この世は、能力、社会的地位、経済力、外見などを基準にして人間を評価するものです。 あなたは、「世間の期待する基準を満たせない自分はだめだ」、と思うことがあるかもしれません。 普段はともかく、人生がうまくいかず周りからの要求に応えられないような時には、そのように落ち込むことがあるかもしれません。 しかし、よく考えてみると、あなたの存在価値は上に挙げたような外面的な基準などによって左右されるものではないことがわかるでしょう。 誰であれ他の人間には、あなたの「人間としての価値」を勝手に決め付ける権利などないからです。
あなたの価値を決める権利があるのは、あなたを創造なさった神様だけです。 神様はあなたを、「必要もないのに」とか、「何かのまちがいで」、お造りになったのではありません。 神様はあなたを、確かな目的と愛を込めて創造なさったのです。 神様は人間を「ご自分のかたち」として、つまり、この世の他のどの生き物よりも価値ある存在としてお造りになりました。 神様はあなたのことも、「愛する我が子」として細心の注意を払って創造なさったのです。
あなたは、かけがいのない存在です。 他の誰も、あなたの居る場所を代わりに埋めることはできません。
あなたは、神様にとって大切な存在です。 神様は、あなたの罪が赦されるためにご自分の御子を十字架で死に渡されたほどまでに、あなたのことを心から大切になさっているのです。
あなたは、自分の存在価値を自らの努力や行いによって獲得する必要などありません。 神様が造り愛し救ってくださった存在であるあなたは、あなたののままで、計り知れないほど尊い存在だからです。
「わたしはあなたをほめたたえます。 あなたは恐るべく、くすしき方だからです。 あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。」 (聖書の詩篇139篇14節)
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この世には平和がありません。あれこれとやらなければいけないことが心にのしかかるため、私たちは平静ではいられなくなります。どれほど熱心に心の安らぎを慕い求めても、それを見つけたという確信がもてないのです。どうしてでしょうか。その理由についてあなたにお知らせできることが二つあります。一つはよい知らせ、もう一つはよくない知らせです。これら二つは互いに結びついています。
まず、よくない知らせです。私たち人間が追い求めている本当の安らぎは人間の内側からは決して見つかりません。どれほど一心に自分の心の奥底を見つめてみても、そこに平安を見出すことはできません。もちろんさまざまなやりかたで自分の心を落ち着かせようと努めることはできます。しかし、そのようなやりかたは不安を一時的に和らげるだけであって、どのようなときにも変わることのない平安を与えてくれるものではありません。たとえこの世から平和をかき乱す原因がすべて消え失せたとしても、真の平安は実現しないのです。
次に、よい知らせをお伝えします。人間の心の内側には神様とちょうど同じ大きさのかたちの「空洞」があります。これは、神様をその空洞にはめ込むと人の心がすっかり満たされるという意味です。聖書によれば、もともと神様は人間をご自分と一緒に生きていくべき存在としてお造りになりました。人間が神様から離れて生きるかぎり、人生の真の目的は見失われていることになります。もともとは良好だった人間と神様の関係をだめにしてしまった原因は、すべての人間の心に染み付いている罪です。最初の人間たちが神様の言いつけを破って罪の中に堕落した結果、全人類は神様に対して不毛な戦いを挑み続ける罪深い存在になってしまいました。しかし、さいわいなことに神様はこの戦いにおいてすでに最終的な勝利を収めておられるのです。これは、神様の御子イエス様が十字架で死なれ三日目に復活なさったことによって成し遂げられました。イエス様は私たちの身代わりとして死なれることで、私たち人間の罪深さの受くべき罰をすっかり帳消しにしてくださり、また三日目に死者の中から復活なさることで、罪がもたらす死に対しても勝利なさったのです。イエス様を自分の救い主として信じることによって、私たちは誰であれ、神様との真の平和と心の平安に与ることができるようになりました。
イエス様はあなたにもこの真の平安を与えてくださいます。あなたを取り囲む世界に平和がないときにも、この平安は保たれます。イエス様と一緒に生きるあなたを全能の神様は世話し守ってくださいます。イエス様と一緒に生きていくために役立つものとして、神様はご自分の御言葉である聖書、祈り(一人での祈りや他の人々との祈り)、聖餐式、教会、またキリスト教の良い音楽などを私たちに提供してくださっています。
イエス様は次のように言っておられます。
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」 (「ヨハネによる福音書」14章27節、口語訳)
神様はあなたのことを愛しておられます。 「どうしてそれがわかるのか」、とあなたは尋ねるかもしれません。
その答えは単純です。 神様ご自身が聖書を通して私たちにそう語っておられるからです。
神様は、「私は善い人や感じのよい人のことだけを愛している」、とは言われません。「私は皆一人一人を愛しているし、あなたのことも愛している」、と言っておられます。
それでは、いったいどこに神様の愛は見えるのでしょうか。
神様はその愛を、言葉だけではなく、行いによっても示してくださっています。 神様が私たちのために成し遂げてくださったことに注目するとき、私たちは神様の愛の偉大さが見えるようになります。
この世の始まった頃には、人間と神様との間には完全な調和がありました。 人は神様の愛を疑うことがありませんでした。 しかし、罪の堕落がすべてを混乱させ、神様と人間との関係を台無しにしてしまいました。 それでも、神様が人間に注がれる愛は変わることがありませんでした。 天の父なる神様は私たちをこの上なく深く愛し続けてくださいました。 その愛のゆえに、最初の人間たちの罪の堕落によって生じた人類の悲惨な状態を自ら修復してくださったのです。 今から約二千年前、神様の御子が十字架で死んでくださった時、この神様の愛が目に見える形で示されました。
あなたは自分の罪深さのせいで神様から離れて生きるほかない悲惨な状態の中にいました。 あなたがこの状態から解放されるために、イエス様は十字架であなたのためにも死んでくださったのです。 ほかでもないあなたが、いつか必ず天の御国に入って、そこで神様の愛に包まれながら永遠に生活できるようになるために、イエス様は十字架であなたのために死なれたのです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (聖書のヨハネによる福音書3章16節)
神様は、イエス様の御名によってなされるすべての祈りを聴くことを約束してくださいました。 イエス様の御名によって祈るのは、私たちがイエス様を信じており、イエス様を通して神様とつながっているからです。 私たちは、自分自身の行いに頼るのではなく、イエス様の救いの御業に信頼して、神様の御許に近づくのです。
神様は祈りを聴いておられます。 しかし、それは、「神様はいつも私たちの期待通りに答えてくださる」、という意味ではありません。 神様はすべての願いをすぐにかなえてくれる「自動販売機」などではありません。 天の父なる神様は、ご自分の子どもたちにとって本当に必要なものが何であるか、よくご存知だからです。 神様は、私たちが天の御国で永遠に暮らせるようになるために最も役立つことを、祈りの答えとして与えてくださいます。 それゆえ、神様は、私たちの願いとは反対のことをお与えになったり、私たちが祈りの答えを忍耐して待つようになさる場合もあるし、すぐに祈りがかなえられて私たちが喜ぶようになさる場合もあります。
神様に自分の願いを祈る時に大切なのは、「あなたの御心がなりますように」、という祈りを付け加えることです。
人が自分の罪の赦しを願い、自分が救われることを祈る場合には、神様はその願いをすぐにかなえてくださる、と信じて大丈夫です。 この祈りに対する神様の答えは聖書に書いてあるからです。 罪を告白する者に対して罪の赦しをくださることを、神様は聖書で約束しておられます。
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」 (聖書のマタイによる福音書7章9〜11節)