聖餐式とは何ですか。

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

キリスト信仰者は聖餐式に参加します。
聖餐式はイエス様の命令によってもたれる聖なる会食の場です。
聖餐式が行われる時にはかならず、牧師が聖餐式の設定辞を唱えます。
この設定辞は、エルサレムでイエス様が死ぬ前日の出来事についての聖書の箇所から構成されています。
イエス様はこの設定辞をもって弟子たちと共に聖餐式の時を過ごされました。
そして、後でもこの最初の回と同じ設定辞に基づいて弟子たち(キリスト信仰者)が共に主の聖餐にあずかる機会をよく設けるように、とお命じになりました。

「聖餐式で食するパンはイエス様の体であり、飲むぶどう酒はイエス様の血における新しい契約である」、と聖餐式の設定辞は告げています。
また、マタイによる福音書で、「聖餐式のぶどう酒は私の血である」、とイエス様は教えておられます。
聖餐式が施行されるところにはイエス様の体と血がある、つまり、イエス様ご自身がそこにおられる、ということです。
イエス様は聖餐式の時に特別な形で存在しておられるのです。

聖餐式で、私たちはイエス様に出会い、イエス様は私たちに出会われます。

「イエス様の御許に近づくためにどこに行くべきだろうか」、と思い悩む時には、聖餐式に参加してください。
イエス様は聖餐式に実際におられ、聖餐を受ける者の信仰を整え強めてくださいます。
これは聖餐式がもたらす偉大な奇跡です。

聖餐式に参加しても、「私は今イエス様と出会っている」という実感がいつも湧くわけではないし、むしろそのようなことはあまりないかもしれません。
ここで注意すべきなのは、私たちの感情や感覚がイエス様をどこかに連れて来るわけではないしイエス様がどこかに来るのを妨げるわけでもない、ということです。
私たちがどう感じているかとは無関係に、イエス様は「自分がそこにいる」と約束した場所におられるます。
そして、イエス様は、ご自分が聖餐式の場に共にいることを約束なさいました。
私たちはイエス様ご自身の言葉に基づいて、聖餐式のパンはイエス様の体であり、聖餐式のぶどう酒はイエス様の血である、と断言できます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、
「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」
聖書の(マタイによる福音書26章26〜28節)

もっと見る
マルティン・ルターの「小教理問答書」 聖餐の礼典について
「信仰のABC」 聖餐