人は洗礼を受けていなくても救われるのでしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書によれば、救われるためには洗礼と信仰が必要です。

神様が聖書で言われていることを軽んじるべきではありません。
それは洗礼についてもあてはまります。
さもないと、神様の救いの活動から外れ出てしまう危険があるからです。
ですから、もしも自分も自分の子も洗礼をまだ受けていない場合には、子どもたちに洗礼を受けさせ、自分もまた洗礼を受けなければなりません。

たしかに聖書は、洗礼を受けないまま救われた人々のケースについても、記しています。聖金曜日に、イエス様はご自分と共に十字架にかけられた犯罪人の一人に対して、
「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
(ルカによる福音書23章43節)、と言われました。
「パラダイス」とは、天の御国のことです。
この犯罪人がそれまで洗礼を受けていなかったのはほぼ確実です。

このように神様は、私たち人間に用いるよう命じられた「恵みの手段」を介さずに、救いの活動を遂行なさることもできます。
つまり、神様は恵みの手段の一つである洗礼を用いずに人を救うことができます。
しかし、 こうした例外的なやりかたは神様ご自身の活動にのみ許されることです。
神ならぬ人間が「洗礼を授けよ」という主の命令を無視してよいことにはなりません。
キリスト信仰者として私たちは、新約聖書の教えに従うよう義務づけられています。
その教えとは、洗礼において人はキリスト信仰者となり神様の子どもの列に加えられる、というものです。

洗礼を受けないままで死んでしまう子どもたちもいます。
このような場合については、自分であれこれ悩まずに、憐れみ深く公正な神様の御手にすべてを委ねましょう。

「(福音を)信じてバプテスマを受ける者は救われる。 しかし、不信仰の者は罪に定められる。」
聖書の(マルコによる福音書16章16節)