本来人間は、造り主なる神様と天の御国で永遠に生活するために創造されました。 しかし、最初の人間たちが神様の御心に反する生き方をしたために、罪がこの世に入り込み、人間に染み付いてしまいました。 その結果として、彼らは死すべき存在となりました。
彼らの子孫である私たち現代人にも本質的に同じ罪が染み付いています。 この罪は「生まれながらの罪」(原罪)と呼ばれます。 その結果、すべての人間もまた死すべき存在となってしまいました。
しかし、この「死」は人間に対する最終的な宣告ではありません。 最後に決定的な言葉を告げる権利をお持ちなのは、神様だけだからです。
人が死ぬ時に、その人が救われる可能性がある猶予期間も終了します。
神様が造られたこの世では、神様のことを意識しなくても、神様からの賜物であるさまざまな恩恵を享受して暮らすことができます。 たとえば、お金や美しさや社会的地位や健康や生命などは、神様からの贈り物なのです。
しかし、私たちが死ぬ時にはそれらの賜物はすべて私たちから取り去られてしまいます。 その時、いったい私たちはどうしたらよいのでしょうか。
私たちはその時、自分のものは何も携えずに神様の御前に立たされます。 私たちに生命を与えてくださった神様は、「あなたは生きている間に私が与えた賜物をどのように用いましたか」、ということをお尋ねになるでしょう。 しかしその時、キリスト信仰者の場合は、まったく裸の状態というわけではありません。 聖書の教えによれば、私たちキリスト信仰者は、至高の光に輝く「キリストの聖なる衣」を信仰を通して身にまとっているからです。 この衣は、洗礼を通して私たちに贈られ、信仰を通して我が身にまとうものです。
はたして死後の世界はどのような世界なのでしょうか。 聖書によれば、最後の裁きの日には死者全員が復活して各々が神様から裁きを受けます。 その時が来るまでの間、死者たちは夢うつつの状態なのでしょうか。
「死んだ後で人間はこの世から別の実在世界へと速やかに移される」、というのが聖書の与えるイメージです。 死後の問題を考えるときに決定的に大切なことは、「死んだ後に過ごす別の世界でどれだけ長く待たなければならないか」、ということではなく、「待つこと自体がその人にとって幸いなものか辛いものか」、ということです。 自己の良心にやましいところがなく、自分と神様(イエス様)との関係がはっきりわかっていて、自分が死んだ後で誰が自分を出迎えてくれるかちゃんと知っているのなら、別の世界で待つことは不安なことではなく、苦痛にもなりません。
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「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。 望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」 (聖書のテサロニケの信徒への第一の手紙4章13〜14節)
イエス様はあなたを死の恐怖から解放してくださいます。
私たち人間が死をこわがるのは当然ともいえます。 死とそれに付随するもの、たとえば、病気、不幸、事故などは、人間的に見れば、悪い出来事にほかならず、善なる神様の創造の御業であるとも言えないからです。
死は自然なことではなく、人は軽々しく死と馴れ合うべきではありません。 「死は人間の最後の敵である」、とパウロは言っています。 しかし、死とそれに付随する陰鬱な出来事が人間に対する最終的な宣告というわけではありません。 イエス様ご自身がそのことを証しておられます。
イエス様は死に対して勝利なさいました。 ですから、洗礼と信仰を通して「イエス様の身内」とされたあなたもまた、死に勝って死を乗り越えることができます。 ただしその際、自分が「イエス様の身内」であることをはっきり自覚していてください。 イエス様は、あなたをおびやかす死に対しても圧倒的な勝利を収めてくださいます。
このことがわかって、それでも死の恐怖がなくならないようなら、ちょうどおびえた子どもが親の近くに行くように、あなたも天のお父様の御許に行ってください。 たとえば、夜がどれほど暗く長いものであったとしても、父なる神様はその夜のことも支配しておられるからです。
人間の感情は移ろいやすく、頼りになりません。 しかし、神様の御言葉に依り頼む信仰は、私たちを決して裏切ることがありません。
「イエスは彼女に言われた、 「わたしはよみがえりであり、命である。 わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、 いつまでも死なない。 あなたはこれを信じるか」。」 (聖書のヨハネによる福音書11章25〜26節)
死はすべての終わりではありません。
聖書には次のように書いてあります。 「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。 天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に御座の前に立っているのが見えた。 かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。 これはいのちの書であった。 死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」 (ヨハネの黙示録20章11〜12節)
先に世を去った家族にいつか天の御国で再会できるのなら、もちろんとても素晴らしいことです。 この問題を考える際に、「他の人々については神様のなさることに信頼してすっかりお委ねし、自分自身についてはその信仰をたえず吟味していく」、という姿勢がよいのではないかと私は思っています。 ですから、死の眠りに就いた愛する家族のことは神様にお委ねしましょう。 そして、もしも可能であれば彼らが救われるように、神様に一、二度お祈りしてもよいでしょう。 この問題に関しても、死の勝利者なる神様に信頼してください。
「神様にとって死者はひとりもいない」、という考えから慰めを得てもよいでしょう。 神様の側から見ると、すべての人は生きています。 たしかに人間にとっては、生と死は相容れない二つの世界です。 しかし神様は、人間を束縛する世の成り立ちにとらわれず自由に活動できる方です。
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「恐れるな。 わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。 わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。 そして、死と黄泉とのかぎを持っている。」 (聖書のヨハネの黙示録1章18〜19節より)
はい、地獄は存在します。 旧約聖書は死後の状態についてあまり多くを記していません。 しかし、新約聖書とイエス様はこの暗い真実に啓示の光を当てています。 「地獄は本来人間のためではなく悪魔とその手下のために用意された場所である」、とイエス様は言っておられます。 聖書における地獄のイメージは、永遠の火、火の湖、暗闇、外に追い出された状態、泣き叫び歯ぎしりする場所、というものです。 これらのイメージを具体的にどう理解するべきかはっきりしない面もあるので、「地獄とは、神様と永遠に分かれた状態、神様の善き御心にあずかることがもはや決してできない状態である」、という定義で十分なのではないでしょうか。
どうすればキリスト信仰者は地獄に落ちるのを避けることができるのでしょうか。
これが、地獄についてのキリスト信仰者の最大の関心事であるはずです。 イエス様がこの世に来られた目的は、人間を地獄の存在によって脅すためではありませんでした。 神様の御子が人としてこの世にお生まれになったのは、罪と死と悪魔の圧制の下にあった私たち罪深い人間をご自分の血の代価によって贖い、天の御国に入れるようにするためであったことを、ここで思い起こしましょう。
あなたのためにも、イエス様は来てくださったのです。
「それから、左にいる人々にも言うであろう、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。」」 (聖書のマタイによる福音書25章41節)
天の御国がどこにあるのか、聖書は明示していません。 天の御国は、神様と神様の側に属する者しかいない「神様がすべての世界」です。 それは、いわば「星の世界の向こう側」に存在します。
「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。」と聖書は言っています(テモテへの第一の手紙6章16節より)。 神様や天の御国は、宇宙工学や人間の思索によって把握できるものではないのです。
人間にとってはまったくの神秘である天の御国から、はるばる神様ご自身が人間の世界へと来て、天の御国について人が知っておくべきことを告げてくださったのです。 聖書、とりわけ新約聖書のヨハネの黙示録は、多彩な象徴を通じて天の御国が描写しています。 それらのイメージをまとまった全体像として捉えるのは容易ではありません。 通りが金でできている立方体の形の都とは、どのような都なのでしょうか。 絶え間なく続き常に更新され心奪われる礼拝とは、いかなる礼拝なのでしょう。 この世のものとは比較を絶する天の園とは、どんな場所なのでしょうか。 神様ご自身が涙を拭ってくださる、とはどういうことですか。
かつてキリスト教会の指導的な教師たちは、「天の御国は、救われた者たちが神様を直接見ることができる場所である」、と表現しました。 少なくとも私にとって、今まで述べてきた天の御国のイメージは、「いつか実際にそこに行って自分の目で見てみたい」、という強い願いをもたせます。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、 神自ら人と共にいます。」 (聖書のヨハネの黙示録21章3節より)