりました。 彼らは師の教えを書き留めては、他の人々へと語り継いで行きました。 西暦約30年頃の春のエルサレムで、ローマ総督ポンテオ ピラトの命令によって、イエス様は十字架刑に処せられ、殺されました。 少なくともこの程度のことについては、歴史家たちが一致した見解を示しています。
しかし、イエス様とは何者なのでしょうか。 イエス様のことをもっとよく知るためにはどうすればよいのでしょうか。 こういったことを考えながら、聖書とりわけ新約聖書を開かなければなりません。
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」 (聖書のマルコによる福音書1章1節)
イエス様は教えと行いによって、ご自分が「天の御国から来た神様の御子」であることを示されました。 それに対して、ユダヤの宗教的指導者たちは、「自分を神の子だと言うこのイエスは神を侮辱している。したがって、旧約聖書のモーセの律法に基づき、彼は死刑に処せられるべきである」、と主張しました。 ところが、当時のユダヤ社会はローマ帝国の支配下にあったため、死刑の判決を下し実行する権利を有するのはローマ人だけでした。
当時のユダヤ地方の政治的支配者だったローマの総督ポンテオ・ピラトは、ユダヤ人の間の宗教的な論争自体には関心がありませんでした。 彼にとって大事なのは治安の問題でした。 当時のユダヤには、メシア(救世主)を自称するユダヤ人教師たちが何人も現れました。 彼らは弟子たちを扇動してローマ皇帝に対する反乱を企てました。 そのような反乱グループの首領の一人とみなされて、イエス様はピラトの前で訴えられたのです。 福音書によれば、ピラトはイエス様をどう裁いたものか確信が持てず、ためらいました。 しかし、最後にはユダヤ人たちのおどしと圧力に負けて、イエス様に死刑の判決を下してしまいました。
イエス様の十字架への極度に苦しい道のりを福音書で読む人は、「イエス様のように無垢な善い方がどうしてこれほどまでに酷い死に方をしなければならなかったのか」、という 疑問をもつのではないでしょうか。 どうして神様はご自分の御子を救うために何もなさらなかったのでしょうか。 「イエスは有罪だ」と主張する偽証者に対して、どうしてイエス様は弁明されなかったのでしょうか。
これらの疑問に対する一番よい答えは、旧約聖書のイザヤ書53章にあります。 このイザヤ書がイエス様の十字架刑の500年以上も前に書かれたものであるのは、実に不思議なことです。 この箇所や他の多くの聖書の箇所に基づいて、「イエス様が十字架で死なれたことは神様の救いのご計画によるものであった」、とキリスト信仰者は信じています。 人間は自分自身の罪深さのゆえに「永遠の死」という罰を受けるのが当然の存在でした。 しかし神様は、人間の罪の罰を肩代わりさせるためにご自分の御子を人としてこの世に遣わし、十字架で死ぬように計らいました。 御子の贖いの御業に基づいて、神様はすべての人間のすべての罪を帳消しにし、永遠の死の裁きを受けるはずだった人間をその裁きから救い出してくださったのです。
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「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲しめをうけて、 われわれに平安を与え、 その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。 われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、 彼の上におかれた。」 (聖書のイザヤ書53章5〜6)
イエス様の復活に関するこの質問に対しては、「本当だ」という答えと「偽りだ」という答えとが、すでに新約聖書の時代以来広められてきました。 あなたなら、そのどちらを信じますか。
マタイによる福音書28章によれば、イエス様のお墓を見張っていた兵卒たちは気がついたら墓が空になっていたことについて、 「イエスの弟子たちが夜中にきて、われわれが寝ている間にイエスを盗んだ」、と説明するようにユダヤ教の宗教的指導者たちから指図され、賄賂を受け取りました。 このうわさは今でも一般に広まっています。
その他にも、これに類する現代的な説明が提案されてきました。 「弟子たちは師の死によって非常に大きな精神的ショックを受けたが、ある種の集団暗示の力でそこから立ち直った」、というものです。 「弟子たちの心の中でイエスは死者から復活して、弟子たちの信仰の中で霊的に生き始めた」、というのがその集団暗示の内容とされます。
しかし、新約聖書の福音書は四つとも揃って「身体ごと復活したイエス様」に出会った多くの人々について記述しています。 たとえば、イエス様のお墓に行った女性たち、恐れから鍵をかけた部屋に閉じこもっていた弟子たち、エルサレムからエマオへの道を下っていた二人の弟子たち、などです。 イエス様の復活を疑っていたトマスは、イエス様の傷に触れることさえ許されました。 これらすべての出来事の共通点は、「身体ごと復活したイエス様に直接出会った彼らにとってさえ、イエス様の復活が本当に起こった出来事であることを理解するのは容易ではなかった」、ということです。
よみがえられたイエス様は、ご自分を裁いた人々や世間一般に対してはご自分を現されませんでした。 弟子たちに対してばかりではなくこの世界一般に対しても提示されたイエス様の復活の証拠は、「イエス様の遺体が収められていた墓が空になっていた」、という事実だけです。 当時もその後にも、イエス様の遺体を発見して公に示すことができた人は誰もいません。
いくら理性による詮索や探偵めいた調査をしたところで、「イエス様は本当に復活なさった」、という確信には至りません。 人は「活けるイエス・キリスト」に出会う時に、ようやくイエス様の復活を信じるようになるからです。
復活したイエス様はしばらくのあいだ弟子たちと共にこの世に過ごされ、その後で天のお父様の御許に戻られました。 ところが、今でもイエス様は聖書の御言葉を通して地上の人々に話しかけておられます。 礼拝で御言葉のメッセージを伝えるキリスト信仰者の教会は、イエス様が今も活きておられることを証しているのです。
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「イエスは彼に言われた、 「あなたはわたしを見たので信じたのか。 見ないで信ずる者は、さいわいである」。」 (聖書のヨハネによる福音書20章29節)
聖書は、世界中で今まで最も多く印刷され配布されてきた書物です。 この聖書の後半部をなす新約聖書は、イエス様の教えや譬えを記述しています。 新約聖書を通してイエス様がどのような方かを知るのが、最善のやりかたです。 新約聖書を読むことで、イエス様を個人的に知っていた人やイエス様と共に歩んだ人に起きた出来事について知ることができます。 また、イエス様のこの世での生活、十字架の死、死者の中からの復活についても知ることができます。
イエス様が弟子たちの中から特別の任務のために選ばれた人々は「使徒」と呼ばれます。 この使徒たちによって書き留められた手紙が、新約聖書には多数収められています。 それらの手紙は、初期のキリスト信仰者や教会の様子を生き生きと伝えてくれます。 手紙に登場する人々の中には、イエス様に直接会ったことがない人たちもいました。 にもかかわらず、彼らはイエス様のことを知っていました。 彼らはすでにイエス様について読んだり聴いたりしたことがあったからです。
今日でも、イエス様を知って信じている人たちが世界中にいます。 聖書に基づく教えを聴き、祈り、聖餐式に参加するために一緒に集まる教会の礼拝で、私たちは彼らと会うことができます。
あなたも一緒に教会に来ませんか。 そこでは、イエス様の友人たちに会うだけではなく、イエス様ご自身にもお会いすることができるのですから。
イエス様ご自身が言われています、
「わたしの教えはわたし自身の教えではなく、わたしをつかわされたかたの教えである。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」 (聖書のヨハネによる福音書7章16〜17節)
どうして自分が信じるようになったのかについてキリスト信仰者が語るさまざまなエピソードを、あなたは耳にする機会があるかもしれません。
キリスト信仰者の中には、何かがきっかけとなって突然信じるようになる人もいますし、時とともに少しずつ信仰の意味がわかってきた人もいます。 あるいは、子どもの頃からイエス様について教えられて育ってきた人もいます。 このように、イエス様を信じるようになるまでの道のりは、人によってちがいます。 そのどれかが他よりも優れているということではありません。
もちろん、人が信仰に入るすべてのケースに共通していることもあります。 ルデヤという女の人が信仰に入った理由を説明する新約聖書の箇所から、それが何かがわかります。 「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」 (聖書の使徒言行録16章14節より) ので、彼女は信じるようになったのでした。 つまり、主イエス様が御言葉のメッセージを通して人の心を開いてくださったのです。
あなたは、「信じようか、どうしようか」、迷っていますか。 そんなあなたに簡単なアドヴァイスをさしあげます。 信じることに反対したり、イエス様の御許から逃げたりするのをおやめなさい。 神様の御言葉である聖書やその教えに耳を傾けてください。 とくに、「神様はあなたのために何をしてくださったか」、というメッセージに耳を傾けてください。 神様はあなたに悪いことを行おうとはなさいません。 あなたの造り主であり贖い主である神様は、あなたを愛していらっしゃるからです。
信じるかどうかを自分で決めたり、神様を賛美するために手を高く挙げるなど特定のポーズをとったり、大規模な伝道集会の最前列に進み出て信仰の決断を表明したり、周囲の人々に向かって声を張り上げて信仰の証をしたりする必要はありません。 これらの行いは、人が不信仰から信仰へと移るために絶対に越えるべき敷居であるかのようにみなされる場合があります。 しかし、信仰に入るためにはこのような行いは必要ありません。 あなたはただ信じるだけでよいのです。
「神様の御子、主イエス・キリスト様、罪深い私をどうか憐れんでください」、とあなたは祈ることができます。 「神様はこの私の祈りを必ず聴き入れてくださる」、とあなたは聖書に基づいて信じることができます。 大切なのは、「信じている感じがするかどうか」、ということではなくて、「何を信じているか」、ということです。 その信仰の内容とは、「イエス様があなたを救ってくださる」、ということです。 この救いは神様からの賜物です。 信仰とは、この救いを受け入れることなのです。
あなたがもうすでに洗礼を受けている場合には、信仰に入ることは、あなたが天の御国の我が家へと帰ることであり、救い主と一緒に生活し始めることです。 そのために、キリスト信仰者の集まりである教会を見つけて通い始めてください。 教会の礼拝で、あなたは罪の赦しの宣言を受け、他のキリスト信仰者たちと一緒に聖餐式に参加することができるでしょう。
まだ洗礼を受けていない人のことも、キリストは御許に招いておられます。 洗礼はその人を罪から洗い清めて、教会へと結びつけてくれます。 「私が洗礼を受けていない場合にはどうなりますか。」
「なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」 (聖書のローマの信徒への手紙10章13節)