ヨハネの黙示録18章
滅亡したバビロン 18章1~3節
ヨハネは天使を見ます。天使は彼にバビロンの滅亡を見せます。こうなるという約束は以前すでに与えられていました(「ヨハネの黙示録」14章8節)。ここでは悪魔の帝国が崩壊する様子が克明に描写されます。悪魔の帝国は山上に築かれた不落の要塞のように見えますが、いつかこの都は倒壊することになります。それは贅沢三昧を尽くしましたが、豪奢な生活はいつまでも続きません。繁栄を誇る都を瓦解させることは可能なのであり、それは悪の帝国の場合にも当てはまります。
外に出なさい! 18章4~8節
バビロンの倒壊の告知を耳にする前に、ヨハネは神様に属する人々に下された命令を聴きます。都が滅ぼされる前にそこから脱出しなさい、という命令です。これはどういう意味でしょうか。エルサレムが滅ぼされる前にそこから外に逃げ出すよう、イエス様は御自分に属する人々に勧告しました(「マタイによる福音書」24章15~20節)。エルサレムの滅亡を目前に控え、キリスト信仰者の多くはイエス様の勧告に従ったおかげで、西暦70年の秋にローマの軍隊がエルサレムになだれこんだ時に死を免れることができました。しかしこの箇所での命令は上述のエルサレムのケースに対応するものではないでしょう。「ヨハネの黙示録」において「バビロン」は、そこから脱出できるような普通の意味での都ではなく、悪魔の帝国のことを指しています。
多くの人はこの命令を、神様に属する人々は悪の世から逃げ出さなければならないという意味であると理解しました。修道院が設立され、「その中でなら罪を避けて悪魔から離れる生活を送れるだろう」、と人々は思い込みました。ところがそうはなりませんでした。修道院の中でも罪は現に存在しているし、悪魔もまた活動しています。そこで暮らしているのはやはり罪人の群れだからです。「神様に属する人々は世俗化した教会を離れて、そのような教会の抱える問題が存在しない真の信仰者のみからなる自分たちの教会を設立するべきである」、というようにイエス様の勧告を曲解して、独自の教会を設立した人々がいました。それは善意に基づく試みでしたが、成功しませんでした。これらの教会の中にも罪が入り込んでいったのです。その教会の会員も人間であることには変わりがないからです。多くの場合、悪魔はそれらの教会を互いにいがみ合うさらに小さな諸集団に分裂させることに成功しました。
バビロンが悪魔の帝国の描写であるとすれば、そこから脱出せよという命令は、悪魔の手下どもの活動と袂を分かつことを意味しているのだと思われます。初代のキリスト信仰者たちにとって、それは例えばキリストの教会に戦いを仕掛ける「獣」つまりローマ帝国との親交を切ることを意味していました。悪魔の帝国を待ちうけているのは裁きであり、悪魔やその手下どもと共犯関係にある者たちもバビロンが滅亡する日に裁きを受けることになります。キリストの教会を滅ぼすためにどこで悪魔が手下と策動しているかを見極めて、それとはっきり距離を置かなければならない、というのが「バビロンから外に出る」という意味なのでしょう。
バビロンには厳しい裁きが下ることになっています。バビロンは多くの悪を行い、神様に属する人々を迫害して殺しました。最後の日にバビロンはその行いについて峻酷な裁き、その悪行の二倍の裁きを受けます。歴史を通じて悪魔が手下と共にどのようなことをしてきたかを思うとき、その裁きがどれほど恐るべきものになるかがわかります。このような裁きを受けないために、私たちはバビロンから外に出て行かなければなりません。すなわち、神様と教会に向けられた悪魔の攻撃に対してはっきり距離を取らなければなりません。
災いなるかな、大いなる都よ 18章9~20節
バビロンの滅亡は驚嘆すべき仕方で描写されています。それはあたかも舞台に三つのコーラスが隊を組んで登場してくるかのようです。最初は支配者、次は商人、最後に海で働く人々の群れが順々に現れて、悪魔の帝国の崩壊を惜しんで舌打ちします。
悪魔の帝国は強大でした。それは歴史を通じて多様な形態をとり、いつもこれみよがしの豪奢に包まれていました。長々と列記された贅沢の一覧表がその証拠です。しかし今や一切が過去と化しました。この現実を前にして多くの人が悲しみ、泣き、嘆いています。彼らの主人が倒れたからです。
それから視線は神様の御国へと向けられます。悪魔の帝国の倒壊を喜ぶよう、御国の臣民は促されます。地上で滅びを撒き散らした者がとうとう滅ぼされたからです。神様の多くの子どもたちにひどい裁きを行った者がついに裁きを受ける側になる時が来ました。このことを神様に属する人々は大いに喜びます。「悪魔の帝国の崩壊を喜びなさい」という命令を不適切であると感じる人もいるかもしれません。キリスト信仰者は自分の敵のことも祝福しなければならないはずだからです。しかしここでのポイントは、悪魔と悪魔に属する者たちが受ける厳しい処罰自体を喜ぶことではないでしょう。神様の御民は正義がついに実現したことを喜んでいるのです。神様は権威を掌握し、あらゆる悪を終息させました。これを喜ぶのは当然です。
もう何もよいことがなく 18章21~24節
最終的な結末について、この章をしめくくる数節はもう一度語っています。悪魔が神様に属する人々に戦いを仕掛けています。そのために教会は今苦境に立たされています。しかしこの戦いはいつか終わります。これは確実です。なぜなら、全能なる神様がそうお決めになったからです。悪魔の帝国が倒壊するその時には、今実在するあらゆる悪が終息します。キリストが栄光に包まれて地上に再臨なさる日にそれは実現します。神様の教会はこのことを念頭に置きましょう。イエス様に属する人々は勝利者の側についています。誰ひとりこのグループを抜けるような愚かな真似をするべきではありません。
24節から、バビロンは地図でその位置を確認できるような都市ではないと結論できます。「バビロンの手はすべての預言者と聖徒の(すなわち殉教者の)血で塗れている」、と言われています。神様の御名のゆえに殺された人々はその全員がある特定の同じ都市で死んだのではありません。しかし、活ける神様への信仰を公に告白した人々がその信仰告白のゆえに殺されたところには、それがどこであろうとも、悪魔の帝国が実在したのです。そのところでは神様の敵は世間の人気を博し、神様の教会に対する戦いで勝利を収めました。「バビロン」とは世界中いたるところに広がった悪魔の帝国なのです。
悪魔の帝国が滅亡するとき、その臣民が享受してきたすべての利益もまた消え失せます。その例として、音楽、職人の技能、結婚式の祝宴、などが列挙されています。イエス様に反抗し悪魔のグループに参加した者たちにとって、それは災いの時です。最後の日には彼らからあらゆるよいことや美しいものが取り去られてしまいます。神様はすべてのよき賜物の贈り主です。地獄の恐ろしさはまさにこの点にあります。地獄とは神様と完全に離別した場所であり、そこにはまったく何もよいことがありません。人はこの世では様々な善いものを享受して生きています。しかし、本来ならば逐一それらの賜物について神様に感謝するべきであることに気がつかないまま生活している人が大部分でしょう。人がこの世で享受できるものは、目立たない善も含めて、地獄には一切存在しません。この世では神様のよき賜物の恩恵を受けていない人は誰もいません。しかし、地獄では本当に何の恩恵も受けられなくなります。だからこそ地獄は最悪の場所になるのです。