ヨハネの黙示録11章
神殿を測るヨハネ 11章1~2節
ヨハネは杖を手渡されてそれで神殿を測るように命じられました。この命令の意図するところは普通の意味での計測だけではなかったはずです。その行為にはあるメッセージが含まれていました。「ゼカリヤ書」には都市エルサレムを測る幻が描かれています(「ゼカリヤ書」2章5~9節)。「私はそれ(エルサレム)を取り囲む火の城壁となる」、とその幻の中で神様は約束します。神様御自身がエルサレムを守ると約束なさっているのです。これと同じ考えが「ヨハネの黙示録」にもあるように思われます。「神殿が測られる」というのは、神様が神殿を破壊から守ると約束してくださる、と言い換えることができます。神殿を測ることによって、神殿は保護を受けるために必要な目印を付けてもらうのです。「ヨハネの黙示録」の7章でも、「神様は世界を揺り動かす嵐の中で印を受けている者たちのことを守ってくださる」、と述べられています。
それでは、神様が守られるこの「神殿」とはいったい何なのでしょうか。それはエルサレムの神殿ではありえません。ヘロデ大王の建造させたこの壮麗な神殿は「ヨハネの黙示録」が書かれた頃にはすでに破壊されていたからです。イエス様が預言された通りに、ローマ軍は西暦70年に神殿を粉砕して残骸を地面に撒き散らしました(「マタイによる福音書」24章1~2節など)。その後に残されたのは「嘆きの壁」だけでした。「神様の神殿、祭壇、およびそこでひざまずいている者たち」とは、キリストの教会、この世にいる神様の御民のことをあらわしているのでしょう。
新約聖書の他の箇所でも、神様の教会は「神様の神殿」と呼ばれています(「コリントの信徒への第一の手紙」3章16節、「エフェソの信徒への手紙」2章21節)。1節に込められたメッセージは、「たとえ悪魔が力の限りを尽くして攻撃してきても、キリストの教会は滅びない。神様は教会が活き続けるようにしてくださる」、と言い表すことができるでしょう。「この岩の上に私は自分の教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことがありません」(「マタイによる福音書」16章18節)、とイエス様も同じように約束しておられます。これはしかし、現存する各個教会は死ぬことがないとか、キリスト教徒は決して信仰を捨てることがないという意味ではありません。それが実際に起こりうることであり、その様々な実例が「ヨハネの黙示録」の最初の数章に記載されていることからもそれがわかります。それに対して、世界に広がるキリスト教会全体が死ぬことはありません。イエス様が栄光に包まれて地上に再臨する時にも、少なくともどこか世界の片隅には活けるキリスト教会が存在していることになります。悪魔が教会全体を破壊することがないように、神様は御自分に属する人々を守ってくださっているのです。
ヨハネは神殿の外庭を測るのを禁じられます。それは、その領域については神様の守りがない、という意味です。おそらくこれはキリスト教会の周縁をさまよう人々のことを指しています。キリスト信仰者の信仰に興味を持ち、イエス様に対して好意的な態度を取るものの、自らはイエス様への信仰を持たずに生活し、教会にも属さないような人々がいます。「神殿の外庭」とはこのような人々のことを意味しているのでしょう。悪魔が教会を襲うとき、彼らはどうなるのでしょうか。彼らは異教の諸国民に踏みにじられます。その騒乱の中で、彼らが抱いていたイエス様やキリスト教に対する好感は消え失せてしまいます。これについては、教会史に多数の実例を見出すことができます。キリスト信仰者が迫害され始めるやいなや、周囲の人々がイエス様やそれに従う人々に対してそれまで抱いていた好感は瞬く間に忘れ去られてしまうのです。
2節にある「期間」(ここでは「四十二ヶ月」)は「ヨハネの黙示録」に何度も出てきます(例えば、「三年半」、「千二百六十日」、「一年、二年、半年」)。これらの期間は常に悪魔の活動に結びついています。これらの数字は具体的な期間の長さを語っているというよりも、悪魔が暴動を起こすことが許されている期間、そうした悪魔の活動がどのくらい継続するかは神様がお定めになっている期間のことを語っているように思われます。神様の定められた期間が終了するとき、悪魔の攻撃もまた、たとえ悪魔自身はもっと続けようとしても、止むことになります。紀元前167~164年の三年半の間、「ダニエル書」の預言通りにエルサレムの神殿は冒瀆されました(「ダニエル書」7章25節)。この時に、異教徒である王が神殿に偶像を持ち込み、それらを拝むように強制し、神殿で豚を犠牲として捧げること(ユダヤ人にとってはおぞましい行為)を命じました。このことを踏まえて、「三つ半」という数字は「ヨハネの黙示録」において悪が特別なやり方で騒乱を巻き起こすのを許される期間をあらわすものとなったのでした。
二人の証人 11章3~14節
ヨハネは「声」が二人の証人について話すのを聴きます。「ゼカリヤ書」にはこれと関連する箇所があります(「ゼカリヤ書」4章)。これらの証人は誰なのでしょうか。彼らは、終わりの時に神様の御言葉を宣べ伝え人々を悔い改めへと招く神様の僕なのかもしれません。一方で、この幻はいつか未来の出来事を描いているのではなく、すでに起きたことについて語っている、という解釈も提示されています。それによるとこの二人の証人とは、ローマで神様の御言葉を宣べ伝え、ネロ帝の迫害によって同じ日に殺されたペテロとパウロのことだ、というのです。この説明によれば、証人たちが生き返ることはペテロやパウロの魂が天国の神様の御許に入ることを意味します。しかし、これらの証人がある特定の二人の証人を指しているものとは限りません。この章の冒頭にでてくる「神殿」はキリストの教会のことを意味していると思われます。二人の証人もまた、この世で実際に活動している神様の教会をあらわすイメージである可能性もあります。教会は神様の御言葉と裁きを宣べ伝えます。そして、教会にはこの世で高く評価されるような栄誉も輝きもありません。そのことをあらわすために、証人たちは荒布を着た神様の僕として描かれているのでしょう。
証人の数は、二人の証人の証言は信頼に足るとする聖書の教えを指しているものと思われます(「申命記」19章15節)。もしも二人の証人がキリストの教会をあらわしているならば、この証人の人数は福音が信頼できることを私たちに思い起こさせていることになります。キリストの教会が宣べ伝えているメッセージは真実であり、それゆえ信じるに値するということです。
5~6節は難解な箇所です。「証人たちの口から発する火」とは、「天が閉じる」とは、「水が血に変わる」とはどういう意味でしょうか。よく知られているように、天が閉じることについては旧約聖書にも似た記述があります。預言者エリヤが言葉を発すると、その通りに天からは雨が降らなくなりました(「列王記上」17章1節)。神様はいつか二人の僕をこの世に遣わして、エリヤと同じような奇跡を行う権威を彼らに授けるかもしれません。あるいは、5~6節は象徴的な話であり、キリストの教会がもっている権威を指している、と考えることもできます。「あなたが地上で縛ることは天でも縛られており、あなたが地上で解くことは天でも解かれています」(「マタイによる福音書」16章19節)、とあるように、イエス様は天を開け閉めする権威を御自分に属する人々に授けました。キリストの教会が拒絶され攻撃されるところでは、神様の怒りが下されるのを待つことになります(「マタイによる福音書」10章14~15節)。おそらく証人たちの敵を呑む込む火はこのことをあらわしているのでしょう。
7節では、深淵から上ってくる獣が二人の証人に戦いを挑んで勝ち、彼らを殺します。「獣」は悪魔の使いをあらわし、獣が神様の証人を殺す場所である「都市」は悪魔の王国をあらわしています。もしも「二人の証人」が神様の教会を意味しているのであれば、ヨハネは今、悪魔が教会を激しく攻撃して勝利を得るかのように見える状況に接していることになります。これは、キリストの再臨の直前、イエス様に従う人々の群れは打ちのめされて敗北同然になるということなのでしょう。ところが、それから奇跡が起こります。死者が生き返り、教会は死者の中からよみがえり、光り輝く天国の神様の御許へと召されていきます。一見すると悪魔が戦いに勝ったように見えますが、最後の言葉を宣言するのは神様なのです。神様は御自分に属する人々に勝利を与え、すでに勝利したかに見える悪魔には敗北を与えます。
近年私たちは「ヨハネの黙示録」がここで語っていることをある程度は現実に体験してきたとも言えます。東欧諸国では教会が瓦礫と化し、キリストの教会はそこではもうすぐ死んでしまうかのように見えました。ところが奇跡が起こりました。悪魔の勝利は見かけだけのものでした。共産主義が崩壊し、意外にも教会はかつて滅ぼされたはずの場所で成長するようになり、再び新たに生まれてきたのです。
10節は、神様の証人が死ぬのを見て人々が喜ぶ様を描いています。神様の御言葉は人々の心に怒りも生じさせます。人々は罪に浸かって生きているときにその罪について叱られたり、滅びに向かっているときにそれを注意されたり、イエス様なしでは誰も天国には入れないという話をされたりすると、傷つくものです。不義の世において神様の御言葉を語ることで人々の心を傷つける者たちが死ぬと、この世は喜ぶのです。これで誰にも邪魔されずに不義の生活を満喫できると、世は思い込んでいるのです。
権能を手にされる神様 11章15~19節
第七の天使がラッパを吹き鳴らし、この世界の時間(あるいは時間の世界)が終わりを告げます。自らの全能を公に示した神様が天国で賛美をお受けになります。神様は今でも全能なのですが、終わりの日には皆の目の前で「あらゆる権能」を御自分のものとなさいます。それはあらゆる悪の終焉を意味します。こうして神様が支配する永遠の世界が始まります。しかしその前には最後の裁きが行われます。18節はそれについて語っています。神様に属する人々には「褒美」が待っています。とはいえその褒美は人々に各々その行いに応じて与えられるものではありません。皆が同じ褒美をいただくのです。イエス様が私たちのために「購入」してくださった永遠の命というのがその褒美であり、神様に属する人々は最後の日にそれをいただけます。最後の裁きにはもうひとつの選択肢があります。この褒美をもらえない者たちは苦しみが永遠につづく滅びの世界に入る、という選択肢です。この永遠の滅びの宣告は神様に属さない人々にあてはまります。