「何をするべきか」を知るのは楽じゃない。 あの友達はまたお金を借りたがっている。 彼は困っていることが多いし、僕は何度も彼を助けたことがある。 でも、一度にこんな大金を借りたいだなんて。 もし今回は「貸さない」と言ったら、僕は間違ったことをしたことになるのかな?
イエス様は弟子たちについて「彼らは世にいるが、世のものではない」と言われました(「ヨハネによる福音書」17章11、16、18節)。
イエス様が言われる「世にあること」という言葉には「イエス様の弟子たちはこの世で生きていかなければならないし、国民や家族の一員や就労者として生活を営まなければならない」ということ以上の意味を含んでいます。イエス様は、天の御父様が御自分を遣わされたのと同じように、弟子たちを世に派遣なさいました。弟子たちには世でなすべき使命があるからです(「ヨハネによる福音書」17章18,20,21節)。ですから、「この世との接触をできるかぎり減らすべきである」と考えて、周囲から距離をとり自分の殻に閉じこもるのは、イエス様の弟子として正しい生き方ではありません。
イエス様が世に属してはいないのと同様に、弟子たちもまた「世のもの」ではありません。何かが根本的に弟子たちを世から隔てていて、世は彼らを知らないのです。よりはっきり言えば、世は彼らを憎んでいるのです(「ヨハネによる福音書」15章18節以降、17章14節)。
ここで「世」という言葉が意味しているのは、新約聖書の他の多くの箇所と同様に、「神様を知らず、意識的あるいは無意識的に神様に反抗している堕落した世」のことです。「世のもの」であるとは、世の諸霊によって命令され変化を受ける生きかたを意味しています。世のものではない者は、世の諸霊ではなく御霊によって導かれています。そして、これがキリスト信仰者であることの目印です。キリスト信仰者はキリストにあって新しくされたのです(「コリントの信徒への第二の手紙」5章17節)。この新しい生き方は、キリストから発しキリストと共に歩む命のことです。
「世」にはもうひとつの意味があります。神様の創造なさった世界としての「世」です。神様がお造りになられたものは「よいもの」です(「創世記」1章31節)。たしかに、私たちは神様の御心に反することがしばしば起きる堕落した世の只中で生きています。しかし一方では、私たちの周りを眺めてみると、神様のよき創造の御業の「筆跡」にも気が付くことでしょう。また、不信仰な人々のうちにも、実際には神様の御心にかなっている点がたくさんあります。例えば、個人の活動、人間の共同生活、社会を維持している組織、いろいろな物の生産にかかわる働き、芸術、学校などといった人間生活の多くの分野には、神様の御心にかなう面もあれば、神様の御計画に反している面もみられます。それゆえ、キリスト信仰者は傍観して「神様は邪悪な世が悪を行うのを放置している」とは言えないし、一方では、世の中で一般に承認されている慣習や意見ならばなんでも受け入れてしまうこともできません。「今の時代では誰でも同じようにしているから」といった理由付けではキリスト信仰者は納得しないからです。
キリスト信仰者がこの世のものではないことには肯定的な意味もあります。これは、キリスト信仰者が他の世から来た者であることを意味しているからです。「私の王国はこの世のものではありません」とイエス様は言われています(「ヨハネによる福音書」18章36節以降)。ピラトはこの危険な返答にとまどいをおぼえ、イエス様に「お前は本当に王なのか」と尋ねました。イエス様は「その通り」と答えられました。この世のものではない王国を打ち建てるために、イエス様はこの世に来られたのです。そして、イエス様に聴き従う者は誰でも皆、この王国に属しています。
福音書を読んだことのある人なら誰であれ、イエス様がこの御国についてどれほどたくさん語っておられるか、知っています。それは「神様の御国」とか「天の御国」と呼ばれています。「天の御国はそのすべてが別の世に属するものだが、神様の御国はすでにいまここに存在する可能性がある」と考える人たちもいます。しかし、これは間違った考えかたです。「天の御国」も「神様の御国」もまったく同じものだからです。たとえば、ユダヤ人は神様の御名に対して敬意を表するとき、「天」という言葉で神様のことを指す習慣があります。これを考慮に入れると、たしかに神様の御国は別の世に属しつつも、それと同時に、すでにいまここに存在していることもありえることになります。一方では、それはまったく別の世界であり、神様の新しい創造の御業がなければ一人として中に入ることができない、今の世界とはまるで異質な存在形式を有する世界です。しかし他方では、この新しい御国は私たちの只中ですでに今も隠れたかたちで活動しているものです。それはまだ「力をもって」到来してはいないからです。それがいつか「力をもって」来るときに、新しい世の時が始まります(「マルコによる福音書」9章1節)。
イエス様は「この世の時」と「来るべき時」について語られました。この意味をあらわす言葉はギリシア語で「アイオ―ン」と言います。この言葉は新約聖書ではたんに長い期間を意味するだけではなく、独自のつくりとかたちをもつある世界全体の存在をも意味しています。「この世の時」は天地創造のときに始まりました。「この」世の時と言う言葉があらわしているように、世の時というのはただひとつではありません。この世の時のあとには、次の世の時が来るのです。パウロは「この世のかたちは消え去ろうとしている」と言いました(「コリントの信徒への第一の手紙」7章31節)。神様の御計画には、すべてを新しくすることが含まれています(「ヨハネの黙示録」21章5節)。被造物世界は深く傷ついています。神様の敵がこの世界を破壊しようとした際にその痕跡を残してきたからです。その傷跡は深く、魂の敵は「この世の神」と呼ばれるほどです(「コリントの信徒への第二の手紙」4章4節)。「この世の子どもたち」という言葉でイエス様は、不信仰な人々のことをさしています(「ルカによる福音書」16章8節)。根本的な刷新のみがこの傷を癒すことができます(「ヨハネによる黙示録」21章1節)。そのためにこそ、神様は新しい天と新しい地を創造なさるのです。すべて基礎から刷新されなければなりません。パウロは「肉や血は神様の御国を継ぐことができない」と言っています(「コリントの第一の手紙」15章50節)。世も新しく生まれて、新しい世界に改まらなければなりません(「マタイによる福音書」19章28節以降)。
このような言葉によって「ニカイア信条」は終わります。キリスト信仰者は、はじめに神様が天と地を創造されたことを信じているのと同じように、世のおわりに神様が新しい天と新しい地とを創造なさると信じています。キリストは私たちをこの来るべき世界における新しい命へと招いておられます。この地上では、キリストただおひとりがこの新しいかたちをもっておられました。死に就いている者たちの初穂(長子)として墓の中からよみがえられたときに、イエス様はこの新しいかたちをもたれたのです(「コリントの信徒への第一の手紙」15章20節)。
この聖書講座の第6章の終わりのところで、私たちは「栄光の王国」と「恵みの王国」について触れました。このふたつの王国は同じ王国の別の面をあらわしています。栄光の王国は、神様の御国がいつか見えるかたちであらわれる時の、その力に包まれた御国のありさまをさしています。恵みの王国は、この地上において私たちの只中ですでに始まっている同じ御国のことです。すでにここで、来るべき世の時の力を味わうことができるのです。すでにここで、人々は「御国の子ども」になることができるのです。
恵みの王国はキリストの教会の中にあります。そこで神様の御国は、恵みの手段に隠されつつ私たちの世界にやってきます。洗礼において私たちは御国の臣民に加えられます。御言葉と聖餐はキリストが私たちに与えてくださっている命を育んでくれます。しかし、私たちはこれらすべての事柄の表面だけを見ているに過ぎません。それゆえ、私たちは恵みの王国に活き続けるかぎりは、見ずに信じるべきなのです。栄光の王国に入ったときにはじめて、私たちは神様と対面することができ、実際に見ることができるようになります。
それゆえに、恵みの手段(御言葉、洗礼、聖餐)はキリスト信仰者の生活にとって欠かせないものなのです。私たちはすでに洗礼について話しました。洗礼は新しい誕生であり、洗礼を通して私たちはキリストが賜る新しい命に与ります。私たちはまた、どのように御言葉がキリストへの信仰を作り出すか、語りました。次に私たちは、福音ルター派がどのように聖餐を理解しているか、短く説明することにしましょう。
聖餐式はキリスト御自身が聖書で設定なさったものであり、聖礼典(サクラメント)と呼ばれます。外面的に見える「しるし」は、パンとぶどう酒です。目に見えない賜物を構成しているのは、キリストのからだと血です。聖餐を設定なさったときにイエス様御自身がこのように言われたので、使徒的な教会にとってこれは疑う余地のない真理です。「私たちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血に与ることではありませんか。私たちが裂くパン、それはキリストのからだに与ることではありませんか」(「コリントの信徒への第一の手紙」10章16節)。しかし、ルター派の教会の信条をまとめた「一致信条書」が注意しているように、聖餐をいただくことは私たち人間には理解しがたいような「超自然的な食べかた」なのであって、「大雑把に、肉的に、カペルナウムのユダヤ人たちのように」理解してはなりません。この後者の見方は、カペルナウムのユダヤ人たちがイエス様の発言の意味を誤解して、「イエスは自分の肉体を食べさせることについて話している」と思い込んでしまった出来事をさしています(「ヨハネによる福音書」6章51節以降)。
聖餐式は、復活された救い主およびその命に与ることに関わっています。そこでは、来るべき世の命がいますでに私たちにパンとぶどう酒とともに贈られるのです。ルター派の教会の聖餐についての教えは「キリストのからだと血が、本当に、パンとぶどう酒の中に、パンとぶどう酒と共に、パンとぶどう酒の下に、私たちに与えられる」とも表現されてきました。すなわち、天の贈り物が本当にこれらのこの世の物質の中にあって、それらと共に私たちに与えられるのです。とはいえ、パンとぶどう酒が何か他のものに変質したのではありません。私たちはこの贈り物を聖餐のパンとぶどう酒の「下に」いただきます。イエス様の神としての性質がこの地上では「人間」という目に見えるお姿の「下に」隠されていて、ここにいる人が神様の御子であることを不信仰によっては決して見出せないのと同じように、イエス様のからだと血もまた、この世の物質の「下に」、それらの外面のかたちのうしろに隠されているのです。信仰だけが聖餐の真理を理解します。パンとぶどう酒をいただいた人は皆(信じる人も信じない人も)、キリストのからだと血をいただきます。しかし、信じる者だけがこの賜物の祝福をいただけるのであり、それを正しく活かすことができるのです。
ルターは「小教理問答書」の中で次のように尋ねます。
「このように聖餐を食べて飲むのはどのような役に立ちますか。」 そして、彼はこう答えます。 「聖餐は私たちに罪の赦しと命と救いをもたらします。」 キリスト御自身も聖餐を設定されたときにこう言われています。 「あなたたちのために与えられ、罪の赦しのために流された。」 ルターは続けます。 「罪の赦しのあるところには命と救いもあるからです。」
これらのことは互いに密接に結びついていて分け隔てることができません。キリストがおられるところに罪の赦しがあります。そして、人はキリストに結び付けられるとき、キリストの命にも結び付けられるのです。
私たちはこの世のものではない「来るべき御国」に与っています。聖餐式の式文には、御国の到来のさいに必ず来られるお方は、いますでに私たちのもとに来られ、私たちの只中にいてくださる、という信仰があらわれています。それゆえ、そこではセラフィムたちの「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という天の賛美の歌と「主の御名によって来られる方に祝福がありますように」という弟子たちの喜びにみちた挨拶とが同じひとつの賛美歌となっています(「イザヤ書」6章2節以降、「ルカによる福音書」19章37節以降)。
聖餐式に参加する人たちにはイエス様のからだと血が与えられます。それゆえ、聖餐式をまちがったやりかたで利用することは、それを行う者が主のからだと血に対して罪を犯すことを意味します(「コリントの信徒への第一の手紙」11章27節)。パウロの言いかたを借りるなら、聖餐を「ふさわしくないままで」受けるときにこのような事態になります。注意すべきは、聖餐を受けるのにふさわしくない人々についてそう言われているのではないということです。聖餐の賜物を受け取るのにふさわしい人など実は一人も存在しません。しかしその一方で、この賜物をふさわしくない態度で受け取ってしまう場合はありえます。
この質問に対する最も単純で聖書的な答えは「弟子たちのためである」というものです。「イエス様の弟子」とは、イエス様に従っている人のことです。これを私たちの場合に当てはめるならば、イエス様の御言葉を聴き、イエス様に祈ることを意味しています。その目的は、真の信仰をいただいてその信仰に留まり続けるために私たちがイエス様を正しく知るようになることにあります。ですから、いったい自分に真の信仰があるかどうか、誰も悩む必要は誰ありません。大切なのは、イエス様が義しいことを素直に受け入れて、イエス様の教えを学ぶためにイエス様のお話に聴き入ることです。
聖餐を受けるのにふさわしい態度とは、自分の義しさに頼るかぎり神様に受け入れていただくのにふさわしい者には決してなれない、と知ることです。
ルターは「大教理問答書」でこう教えています。
「それゆえに、ここでは人々が区別されるべきです。すなわち、厚かましく粗野な人々に対しては、この聖礼典を受けないままでいるように命じなければなりません。というのも、彼らは罪の赦しをいただくことを切に願ってはおらず、信仰者であろうと望むことも好まないのですから、彼らは罪の赦しを受ける用意ができていないのです。しかし、彼らのように粗暴でもなく無思慮でもない、喜んで信仰者であろうとする別の種類の人々は、たとえ彼らが弱くて欠点をもっていたとしても、この聖礼典から遠ざかるべきではありません。(中略)というのは、体や血(つまり生身)のうちに日々多くの欠点を抱えていない状態にまで達する人は誰もいないからです。 このような人たちは、私たちの聖礼典が私たち自身の価値に基づくものではない、と知ることこそが最高の技能である、とわきまえるべきです。なぜなら、私たちは自分が適格で聖なる人間であるがゆえに洗礼を自分に授けていただくのではないからです。また、私たちがざんげに赴くのは、私たちが純潔な罪のない者であるからではありません。そうではなく逆に、私たちが貧しく惨めな人間であり、不適格な人間であるというまさにそのゆえになのです。ただし、恩恵も赦免も切望しておらず、自分自身を改善しようと考えてみもしない人々にはこれはあてはまりません」(「大教理問答書」第5部 聖壇の聖礼典 58~62節(ドイツ語版より訳出))。
「あなたがたはこの世のものではありません。(・・・)だから、この世はあなたがたを憎むのです。」 (「ヨハネによる福音書」15章19節より)
キリスト信仰者として存在することは、この世のものではない交わりの中に入ることを意味します。私たちを取り巻く世界の中には、神様の御国にはまったくそぐわないものや、神様への敵意をむき出しにするものさえあります。それゆえ、とりわけキリスト信仰者として生きる姿勢は、周囲から好奇の目で見られたり笑われたり悪評を招いたりする場合もあるでしょう。こうなるのはキリストのゆえであり、キリスト教に基づく生活につきまとうものです。キリスト信仰者としての生活の中には「何か」が神様の御国から私たちの住む世界へと入り込んできています。その「何か」が、この世では当前とみなされている功利的な思考を打ち崩します。神様の御国からのこのような働きかけがない場合には、私たち人間は責任、罪悪感、公正、応報的な考えかたなどを基準にして行動するものです。そして、神様の律法も人間の定めた法律も、人間のこのような基本的な行動様式を考慮に入れて制定されているのです。
しかし、神様の御国は「罪の赦しの王国」です。自分のほうも絶えず新たに何度でも無制限に罪の赦しをいただいている身であるがゆえに、私たちは「他の人の罪をこの局面で赦してしまったら、いったいどのような結果を招くだろうか」などと悩んだりせずに、他の罪人たちに対しても罪の赦しを与えることができるのです。私たちは、もう片方の頬も打たれるように向けてやることができるし、私たちを強いて1マイル行かせようとする者と一緒に2マイル行くこともできるし、下着を取ろうとする者には上着も与えてやることができます(「マタイによる福音書」5章38~42節)。イエス様の名高い「山上の説教」の大部分はまさしくこのような生きかたを私たちに教えています。(この教えは一般の倫理の教科書にはまったく不適切なものです。なぜなら、このような生きかたは、キリストの十字架の死によって聖なる神様と罪深い人間存在との間にもたらされた「和解」を前提としているからです。このことを無視して「山上の説教」を読んだ多くの人々はキリスト教に関して誤ったイメージを抱くことになりました。)
このような新しい生きかたは世に対してキリストを証するものとなるかもしれません。イエス様が言われているように「真理に属する」人々がこの世には存在するのです。それゆえ、彼らはイエス様の声を聴き、真理が現れるときには「光のもとへと来る」のです(「ヨハネによる福音書」18章37節、3章21節)。彼らはキリストの光を微かにでも見ることができた場合には、自ら喜んでその光に反応します。ところが、他の人々は軽蔑と苛立ちをもってその光に反応します。彼らは新しい生きかたを自分らに対する挑戦と受け取り、脅威を感じるのです。新しい生き方はそれまで彼らが慣れ親しんできた生活環境を破壊してしまうからです。それゆえ、彼らはそれを「理性的ではない」とか「偽善的だ」とか「人生の楽しみを全否定する霊的すぎる生きかただ」などと言って拒絶する必要にせまられるのです。
「山上の説教の描く罪の赦しの王国の中で生きようと努める人は否応なく滅んでしまうことになりはしまいか」というもっともな質問がここで出てきそうです。もはや「悪に対して逆らってはいけない」のだとしたら、社会全体が無秩序に陥ってしまうのではないでしょうか(「マタイによる福音書」5章39節)。
先の疑問への答えは、福音によれば悪に対して立ち向かう公的権威が制定され存在している、というものです。それは「国家」や「市町村」や「役所」などと訳せるものに対応しています。ここでは単純に「国家」について話を進めることにしましょう。
新約聖書は国家が「神様に由来するもの」であると言っています。しかしそれは、「国家はすべてにおいて過失を犯すことがないし、その働きはあらゆる点で神様の御心を代行しているのだから、国家を批判せずに、そのまま承認するべきである」という意味ではありません。そうではなく、大切なのは、「神様によらない権威はなく、それらの権威はすべて神様によって定められたものである」という点です(「ローマの信徒への手紙」13章1節)。国家は神様から特別な使命を受けています。神様はこの世で社会と司法組織が正常に機能することを望んでおられます。それゆえ神様は、人間が創造された時に神様からいただいた「善を行う力」を通してたゆまずに働きかけておられるのです。神様はこの善を行う力によって人間が社会を構成するようにし、個々人の暴力や横暴を統制し管轄するために司法組織を設置なさいました。これは創造主が被造物世界を維持する働きに関係しています。この働きを通して神様は被造物世界が無秩序状態になって崩壊してしまわないようにしてくださいました。国家は新約聖書が「この世の時」と名づけている時空間に属する秩序です。「この世の時」とは、現時点ではとりあえず有効ではあるものの、いつかは「新しい時」に道をゆずり退かなければならない「時」のことをさしています(これについては次章で詳しく扱います)。国家は神様の御国の新しい生きかたに従うことができません。キリストの御国は、罪の赦しを受けたり与えたりする「罪の赦しの王国」です。それに対して、国家は公正が法律によって維持されるために存在しています。国家は「いたずらに剣を帯びているわけではありません」。危機に際しては、人間の命を守り悪の勝利を阻止するために、国家は暴力や武器をも用いることになります(「ローマの信徒への手紙」13章4節)。
このように任務を遂行するとき、国家は「神様の僕」としてそれを行っています。この際、国家は神学用語でいう「律法の第一用法」に対応する内容を実行しています。神様の律法は、暴力が抑制され善き秩序が世に維持されるためにも存在しているのです。不信仰な人々もこの点では我知らずして神様の御業を補助しています。この律法の第一用法は、両親、教師、裁判官、法律の制定者、通常の法律業務に携わっている人々、それに公正と安全の維持のために働いている人々など一般に関係しています。
「律法の第二用法」は第一用法とはまったく別のものです。この用法の目的は、律法が私たちの良心に働きかけて、私たちがキリストの御許へ避難してイエス様に罪の赦しを願うようにさせることにあります。この働きかけを神様は御言葉を通じて行われます。そして、ここで用いられる手段は国家ではなく、教会です。
キリスト信仰者は「キリストの御国のもの」になっていますが、同時に一方では、依然として被造物世界にも居住しています。キリスト信仰者にはこの二つの世界における使命があり、国民としての義務があります。
キリスト信仰者として人は自分の生き方によって「より善い新しい義」について証するために「世に派遣されて」います(「ヨハネによる福音書」17章18節)。この義はキリストおよびキリストによる罪の赦しと共に到来しました。その一方で、キリスト信仰者は「世の中に」生きており、その所属する国家の一員としての義務を負っています(「ヨハネによる福音書」17章11節)。
キリスト信仰者は同時に二つの国に属しているので、二重の義務を担っていることになります。あるキリスト信仰者にとってその使命とは、もう一方の頬を打たれるべく差し出すことであるかもしれません。しかし同時に他方では、その人には国家の役人として犯罪人を逮捕する職務があるかもしれません。人は一個人のキリスト信仰者としては自らの受けた不公正を根に持たず忘れることにする場合もあるでしょう。それどころか、不公正に対して(復讐ではなく)奉仕という善き行いによって応対することさえありえます。しかし、会計監査の業務や公職の任務を遂行する際にはそのように行うことができません。一般的な原則としては次のことが言えます。私たちは社会や司法の働きを担う者としては法と公正を遵守しなければならず、「山上の教え」にそのまま従うことはできません。しかしその一方で、私たちはキリスト信仰者として個人的に「山上の教え」に従うことはできます。もうひとつの原則は、何かに関して自らの権利を誰かが行使せずに譲歩しなければならなくなった場合に、他ならぬキリスト信仰者である自分こそが率先して譲歩しなければならない、ということです。権利の放棄から生じるやむをえない不利益は、他の人ではなくキリスト信仰者である私たち自身が担うべきなのです。たとえば、家族の父親が自分の家族を養うために神様から一家の財産の管理を委ねられていることを忘れてお金を浪費するならば、それは正しくありません。しかし、こうした原則はあらゆる状況に対応するためには大雑把すぎるものであることは覚えておかなければなりません。まずもって、キリスト信仰者は規則によって行動するのではなく、活ける主の僕として活動するものです。
国家は「神様の従僕」なのです。しかし、国家は「キリスト信仰者」ではありません。国家は福音ではなく法律に基づいて運営されています。国家が誤りを犯さないことはありえません。それは、神様の御心を行おうとするキリスト信仰者についてもいえることです。指導的な立場にある人たちの中に神様を信じておらずその御心に沿って働こうとはしない人々が大多数を占める国家では、それはなおさらのことです。
また、社会生活の中でも、創造主と神様の御心に反抗する諸力との間に絶え間ない戦いがあります。そして、破壊し尽くす諸力が圧倒的に見えるときがあります。そうかと思うと一方では、不信仰な人々の助力によって社会的公正が実現していくように見えるときもあります。キリスト信仰者も国民として、創造主の善なる御意思と、一切を破壊しようとする諸力との間の戦いに加わっているのです。このため、キリスト信仰者には次に述べるような義務と責任が与えられています。
第一に、キリスト信仰者は社会が神様の御心に沿って、すなわち人々の真の益となるべくきちんと機能するように尽力します。キリスト信仰者は責任を自覚しそれを全うするためにできるかぎりのことを行う忠実な国民です。キリスト信仰者は法と秩序を遵守します。それは違法行為が受けるべき好ましからぬ結果(処罰)を避けるためだけではなく、パウロが言っているように「良心のためでもあります」(「ローマの信徒への手紙」13章5節)。キリスト信仰者は社会が抱える組織的な欠点などを自己の義務を怠る言い訳にはしません。一般の人々の利益を犠牲にすることで何の処罰もなしに私益を得ることが可能な場合でも、キリスト信仰者は正直に自らの義務に忠実であり続けます。
第二に、キリスト信仰者は社会の欠点を修繕するためにできうるかぎりのことをします。民主国家では国民ひとりひとりにこの事業に参加する可能性と責任があります。選挙権は自らの利益を守ることだけをその目的としているのではありません。それは他の人たちの状況に働きかけることを可能にするものです。このことからわかるのは、私たちには他の人たちの置かれている状態に対して真心から配慮する義務があるということです。福音は本来、なんらかの仕方で差別を受け社会から忘却されている人たちのことを私たちが特別に配慮するようにと常に働きかけるものです。教会はこの点について社会に対する特別な責任を担っています。教会が具体的に何を行うかについては、「教会員たちが教会に何をするように望んでいるか」とか「教会員たちがどのようなことをキリスト教的に不可欠な義務であると感じているか」ということに左右されます。かつて教会は教育や病院や社会的奉仕などの分野において先駆的な役割を果たしてきました。教会は人々に援助を提供する新しい仕事のかたちを生み出してきました。その後で国家はそれらの活動を発展させ、社会的にさらに広く継続してきました。いつの時代でも、これら新しい社会福祉のやりかたは、たとえすでに社会保障制度のある国家であっても、十分すぎる状態になることは決してありません。上述のような画期的ともいえる活動は教会の中でも必要とされています。キリスト信仰者が個人的に始めた新しい奉仕の働きが次第に教会としての新しい仕事のひとつとなっていくことなどがその一例です。また、一般人が直接行使できる政治的な手段が制限されている社会においても、何かしら可能性が残されているものです。社会を形作る原動力は政治家や選挙(もしも自由選挙があればですが)だけではなく、国民という大集団です。国民はひとりひとりが自らの置かれた社会的環境の中で活動しており、社会における公正の秩序を実生活に適用し、社会や支配者層からの援助を期待しつつそれぞれの日常を営んでいます。
第三に、「忠実さ」にも限界があることを覚えなければなりません。国家が悪の手先に成り下がることもありうるからです。新約聖書は、サタン的な国家が存在しうることを告げています(「ヨハネの黙示録」13章)。当時のローマ帝国が異教的であり欠点をもっていたにもかかわらず、パウロはその権威に対して好意的に接しました。その一方、新約聖書には、全体主義国家が未来に出現するという幻が含まれています。そのような国家は神様から権威を奪い、国家命令への絶対的な服従を人々から要求します。しかも、その命令に従うことが神様に従うことと矛盾する場合であってもそのように要求してくるのです。このような状況下に置かれた場合、キリスト信仰者には神様を拒絶することに繋がるような行為への参加を峻拒する他に選択肢はありません。こうして、キリスト信仰者は苦しい立場に追い込まれます。その結果として殉教する場合さえ出てくるでしょう。これとは逆の立場をとり、「教会の存続を守るためには暴力を行使してもよい」と考える人たちもいますが、これは新約聖書とはまったく相容れないものです。
この聖書講座はキリスト教の教えの初歩を説明するものであり、倫理の教科書ではありません。それゆえこの講座では、一般に大きな関心をもたれている社会生活にかかわる諸問題を詳細に取り上げることはできません。それらの問題の多くは現代における新たな考察を加えて取り組む必要があります。例えば、ルター派教会の基本信条である「アウグスブルク信仰告白」は「正当な戦争」について語っています。しかし、私たちの時代にもこのような戦争について語ることが可能でしょうか。それとも、国家が軍備を持つことに関する古典的なルター派の考えかたをふたたび真剣に考察するべき時が来ているのでしょうか。どのような状況の下で、またどのような目的に基づく場合に、国家には暴力を行使する権利があるのでしょうか。国家が内紛状態になる時にキリスト信仰者はいったい誰に対して忠実を尽くす義務を負っていることになるのでしょうか。また、どの程度まで私たちは他の国で起きている事柄についても責任を担うべきなのでしょうか。
ここで私たちはキリスト教の基本的な考えかたをおおまかにあらわすことにとどめざるをえません。その考えかたとは「司法組織を維持する社会体制が存在しているのは神様の御心にかなうものであり、それゆえ私たちはその社会体制に対して忠実を尽くさなければならない」というものです。しかし、この忠実さにも限度があります。なぜなら、私たちキリスト信仰者は人間よりも神様のほうに従わなければならないからです。
新約聖書は多くの箇所で他の人々のために祈る「とりなしの祈り」の大切さを強調しています。パウロは教会が「社会で責任を担っている人たち」のためにも祈るように勧めています(「テモテへの第一の手紙」2章1節以降)。彼らもまた社会を作り上げようとする力と破壊しようとする力との間の大規模な戦いの只中にいるからです。彼らは神様から特別な使命を受けて派遣された人々です。彼らは己の任務を真面目に遂行することもできるし、でたらめに行うこともできます。キリスト信仰者の最初の仕事は、彼らが職務を忠実に遂行できるようにお祈りによって支えることです。神様を無視した生活をしている人にとって、このような考えはまったく愚かしいものと映るでしょう。しかし、神様の開いてくださる新しい道や可能性について自らの経験によって何かしら知るようになった人は、とりなしの祈りのことをいつも大切な社会的活動であるとみなします。とりなしの祈りを軽んじている人はたいへん多いので、キリスト信仰者はそれだけいっそうこの働きを大切にするのです。また、とりなしの祈りは「他の方法では社会的活動に参加する力や可能性や手段が自分にはない」と思っている人にも行える働きです。
この世での公正の実現をめざし社会を正しく機能させるためには、教会も個々のキリスト信仰者も不信仰な人々と協力して働くことができます。この世での生活、例えば生産、経済、治療、教育などの分野に関するかぎりにおいては、キリスト信仰者は公正を実現し人を助けるために働く人たちと協力体制を築くことができます。キリスト信仰者に協力する彼らは皆、この点で「神様の僕」であるといえます。しかし、時には衝突が避けられなくなるケースも生じます。例えば、国家権力が世の仕組みを根本的に変えようとして国民の宗教的信条にも干渉を企て、部分的にではあれキリスト教の信仰に反する考えかたを国民に強制しようとする場合などです。このような衝突はとりわけ学校や教育の現場で多く起こりますし、また貧しい人たちを援助する社会活動の中にも見受けられるものです。国家が国民生活の広範な領域において責任を引き受けようとする姿勢自体はよいことでしょう。しかし、このためにかえって現代の社会ではキリスト信仰者の信仰生活をめぐる衝突が増えてきている面もあります。
私たちはこれまでキリスト信仰者の社会参加について考えてきました。ここで「キリスト信仰者」とは、信仰を通してキリストと共に活きる人のことです。キリスト信仰者にとって最優先課題となるのは信仰です。その信仰に基づく帰結として「いかにしてキリスト信仰者は社会的責任を担っていくべきか」という次の課題が生じてきます。
しかし、実生活では上に述べた優先順序(まず信仰、その後で信仰者の社会的責任)が逆になることもしばしば起こります。教会やキリスト教に何らかの興味を示す人々が、世界が危機的状態にあることを熱心に告知して回る場合があります。社会において改善していくべき不公正(例えば、テレビの映像を介して伝えられる、目を覆いたくなるような悲惨な現実など)に対して、彼らは持ち前の正義感によって「自分には何かできないだろうか」と考えます。これは正当な欲求です。その結果、もしかしたら彼らは地元の教会や困窮している人々を支援する組織で活動するようになるかもしれません。それから続いて起きることは、前章で扱った内容を少しだけ変えた繰り返しである、とみなすこともできるでしょう。すなわち、人は召命を受け、自らすすんでそれを受け入れて、神様が自分のことを用いてくださるように委ねます。この人が初期の段階で一番よくわかっているのは、法律、要求、必要、何かを行う義務などであるといえます。
しかし、このように信仰者の社会的責任に信仰生活の中心を置く人々はいずれ精神的危機に陥るものです。社会的責任に関して彼らが自分に要求する内容は、彼ら自身が納得できるようなやりかたで実現するにはあまりにも大きすぎるからです。現実には、人間が遂行できる事柄は大海の中の一滴の雫に過ぎません。この過程で大半の人はすっかり疲れてしまいますが、中には頑張り続ける人たちもいます。しかし、いじましい努力を続ける彼らもまた「自分は今まで一度だって思う存分活動できなかったし、時間やお金や力を惜しまずにささげることもしなかった」という罪悪感に絶えず悩まされている場合が多いものです。自分の手には負えないように見える問題を前にして、すっかり意気消沈してしまう人も出てきます。実際には内容的に曖昧なことが多い「何々主義」とやらに基づく主張を互いに排斥し合う場合もあります。また、「根本から革新的な事柄を実現するためには既成のものすべてを破壊しなければならない」といった過激な要求を掲げる者もいます。
「律法の奴隷」の現代版ともいえるこうした精神的危機においても決定的に大切な点は「宣教されているのは福音だろうか?そのメッセージは人の心に届いているだろうか?」ということです。福音の核心はここでも「罪の赦し」にあります。それは、自らの犯した間違いすべてについて、またやるべき事をきちんと行わなかったことについて、罪の赦しを受けることです。これは、人はどれほどひどい失敗を経験した場合であっても、新たな思いをもって人生を送っていくことが許されている、という意味です。この罪の赦しこそが「また新しくやり続けよう」という積極的な忍耐強さを生み出すのです。私たちはあきらめません。さらに、共に働いている人に対しても、また敵対者に対しても、新たな姿勢で接していく力を福音は私たちに与えてくれます。その姿勢とは、以前よりも厳しさが減って、要求度も少なくなり、他の人や自分自身の欠点を大目に見て、お互いを肯定的に評価し合っていくというものです。世界を改善するために奮闘する際にも、敵対者との間に明確な境界線を引けるほど自分が特別な善人ではないこと、むしろ、主キリストからの罪の赦しのうちで自分が活かされており、そのおかげで自分でも活動を続けることができるし、容認しがたい点がある他の人々に対しても忍耐強い態度を取れることを、キリスト信仰者ははっきりと自覚しているものです。
1)「世」という言葉は新約聖書でふたつの意味をもっています。 それは何ですか?
2)「世から出たものではなく」という言い方はどういう意味でしょうか?
3)「権威」(「ローマの信徒への手紙」13章1節)という言葉は聖書の翻訳やルター派の神学などで使われています。 これは現代の世界では何に相当するものでしょうか?
4)「マタイによる福音書」5~7章で展開される「山上の説教」でイエス様は「悪人に手向かうな」(5章39節)と教えておられます。その一方で、犯罪者を逮捕し処罰することがキリスト信仰者の職務となる場合もあります。 「律法と福音」の区別を大切にするルター派の見方に立つとき、このような職務の必要性と正当性をどのように説明できるでしょうか?
5)「国家に対して忠実でなければならない」という義務にはいかなる状況においても服従しなければならないのでしょうか。 それとも、服従にも限界がありますか?
6)キリスト信仰者はどのような場合にキリストを信じていない人々と共に働く義務がありますか?
7)キリストが聖餐の聖礼典に実際に存在しておられることは、ルター派の信仰によれば、どのように理解されているのでしょうか?
1)イエス様の「山上の説教」(「マタイによる福音書」5~7章)には、キリスト信仰者としての新しい生きかたを説明するために当時の人々の日常生活からとられた具体的な例があげられています。その新しい生きかたは、来るべき神様の御国の力が今すでに私たちの只中で働きかけていることを物語っています(例えば「マタイによる福音書」5章38~42節)。 この新しい生きかたを説明するために、私たちの生活している現代世界に関わりがあるような具体的で適切な例を探してみてください。
2)「イザヤ書」10章5~17節は、イスラエル王国を滅ぼしユダ王国をも脅かしつつあったアッシリアという当時の東方の大帝国について語っています。 「イザヤ書」41章1~4、25~26節、44章28~45章5節は、かつてのバビロニア帝国の征服(いわゆるバビロン捕囚)によって難民生活を強いられていたユダヤ人たちに故郷への帰還を許可したペルシア帝国のキュロス王について語っています。 神様の救いの計画においてアッシリアやバビロニアといった大帝国が担っている役割を預言者イザヤはどのように理解していますか?
3)「ローマの信徒への手紙」13章1~7節と「ペテロの第一の手紙」2章13~17節が語っている内容を現代的な用語(例えば、国会、政府、国家権力、司法機関、政府機関、国家、都道府県、法や規則、警察など)を使って表現してみてください。
4)きわめて不当なことを行っている者たちによる苦しみをイエス様もパウロも甘受する場合がありました。しかしその一方では、イエス様もパウロも悪を行う者たちに対してその責任を追及する場合もありました。 このように、イエス様やパウロが場合によって異なるやりかたで周囲に応答する理由を探してみてください。
イエス様の受難を描いた次の一連の聖書の箇所は相互に関連させて読むことができます。 「ルカによる福音書」23章33~34節 「ヨハネによる福音書」19章1~3節 「ヨハネによる福音書」18章22~23節
パウロの人生について、互いに矛盾しているようにも見える例を次にあげます。 「使徒言行録」14章19~20節、16章19~40節
間違ったことを行っている者たちに対して、イエス様とパウロは常に屈服したわけではありません。それはどうしてでしょうか?
5)「アウグスブルグ信仰告白」の第16信条を読んでください(できればグループで)。
アウグスブルグ信仰告白の第16信条(ラテン語版)
「市民的な諸事項について、私たちの諸教会はこう教えます。合法的で市民的な諸秩序は、神様の善き御業です。また、キリスト信仰者が公職を勤め、司法権を行使し、最高司令官の諸法律(国法)やその他の現行の諸法律によって判断を下し、公正に刑罰を定め、公正に戦争し、軍務に服し、合法的に取引し、財産を保持し、裁判官の要請に応じて宣誓し、妻をめとったり嫁いだりすることは、許されていることです。 私たちの諸教会は、キリスト信仰者にこれらの市民的な務めを禁じる再洗礼派を異端と宣告します。 また、福音的な完全さというものを、神への畏れと信仰にではなく、市民的な務めを捨て去る態度の中に置く人々のことも、私たちの諸教会は異端と宣告します。なぜなら、福音は心の永遠の義を教えるものだからです。とはいえ、福音は政体や家政を破壊するものではないし、むしろ、それらをあたかも神様の秩序であるかのように保持することと、そのような秩序の中で愛を実践していくこととをとりわけ要求するものだからです。したがって、キリスト信仰者は当然ながら公僕や法律に従わなければなりません。ただし、彼らが罪を犯すことを命じる場合にはこれはあてはまりません。そのような場合には、私たちの諸教会は人々よりも神様のほうに従うべきだからです。「使徒言行録」5章(29節)。」
6)キリスト教信仰の領域に属する諸問題に対して国家が干渉を企てる場合には、いったいどのような対立紛争が生じることでしょうか?その例を挙げてみてください。