使徒言行録14章 「神」扱いされる人間たち

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

歴史は繰り返す 「使徒言行録」14章1〜7節

パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを出る際に、今後は異邦人のほうへ向かうことを彼らに反対したユダヤ人たちに宣言しました。

「パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。」
(「使徒言行録」13章46節、口語訳)

ところが次の目的地であるイコニオムという町でもパウロとバルナバはふたたび福音宣教をユダヤ教の会堂から開始したのです。

今後は異邦人伝道に重点を移すというパウロの宣言は重要です。すでに当時の教会では、異教を離れてイエス・キリストを救い主として信じるようになった人々のほうがユダヤ人キリスト信仰者たちよりも多くなっていたからです。たしかにユダヤ人には真っ先に福音を聞く機会が与えられましたが、彼らの大多数は福音を退けてしまいました。そのため、異邦人伝道が本格的に始まった後はキリスト信仰者の過半数は以前異邦人であったキリスト信仰者によって占められるようになり、ユダヤ人キリスト信仰者は瞬く間に少数派へと転落していきました。

それならば、パウロとバルナバがイコニオムの会堂に出向いたのはどうしてなのでしょうか。ユダヤ教の伝道者に対するイエス様の次の手厳しい評価がこの問題を考える際の手掛かりを与えてくれます。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」
(「マタイによる福音書」23章15節、口語訳)

各地でユダヤ教の教師が行っていた律法中心主義のユダヤ教伝道には、その内容のひどさにもかかわらず、律法によって良心が苦しめられている人々に福音を宣べ伝えるための下準備となる面もありました。ですから、旧約聖書とその出来事についてユダヤ教の教育を受けて知識を持っていた人々の間で福音宣教を開始するのは自然なことだったのです。

もちろんユダヤ人たちによるユダヤ教伝道にはキリスト教伝道にとってはよいことばかりではなく好ましくないところもありました。ユダヤ教の伝道者たちはキリスト教という新宗教を宣べ伝える人々をユダヤ教の脅威となる競争者とみなしたのです。こうした理由から、何度も似たような事態が各地で繰り返し起こることになりました。ユダヤ教の伝道者たちは巡り回った町々で福音宣教者に地元民が敵対するように仕向けたのです。

イコニオム(現在のトルコのコニヤ)は東西と南北を結ぶ道路の十字路に位置する重要な商業地だったため、そこにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。彼らの一部は富裕者であり、町の実権を握っていた人々と良好な関係にあったと思われます。ほどなくしてイコニオムでもユダヤ人の陰謀がめぐらされることになります。それは町に騒動を起こしそのどさくさに紛れてパウロとバルナバを殺してしまおうという陰謀でした。騒然とした状況では犯人を特定するのが難しくなるのも好都合でした。しかし陰謀の計画を事前に知ったパウロとバルナバはそこから約50キロメートル離れたルステラへと逃げていくことができました。

この世のちりのように

「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」4章9〜13節、口語訳)

パウロは上掲の節の最後でキリスト信仰者(とりわけ使徒)はあらゆる人間から見捨てられたような存在に等しいと言っています。ローマ帝国全土にわたってキリスト教徒迫害を強行した皇帝が多数いたわけではありません。それでも最初期のキリスト信仰者たちは自分の地位や立場が安泰であるとは片時も思えない緊迫した状況に置かれ続けたのです。

様々な瑣事をあげつらってキリスト信仰者を非難し糾弾するのはいともたやすいことでした。またキリスト信仰者のような新奇な宗教の怪しげな団体をあえて擁護するような者もいませんでした。そして幾度となくキリスト信仰者の血が流され続けることになったのです。「実際には皇帝ネロが自らローマに火を放ったのだろうが、それについてはわざわざ声をあげて抗議するまでもない。あの変なキリスト教徒どもが大火の責任をなすりつけられて罰を受けることになっただけにすぎない」というように考えて黙り込んだローマの住民も大勢いたのではないでしょうか。

このような出来事は歴史を通じて何度も繰り返されてきました。キリスト信仰者がその信仰のゆえに迫害を受けるのが容認されている国々がいつの時代にも世界のどこかに存在してきました。この状況は現在でも変わっていません。宗教以外の人権侵害に対しては迅速に介入する準備の整っている国連も、こと宗教的な迫害に対しては慎重な姿勢をとってきました。国連憲章が宗教の自由を謳っているにもかかわらず、国連加盟国の中には宗教の自由が建前でさえ保障されていない国々があります。宗教は国際政治の舞台においても人間の個人的な問題とみなされているということなのでしょうか。

西欧諸国や日本などにおいては宗教の自由が基本的には保障されています。しかしこれからどうなっていくのかは誰にもわかりません。そのような国の中で生活していても、例えばキリスト教信仰を真摯に受けとめる人間は学校でも職場でもその他の多数派から仲間外れにされてしまうということが起きています。

キリストの福音のメッセージの目的とは、福音を聴く人がそれを素直に受け入れることです。それゆえ、宣べ伝えられた福音は、かつての使徒たちの伝道の時のように、今日でもまた福音を聞いた人々を二つのグループにはっきりと分けていくことになります。

「そこで町の人々が二派に分れ、ある人たちはユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。」
(「使徒言行録」14章4節、口語訳)

ルステラで起きた二つの奇跡 「使徒言行録」14章8〜20節

ルステラでパウロは生まれながら足のきかない人を癒しました。このような奇跡が起きたため、町の住民たちはパウロとバルナバを人間の姿をとった神々であると思い込みました。

住民たちはルカオニヤの地方語で話し合っていたのでパウロとバルナバはこれから何が起ころうとしているのかわかりませんでした。そこにゼウス神殿の祭司が群衆と連れ立ってふたりに犠牲をささげるために雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきました。当時のローマ帝国の東部地域ではギリシア語が共通語でしたが、その他にも多くの地方語が話されていました。これは英語かフランス語が共通語として使用されているものの現地民は何か他の部族語を母国語としている現代のアフリカの多くの国々の状況と似ています。

「ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。」
(「使徒言行録」14章14〜17節、口語訳)

パウロとバルナバは民衆が彼らのために犠牲を捧げようとするのをようやくのことでやめさせることができました。

しかし、ほどなくすると使徒たちへの民衆の態度は一変します。近隣の町々からやってきたユダヤ人たちが群衆を味方に引き入れてしまったのです。こうしてイコニオムでの陰謀が実現し、パウロは石を投げつけられました。当時、石打ちはユダヤ人による処刑法としてよく知られていました。パウロはてっきり死んだものと思われて町の外に、おそらく処刑された者の墓場であるゴミ捨て場のような場所へと引きずられていきました。しかしここで新たな奇跡が起こります。弟子たちが見守る中、パウロは起き上がって町へと帰り、翌日にはそこから約60〜70キロメートル離れたデルベに向けて出発したのです。

古典古代で奇跡は頻繁に起きたのか?

奇跡の出来事をめぐっては多くの重要な主張や学説が立てられてきました。現代の聖書研究では「古典古代にはさまざまな奇跡を行う旅人たちがいた」と強調されることがよくあります。「新約聖書の数々の奇跡の出来事は、古典古代に流布していたいわゆる神人の物語からキリスト教徒が引用したものにすぎない」という主張もなされています。

ところが、せめて一人でもよいからこのような奇跡を実際に起こした古典古代の旅人の名前を具体的に挙げてみるように研究者たちに尋ねてみても答えは一向に返ってきません。

パウロの行った奇跡がこの箇所でのように当時の人々の大きな反響を呼んだことからもわかるように、多くの聖書研究者たちの主張とは異なり、奇跡は当時の世界でも決して一般的な現象ではなくごく稀な出来事だったのです。

「ローマ帝国の詩人オウィディウスの書いたある物語がこの箇所の奇跡の記述の背景にあるのではないか」という推測も提示されています。その物語ではギリシア神話におけるゼウスとヘルメス(あるいはローマ神話におけるユピテルとメルクリウス)がかつて人間の姿をとってルステラの地方を訪れますが、地元民は彼らを受け入れようとしませんでした。ところがフィレモンとバウキスという年老いた夫婦だけは親切に彼らをみすぼらしい自宅に招き入れます。神々は老夫婦の親切心に報います。神々を拝むことができる神殿に老夫婦の家を変えました。それとは対照的に、彼らを冷遇した地元民のことは洪水で溺れ死にさせたのです。

もしもオウィディウスの語った物語が当時のルステラで知られていたとするならば、この箇所で地元民のとったパウロとバルナバへの態度を部分的には説明することができます。とはいえ、当時の世界でも実際に奇跡が起きたのはごく稀でありオウィディウスのものと同じような架空の作り話が今度はパウロとバルナバを主人公として新たに綴られることはなかったと推定するべきでしょう。

借用か反対か?

パウロとバルナバは自分たちのことを神々呼ばわりする民衆に対して毅然とした態度をとりました。彼らは自分たちが異教の神々と同一視されることをなんとしても避けたかったのです。

このことは今までしばしば提案されてきた次のような聖書解釈が正しいものではありえないことを明らかにします。それは「例えば処女懐胎や死からの復活などキリスト教の中心的な教義の多くをキリスト信仰者は異教の諸宗教から借用した」などと主張する解釈です。

異教の諸宗教は最初期のキリスト信仰者にとっておぞましいものでした。そうであった以上、どうして彼らがキリスト教信仰の核心にある教義の数々を異宗教から借用してくることなどがありえましょうか。

例えばここで「どうしてキリスト教信仰は多くの人を信仰に導くという輝かしい成果を収めたのか?」また「もしもキリスト教が他の諸宗教からのたんなる借用にすぎないのであれば、どうして借用された他の諸宗教は信者の獲得競争でキリスト教に勝てなかったのか?」という問題を考えてみるとよいでしょう。これらの視点も借用説をとる聖書解釈が事実に全く反していることを示唆しています。

実際の歴史でキリスト教は明確な勝利を収めました。なぜならば、それは当時の他の諸宗教とは全く異なっていたからです。

パウロがリーダー

「群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。(中略)ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。」
(「使徒言行録」14章11〜12、19節、口語訳)

上掲の箇所で民衆はパウロを「ヘルメス」と呼びました。ギリシア神話でヘルメスは伝令を司る神であり、ゼウスは主神でした。また群衆はバルナバではなくパウロを石で打って殺そうとしました。このことからは民衆がパウロをキリスト教伝道の指導者とみなしていたことがわかります。13章13節にある「パウロとその一行」という言葉にもそれがあらわれています。

なおパウロは「石で打たれたことが一度」あったと述べています(「コリントの信徒への第二の手紙」11章25節)。

パウロの説教

「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである。」
(「使徒言行録」14章15〜17節より、口語訳)

この箇所で語られているパウロの説教は「ローマの信徒への手紙」1章の終わりの部分と「使徒言行録」17章22〜32節のアテネのアレオパゴスでの宣教と内容的に共通するところがあります。

この説教は異教徒の根本的な誤謬が何であったかを明らかにしています。それは、彼ら異教徒が創造主をではなく被造物を崇拝して仕えるようになってしまったという点です。これについては「ローマの信徒への手紙」1章25節に加えて「イザヤ書」44章12〜20節での偶像礼拝の愚かさの描写も参考になります。

神様は異邦人(すなわち非ユダヤ人)にも良い賜物を与えてくださいました。ところが異教徒は自分勝手な道を突き進んで行きました。しかし、数々の良い賜物を与えてくださった天地創造の主の御許へと人生の方向転換をする時が今や到来したのです。

アンテオケへの帰還 「使徒言行録」14章21〜28節

今までの海外宣教の旅からの帰途につく前にパウロとバルナバはさらにもうひとつの町に教会を設立しました。伝道はデルベで実を結びました(21節)。しかしパウロとバルナバはあまり長い間その町に滞在することができませんでした。帰還の時が来たからです。

ところでパウロとバルナバが今までの旅と同じルートを逆に辿って帰途についたのはどうしてなのでしょうか。タウロス山脈を越える旅路を選べばパウロの故郷タルソのあるキリキア地方に入ることができ、そこからシリヤのアンテオケまではほんの短い旅で済んだはずです。さらにまた、彼らが滞在中に事件の起きたイコニオムやルステラを通って帰るのは確実に安全であるとは言えませんでした。それらの地でパウロが受けた石打ちや迫害が不法行為であったとはいえ、同様の事件にふたたび彼らが巻き込まれないという保証は全くなかったからです。

しかしパウロとバルナバには重要な任務がありました。彼らの活動を通して設立された諸教会が現在どのような状態になっているかを視察して信仰的に支えるという仕事です。パウロは諸教会の信仰的な世話を通常は手紙を通じて行いました。とはいえもちろん実際にパウロ自身が教会に出向くほうが効果的でした。

短い教会訪問の折に使徒である彼らはそれぞれの教会の面倒を見る長老を任命しました。ギリシア語で長老を意味する「プレスビュテロス」は後の時代の多くの言語でも牧師を意味する単語の語源となりました(例えば英語のPriester)。

当時の教会は組織として現代のものとはもちろん異なっていました。現代の個々の教会間にも相違する面が多く見られます。しかしここで注目すべき重要な点は、教会ではその最初期の頃からずっと教会の聖職を司るために選び分たれた正式な指導者が存在したということです。今に至るまで教会の活動では指導者の存在が必要とされてきましたし、その必要性はこれからも変わりません。ですから、例えば「最初期の教会は(人間の指導者は存在せずに)直接に聖霊様からの指導を受けていた」などという主張は教会史的に見るとまったく根拠がなく不適当なものです。

アタリヤについたパウロとバルナバはそこでルートを変えてもはやキプロス島には渡らず、まっすぐにアンテオケに向けて(より正確にはアンテオケの港町セレウキヤに向けて)海路を進みました。

アンテオケ帰還後の集会

パウロとバルナバは彼らを海外宣教の旅に送り出したシリヤのアンテオケ教会に帰還すると、さっそく教会の人々を呼び集めて神様の偉大なる御業の数々について喜びを分かち合う時を持ちました。

この宣教旅行の帰路でパウロは諸教会に対して「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と教えてきました(14章22節)。この予言は異邦人伝道においてもまもなく実現することになります。

しばらくするとエルサレムからの一団がアンテオケにやってきました。ユダヤ人キリスト教徒であった彼らは信仰に入った異邦人が割礼を受けないまま教会員として迎えられるアンテオケ教会のやりかたを認めようとはしませんでした。次はこの事件について取り上げることにします。