ヨハネによる福音書16章 聖霊様のなさること
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聖霊様 16章4b~16節
前回扱った16章のはじめの数節で、イエス様は、御自分に属する人々に対して悪魔が仕掛けてくる憎悪と迫害について説明なさいました。流血の事態になります。盲目にも人々は、イエス様に属する者たちを憎しみの対象にすることで、神に仕えていると思い込んでいます。このことに関連して、イエス様はこう言われます、「今まで私は、あなたがたにこのことを話しませんでした。なぜなら、私があなたがたと共にいたからです」。御自分に属する人々をこの世に残して、イエス様は立ち去ろうとしています。この世の暗闇と悪行について、誰よりもよくイエス様はご存知です。一方で、教会はぽつんと残されるのではなく、聖霊様がそれを支え守ってくださる、という約束を、イエス様は与えてくださいます。聖霊様は活きて働かれる神様の御霊であり、苦しみを受ける教会を正しい真理に導いてくださる方です。
聖霊様は、聖なる神様の御前でこの世を罪に定めます。聖霊様が罪と義と裁きについて真理を明らかに示す時、世は罪に定められるのです。この時、教会が迫害を受け、世が自己満足に浸って狂乱している中でも、少なくとも誰かしらは、この世の側を離れてイエス様の側につき、次のことを理解するようになります。1)ここで言う罪とは、罪一般のことではなく、イエス様の十字架を自分には関係ないものとみなして拒絶することだということ、 2)イエス様は、神様を侮蔑する罪人などではなく、天のお父様の御許に帰られた、義なる神様の御子であること、 3)神様の御子の十字架の勝利によって、悪魔はその権威を失うという裁きをすでに受けていること、です。 このようにして、聖霊様は、キリストの御許へと人々を導き、キリストのみわざの栄光をはっきり示してくださいます。
聖霊様のみわざについての教えは、私たちルター派のキリスト信仰者にとって愛着のある、大切な信条のひとつです。人間自身の行いや努力が 結果を最終的に左右する、と考える信者のグループがあります。人間に必要なのは、自分自身で信仰の決断をすることと、神様の御許に留まりつづける能力だ、というのです。ルター派のキリスト信仰者は、「使徒信条」の中の聖霊様についての信条について、次のように告白します、「私は、自分の力では、主イエス・キリストを信じることができず、その御許に行くこともできません。聖霊様が私を、福音を通して招いてくださったのです。このことを私は信じます」。こう言うときに、私たちは、神様の招きを傲慢に拒もうとはせず、逆にへりくだって、「もしも神様が御霊によって私のことを「御自分のもの」とみなしてくださるのでなければ、私には信仰者になる力も、一日たりとも正しい信仰に留まる力もありません」、と告白していることになります。このようにして、人間の弱さを知っているキリスト信仰者が安らぎを得ることができるのはよいことです。
この箇所の終わりのほうには、キリストの教会を二分するもうひとつのことがらが取り扱われます。伝統的にローマ・カトリック教会は、12~13節を次のように理解してきました。すなわち、神様の啓示は使徒たちの時代の後に途絶えたのではなく、ほかでもない教会(これはある人にとっては教会の公会議、またある人にとっては教会の組織の頂点に立つ法王を意味します)が神様の御霊の導きによって新しい決定を下す能力を継承している、という見方です。一方、ロシア正教会は、全世界の教会には歴史上最初の七つの(いわゆるエキュメニカルな)教会公会議の決定事項を保守する責務がある、という立場を取ります。一部のルーテル教会の中で一般化しつつある考え方は、常に聖霊が教会の公会議を神の意思が必ず実現するように導いており、それは公会議の決定が聖書の教えに反する場合でも変わらない、というものです。これと同じような考え方は他のケースでも見られます。例えば、聖霊が聖書の御言葉を無視して、直接的にキリスト信仰者の心に働きかけて、必要であれば、キリスト信仰者に聖書の禁じていることを行うように決断させる、という考え方です。
上述した一部のルーテル教会の考え方とは異なり、本来のルター派の信仰は、神様の御言葉は無謬であり、教会にとっても、キリスト信仰個人にとっても、十全に信頼できる指導書だ、という立場に基づいています。実際の教会の歴史をひもとくと、個人としてのキリスト信仰者も、牧師も、牧師団の長も、教会の公会議さえも、一様に誤った判断や決定を下すことがありうることを明瞭に示しています。それに対し、神様の御言葉だけが揺らぐことなく堅く立ち続けます。現代のフィンランドのルーテル教会の公会議は、時と共に、一般の人々の意見に期待に添うように物事を決定するようになってきています。しかし、私たちルター派の信仰によれば、神様の御霊は聖書の中で今も語りかけておられるので、御自分と矛盾するようなことは決してなさいません。それゆえ、私たちは聖書が教えていることに満足するべきです。そして、聖なる書物(聖書)の教えから引き離すような他の諸霊の影響を一切受けないように、警戒しなければなりません。神様の御霊は、迫害下にある教会の中で 働いておられ、この世に対してその罪と義と裁きを示される、ということを、イエス様の御言葉はここで指しています。聖霊様は、イエス様の御言葉に従うこととは異なる方向へ人を導くようなことを決してなさいません。
もうしばらくすると 16章17~23節
この箇所では、「もうしばらくすると」という言葉が、しつこいほどに繰り返されています。この大切な言葉をやり過ごして読み進めるのは、そうしたくてもできません。まさにこの言葉の中に、今回の箇所の核心が含まれているからです。イエス様は、御自分に属する人々を大変な苦境と迫害の中に残されようとしています。そのことを、神様をないがしろにする悪の世は喜び、悪魔は祝います。しかし、この状態はたんに一時的な瞬間に過ぎません。それは、あたかも子供が生まれる時のようです。産みの苦しみは大変辛いものですが、ひとたび子供が生まれると、それは大きな喜びに変わります。イエス様が弟子たちのもとを離れる場合も、それと同じです。イエス様に属する者たちが主から離れ離れになっている状態は、一時的なものに過ぎません。そして、キリストと再び顔を合わせることができるようになる時、非常に大きな喜びが彼らの心を満たします。
イエス様の御言葉は、教会にとって絶えず有効であり続ける勧告の言葉です。しかし、残念なことに、このことはしばしば忘れられています。もしも主が今日この世に再臨されるとしたら、いったいどのようなことになるでしょうか。イエス様に属する人々は、それに対して用意ができているでしょうか。それとも、「帰宅した後に家人を厳しくグループ分けせざるをえなくなる主人」についてのイエス様のたとえが実現してしまうのでしょうか。キリスト信仰者には、個人として、この世の時流に流され、キリストを忘れ、キリストの愛に対して冷たい態度を取るようになる危険が常にあります。全体としてみた場合、教会にも、キリストとその再臨を忘れ、他のことに関心を集中し、まるで最後の大いなる裁きなど決して来ないかのように思い込んで活動する傾向があります。最後の裁きは必ず来るし、キリストに従うことによってのみその裁きを免れることができる、ということを、私たちは心に刻んで生きているでしょうか。
イエス様は世に対して勝利された 16章23b~33節
イエス様と弟子たちの話し合いの終わりの部分では、「もうすでに」と「まだ~ない」という二者の間の緊張が高まり始めます。イエス様は教師としての公けの活動を終えようとしています。あとやるべきことは、御自分を信じる人々に幾つかの言葉を語ることだけです。他のことはすべて、すでに語られました。しかし、まだ何も実現してはいません。確かに弟子たちは、イエス様の御名によって神様に祈ることができますし、天の父なる神様は、御子イエス様のゆえに彼らを愛してくださいます。秘密のメッセージを謎めいた譬えによって語る時はもはや過ぎ去り、弟子たちに対して直接メッセージを伝えられる時が来ました。にもかかわらず、一番肝心なことは、まだこれから先に待ち構えています。すなわち、信仰が弟子たちから消えうせ、弟子たちは打たれて四散し、イエス様を見捨てる瞬間が来ようとしているのです。しかし、イエス様の御言葉は、弟子たちがそれらの失敗を後になってから乗り超えていけるように、心の支えとなるものでした。イエス様のうちにある全き喜びと平和が、弟子たちにその力を与えます。このように、「まだ~ない」ですが、一方では、「もうすでに」でもあります。なぜなら、イエス様はすでに世に対して勝利されているからです。