私の受けた洗礼には意味があるのでしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

私はずいぶん昔に洗礼を受けました。
今の私にとって、洗礼はどのような意味があるのでしょうか。
それとも、意味があるのでしょうか。

少なくとも私にとって、洗礼は非常に大切なことを思い起こさせてくれます。
幼少の頃、私は洗礼を受けました。
その時の私は、洗礼を受けるために、自分で何かを行ったり、能力を発揮したり、無理して頑張ったり、何かを達成したり、自分を変えたりする必要がありませんでした。
少しどころか、まったく必要なかったのです。

あるがままの自分で、特別なことは何も行わず、何もできず、自分をよりよく変えることもないままで、私は神様に受け入れていただきました。
どうしてかというと、イエス様が私のために十字架で死んでくださり、私の罪を帳消しにして、聖なる神様との関係を完全に修復してくださったからです。
私が洗礼を受けた時にそうだったのですから、今でもそれは同じです。
このことを、洗礼は私に思い起こさせてくれるのです。

洗礼の意味を、毎朝自分に思い起こさせてみたらどうでしょうか。
ありのままの自分で、私は神様の家族の一員とされて、天の御国への旅を続けています。
ありのままの自分で、私はイエス様に自らを委ねて守っていただいています。
このことを思うとき、私は気分が楽になり、神様に感謝する心が生まれます。
そして、キリスト信仰者として生活を送る中で、たとえわずかではあっても神様の御心を実現していく力もいただきます。

「私たちが救われるのは恵みによるものである」、と聖書は教えています。

恵みによる救いとは、自分のよい行いには一切関係なく神様の家族の一員に加えられ、ありのままの自分として永遠の命の世界に入れていただける、ということです。 まさにイエス様の救いの御業が、この素晴らしい救いを可能にしたのです。 洗礼を受けてイエス様を信じている人は誰であれ、この恵みによる救いにあずかります。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。 それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」
(エフェソの信徒への手紙2章8節)