ヨハネの黙示録14章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

私はあなたがたと共にいます 14章1~5節

 1節には、イエス様が共にいてくださる144000人の人々がでてきます。7章には、これと同じグループについての記述がありました。その章の説明で言ったように、印を受けている144000人の人々は地上で戦い続けている神様の教会をあらわしているものと思われます。前章には、この世で荒れ狂い神様の御民に対して戦いを仕掛ける獣がでてきます。シオンの山の上の小羊の幻は、戦場の只中で存続する教会を励まし慰めてくれます。イエス様は私たちといつも共にいて、御自分に属する人々を決して見捨てません。たとえ戦いが激しくなっても、たとえ神様の敵とその手下が襲い掛かってこようとも、たとえ神様に属する人々がおびえてしまっても、心配無用です。神様が私たちの傍におられるからです。悪魔が攻撃してくるとき、私たちはパウロと共に、「もしも神様が私たちの側についてくださっているならば、一体誰が私たちに敵対できるというのでしょうか」(「ローマの信徒への手紙」8章31節)、と言うことができます。

 2節で、ヨハネの視線は天国へと向けられます。天国にいる者の群れが新しい賛美歌を歌って、神様を賛美します。

 3節では、戦い続ける教会に対して再び大いなる約束が与えられます。今は地上で苦境に立たされている神様に属する人々もいつかは天国に入って、今もそこで歌われている賛美歌を覚えるようになる、という約束です。

 4節と5節は、天国に入った人々のグループを描いています。彼らは自分自身を女たちと共に汚さず、処女のように純潔である、と言われます。これは、彼らが生涯独身であった、という意味ではありません。汚れの無さとは、人が神様に忠実に仕えてきたか、それとも偶像に仕えることで活ける神様を追い出してしまったかという、人と神様との関係を指しているものと思われます。旧約聖書は、しばしば「不倫」について語っています。この言葉は、イスラエルの民が神様に対して不実であるという意味で用いられています(「ホセア書」2章1~7節がその例ですし、「民数記」25章1~5節も参考になります)。パウロは同じイメージによって、イエス様に属する人々は忠実に花婿を待ち続ける花嫁のような存在である、と言いました(「コリントの信徒への第二の手紙」11章2節)。天国に入るのは、イエス様に忠実に仕え続ける人たち、信仰のゆえに蒙るいかなる艱難の中にあってもイエス様に従い続ける人たち、イエス様の再臨を待ち望み続ける人たちです。天国に入った人々は純潔で無傷である、とも言われています。「ヨハネの黙示録」は、どうすれば罪深い存在である人間が純潔かつ無傷でありうるのか、教えています。人の衣が小羊の血によって洗い清められることによって、そのようになるのです(「ヨハネの黙示録」7章14節)。

三人の天使 14章6~13節

 ヨハネは三人の天使を見ます。第一の天使は永遠の福音を伝える、と言われています。天使のメッセージの内容はまもなく始まる神様の裁きについての警告です。裁きの始まる直前に神様が人々を警告し御許に招かれるのはまさしく福音です。神様は皆が救われることを望まれています。それゆえ、神様は人々に悔い改めを勧告する御自分の僕たちを世に遣わされるのです。神様の罪の赦しの恵みが誰に対しても等しく差し伸べられている今なら人が悔い改めて裁きを免れることがまだ可能です。これが第一の天使のメッセージの内容です。

 第二の天使は、バビロンが滅んだことを告げます。これは普通の意味での国家とか都市とかいう意味ではないでしょう。「ヨハネの黙示録」ではバビロンは悪魔の帝国を象徴していると思われます。裁きの日が来ると神様の敵の権勢が瓦解することを、第二の天使は告知しています。バビロンの滅亡については18章でより詳しく描かれます。

 第三の天使は地獄についての警告を発し、神様に属する人々に神様から自分たちが受けたものを守り抜くように励まします。たとえ今彼らが苦境に立たされており、世がどれほど強大に見えようとも、この状況はいつか必ず完全に変わります。その時が来ると、不義の世界は最悪の災いで苦しみ、神様に属する人々は最上の喜びを味わうことになるのです。ですから、いかなる場合であれ決して獣を崇拝してはいけません。そのような真似をすると「負ける側」に回ることになるからです。神様にお仕えすることが自らの死を意味する場合であっても、獣に仕えるよりはむしろ死を選ぶべきなのです。殉教者には死後の安らぎが約束されていますが、信仰を捨てた者には地獄の苦しみが待っています。    

裁判の始まり 14章14~20節

 この章は、世の終わりと最後の裁きについての描写で閉じられます。「人の子のようなお方」(おそらくイエス様のことです)が地上に鎌を投げ入れると、天使たちが任務遂行のために出かけて行きました。彼らが人間全員を神様の御前に集合させると、おもむろに審判が始まります。その裁きは恐るべきものです。不義にまみれたこの世に対する神様の怒りがこの時に全開することになるからです。

 「最後の日」に関するヨハネの描写は衝撃的です。自らを愛そのものであると言われる神様がこの世をこれほど残酷に裁かれることに、多くの人は躓いたり不審に思ったりしてきました。言うまでもなく神様は愛そのものです。しかし神様には他の面もあります。神様は罪を憎む聖なる方でもあるのです。ここでの描写もそれを裏付けています。私たちは、神様の聖さと自らの悪さに気がついて、 自分がその罪のゆえにどれほど重い処罰を受けるのが当然な存在か思い至るとき、神様の愛がどれほど偉大であるかわかるようになり、「キリスト・イエスにある者にはどのような滅びの宣告も下されることがない」(「ローマの信徒への手紙」8章1節)という聖書の約束の意味を理解するようになっていきます。神様は私たちが裁きから救われる道を備えて皆に贈り物として差しのべてくださっています。それほどまでに神様は私たちを愛しておられるのです。もしも人が神様のこの贈り物を喜ぶどころか拒絶するようならば、その人が厳しい裁きを受けるのはその人自身の愚かさのせいであり、この裁きについて神様の残酷さを責めることはできなくなります。