ヨハネの黙示録22章
新しいエデン 22章1~5節
聖書の最初の書物「創世記」の冒頭部分にはエデンの園の記述があります。この園には命の木、善悪を知る木、園を横切って流れる川がありました。「創世記」では、天地創造の後に人間の罪の堕落が描かれました。神様は人間が「善悪を知る木」から取って食べることを禁じました。エバとアダムはこの神様の命令を破ってしまったために、楽園追放の処分を受けました。それからというもの罪が人間を捕縛して屈服させ、またこの世を操るようになってしまいました。「ヨハネの黙示録」22章1~5節は、神様がかつて造られたこの楽園を描写しています。ですから、旧約聖書の天地創造を念頭においてこれらの節を学ぶのが適切なやりかたです。
1節には、新しいエルサレムを流れている「命の水の川」の記述があります。おそらくこの川は新世界で実現する「永遠の命」を描いているのでしょう。ヨハネはまた「命の木」を見ます。この木の葉から諸国民は健康を得ると言われています。つまり、天国に入った人々は健康になる、ということです。この世には苦痛や窮乏や病気が存在します。しかし天国にはありません。善悪を知る木についてヨハネは何も語っていません。この木はそもそも新世界には存在しないからです。従って、新世界で罪の堕落がふたたび繰り返される可能性はまったくないことになります。天国での喜びには終わりがありません。
罪の堕落はすべての人間に及ぶ呪いを意味していました。この呪いを私たちは日々実感しつつ生活しています。ヨハネによれば、新世界では呪いの束縛はもはや解けており、罪の堕落とその顛末(「創世記」3章17~19節)の悪影響が失われたため、この世での苦しみもまたすっかりなくなっているのです。
この世では、人間は神様の御顔を直視することに耐えられません。モーセはそれを望んだこともありましたが、「あなたは私の顔を見ることができません。なぜなら、私を見た人間は一人として生きていることができないからです」(「出エジプト記」33章20節)、と神様は言われました。ところが、新世界ではこのことも可能になります。4節は、信じることが見ることに変わるという約束を与えます。それが実現するとき、もはや不信仰が人間を悩ませることもなくなります。「心の清い人は幸いです。彼らは神様を見ることができるからです」(「マタイによる福音書」5章8節)、というイエス様の約束が新しいエルサレムで成就されるのです。
「ヨハネの黙示録」の5章の冒頭からはじまった長大な一連の箇所がついに22章5節で閉じられました。ヨハネは一群の幻の啓示を受け、最後には新世界を見ることもできました。この間、私たちは時間の世界から永遠の世界までを駆け抜けてきたことになります。そして今「ヨハネの黙示録」の終結部がはじまります。それは五つの部分に分けられます。
信頼できる真の言葉 22章6~7節
ヨハネは、「彼に語られた言葉は真であり、それゆえ信頼に値するものである」、という声を耳にします。神様がその信頼性を保証されたのですから、ヨハネに示された言葉には全幅の信頼を置くことができます。真理そのものである神様は決して偽りを言われません。
6節は、神様から遣わされた預言者は勝手な話をしないものであることを、読者に思い起こさせます。神様の御霊が神様の遣わした預言者の中で働きかけてくださるので、預言者は神様から受けた教えを語るのです。ヨハネは神様の遣わした預言者でした。彼は何を言うべきかを神様から教えていただきました。それゆえに、彼のメッセージは信頼できるのです。
7節は、「ヨハネの黙示録」で6回目の「幸いなるかな」という宣言です。「ヨハネの黙示録」を真摯に受け入れる者に対して、イエス様は「幸いなるかな」と言われます。イエス様は王の中の王としていつか必ずこの世を裁くために来られることを「ヨハネの黙示録」は読者に語ります。このことを本気で受け入れる者は「幸いなる者」として祝福されるのにふさわしい存在です。
ヨハネと天使 22章8~9節
19章10節と同じような状況がここでは語られています。ヨハネは自分に「ヨハネの黙示録」の描写する数々の幻を示した天使の前にひれ伏します。しかし、ヨハネが自分に対してひれ伏すことを天使は厳しく禁じます。天使はモーセの第一戒の意味をよく知っているからです。
天使を神様に比肩する存在とみなす異端の教えは紀元1世紀頃多くの教会に広がりました。この異端についてここで警鐘が鳴らされているのです。天使は神様の被造物であり、それを造り主と同じ位置にまで持ち上げることは許されません。おひとり神様のみに私たちはひれ伏しつつ祈るべきなのです。
イエス様のお話 22章10~17節
イエス様は「ヨハネの黙示録」での最後の話をなさいます。はじめにイエス様は、ヨハネがこの書物のメッセージをあらゆるところに広く伝えていくことをお命じになります。興味深いことに、「ダニエル書」にはこれと正反対のケースが出てきます。「書物は後になってから公にすべきだが、今はまだ隠しておくように」、という命令をダニエルは受けます(「ダニエル書」8章26節)。これら相反するようにみえるふたつの命令は次のように説明できるでしょう。神様の救いの歴史において、ダニエルの時代は彼に示された幻を秘密にしておいたほうがよいと神様が判断された段階に相当します。ところがヨハネの時代には状況が変わっていました。この時点では、地上での活動を終えて天に帰られた神様の御子が地上に再臨する時がすぐそこまで近づいています。神様の救いの歴史は、ヨハネが見聞きしたことを私たち皆に知らせるべき段階に達していたのです。 11節は難解な箇所です。不義な者はさらに不義を重ねて生きていくように勧められ、聖なる者はより聖なる道を歩んでいくように命じられています。これはどういう意味でしょうか。「ヨハネの黙示録」はイエス様を知らない人に対してではなく、キリスト信仰者に宛てて書かれています。この箇所は、不信仰の中に留まり不義の生活を送るように、という勧めではありません。その目的は神様の教会に次のように語りかけることです。 「あなたがたは不義の世が神様と御心を無視しているのを目にしています。あなたがたはそれとは反対のことをしていきなさい。不義の世が不義に留まり、神様の御言葉の教えに反する生きかたをし、神様に無謀な戦いをしかけるのは、ある意味で自然であるとも言えます。神様の教会が聖なる生活を送り、信仰に留まり、神様の側に立って戦うのも、それと同じくらい自然なことであるべきです」。 私たちは神様から授かった分を守り抜くべきです。もしもそれを失くすなら、イエス様の再臨の時に私たちもまた不義の世と一緒に裁かれることになります。
人間界は二つのグループに分けられます。一方は汚らわしい者の集まり、他方は聖なる者の集まりです。どこにその境界線があるのか、私たちには見えません。しかし神様の御目にはこの区別は明確です。聖なる者たちとは、イエス様の聖さを授かっている人々、イエス様に属する人々のことです。汚らわしい者たちとは、イエス様とその聖さを拒絶する人々のことです。他に第三のグループなどはありません。人は皆、聖なる者のグループか、あるいは汚れた者のグループか、のどちらかに属しています。
13節でイエス様は御自分がアルファでありオメガである(つまり、はじめでありおわりである)と言われます。イエス様を通して世は創造されました。またイエス様は最後の日に世の裁き主となられます。父なる神様は御自分についてこれと同じこと(神様がアルファでありオメガであること)を「ヨハネの黙示録」で2回言われています(「ヨハネの黙示録」1章8節、21章6節)。イエス様は神様の御子として父なる神様と同質のお方なので、御父について言えることは御子についても当てはまります。「ヨハネの福音書」でイエス様が、「私と父とはひとつです」、と言われている通りです(「ヨハネによる福音書」10章30節)。
最後の日には神様の御前で人間全員が罪深い存在であることが示されます。それゆえ、神様の御前では罪の赦しを受けた者だけが耐え抜くことができるのです。14節にある「衣を洗うこと」という表現はこのことを意味しています。罪の赦しをいただいた者は天国に入ることができます。罪の赦しを受けなかった者には天国の門は開かれません。15節でイエス様は、聖なる都に入れない「犬ども」に言及しています。ユダヤ人は神様に選ばれた御民に属さない他国民を「犬ども」と蔑称する場合がありました。それと同じ意味でこの言葉は用いられていると思われます。洗礼を受けイエス様を信じている人の集まりである「神の御民」から外れている者たちは新世界の中に入ることができません。彼らは悪魔と同じ末路を辿ります。 この世で生きている間、彼らはおそらくは自覚のないまま悪魔に仕えていました。15節の終わりに出てくる「偽り」もこのことを示しています。悪魔は偽りの父です(「ヨハネによる福音書」8章44節)。偽りを好む者は悪魔を愛しています。彼らには自らの親玉に対する裁きと同じ裁きが下されます。この節のリストに挙げられている他の行いも、それらを実行する者が神様の敵に仕えていることを物語っているのです。
16節で、イエス様は御自分のことを「ダヴィデの若枝」また「輝く明けの明星」と呼んでいます。「イザヤ書」はダヴィデの家系の若枝について語っています(「イザヤ書」11章1節)。この「ダヴィデの若枝」とは、国の王権を失ったダヴィデの家系からいつか生まれることになる王のことを指しています。御自身をダヴィデの若枝と呼ぶことによって、イエス様は御自分が旧約聖書の約束してきたメシアであることを示しているのです。イエス様を通してイザヤの預言は成就されました。イエス様こそが皆が待望してきた「ダヴィデの子」なのです。新しい一日が始まろうとする時に、晴れた空には明けの明星が見えます。イエス様はまさにこの「明けの明星」なのです。イエス様の死と復活は人類の歴史における「新しい日」の始まりを告げました。この「新しい日」はまた、イエス様が栄光に包まれ地上に再臨なさる時にも始まります。
「ヨハネの黙示録」の初めのほうには、七つの教会に向けて書かれた七つの手紙がありました。17節では教会生活に話が戻されます。ここでふたたび「花嫁」と呼ばれる神様の教会はイエス様の再臨を待ち望み、その一刻も早い実現を神様の御霊と共に祈ります。この節はまた神様の教会の使命を思い起こさせます。教会は希望者全員に命の水を分け与えます。命の水は永遠の命をあらわしているのでしょう。まさしく神様の教会を通してそれにあずかれるのです。
厳しい警告 22章18~19節
これらの節には厳しい警告が含まれています。この警告は特に「ヨハネの黙示録」の写本を後に作成した人々を対象としています。印刷技術が発明されるまで、人々は書物を手で書き写していました。そのため、写本の製作者が原本に記されたことのすべてを書き写さなかったり、自分勝手に加筆したりする危険が大いにありました。警告はこうした当時の状況を踏まえているのです。この警告をより広くとらえて「ヨハネの黙示録」のすべての読者や釈義者にも適用することができるのはたしかでしょう。この書物からは何も取り除いてはならないし、この書物に自分の言葉を勝手に付け加えてもいけないのです。この書物は削除も加筆もなしに、つまり今の私たちに与えられているそのままのかたちで読まれまた説明されるべきなのです。
「ヨハネの黙示録」が聖書の最後の書物になるなどとは、当のヨハネには予想もできなかったことでしょう。しかし結果的にはそうなりました。少なくとも私はここに神様の御手の働きを見ます。今や全聖書は真剣な警告をもって閉じられようとしています。「聖書全体は神様が語られたものであり、それゆえ聖書に対しては神様の御言葉へのふさわしい敬意をもって接するべきである。聖書を捻じ曲げてはならないし、聖書に自分勝手な加筆を施してもいけないし、聖書からは何も取り除いてはならない。聖書は削除も加筆もなしに宣べ伝えなければならない」、というのが私たちに対するメッセージです。教会の歴史ではこの「ヨハネの黙示録」の警告が実際に該当するケースが多く見られます。神様の御言葉が削除なしに宣べ伝えられたところでは、人々は神様の祝福を得ました。しかし神様の御言葉を修正しようとしたところでは、人々は祝福のない悲惨な状態に陥りました。
最後の挨拶 22章20~21節
「ヨハネの黙示録」の最後の挨拶には二つの部分があります。20節はおそらく初期の教会の礼拝式文の一部です。そこには、「そう、私はすぐに来ます」というイエス様の言葉と、「アーメン」という教会の応答と、「主イエス様、来てください」という教会の祈りが含まれています。「コリントの信徒への第一の手紙」にはこれと対応する箇所があります(「コリントの信徒への第一の手紙」16章22節)。21節は「ヨハネの黙示録」の読者に対する祝福の挨拶でもあり、イエス様の恵みが私たちと共にあることの確証でもあります。恵みに信頼しつつ、私たちは主の再臨を待ち望みます。恵みが私たちの防壁となるので、私たちには何の心配もありません。イエス様の恵みは日々私たちと共にあります。そしてそれは、神様がこの世を裁かれるその日にも変わりません。