「ヨハネの黙示録」15章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

天国に着いて 15章1~8節

 1節で、ヨハネは神様の七つの怒りの杯の幻の描写を始めます。彼は七人の天使を見ます。それらの天使には世界を震撼させる最後の七つの災いを実行に移す準備ができています。しかし次の節では怒りの杯の幻が一旦途切れ、ヨハネに別の幻が示されます。彼は天国とそこにいる「獣に勝利した人々、すなわち獣の像を拝まず、獣の数字が書いてある印を受けなかった人々」を目にします。彼らはモーセと小羊の歌を歌って栄光を神様に帰します。本来あらゆる栄光は神様のみに属するものだからです。

 怒りの杯を地に傾ける描写を続けるべきところで、どうして別の幻がここで示されているのか、「ヨハネの黙示録」の読者は不思議に思うかもしれません。しかし、天国の幻はこの箇所に何かの間違いで提示されているのではありません。他の箇所でも「ヨハネの黙示録」は、神様に属する人々がこの世での様々な圧迫に耐え抜くように励まそうとしています。ここでの天国の幻もそれと同じ意味をもっています。前述したように、獣はこの世で大きな権力をもち、神様に属する人々を迫害し、教会を滅ぼそうとします。そして、まもなく七つの最後の災いについての衝撃的な描写が始まろうとしています。「ヨハネの黙示録」が描くこれらの艱難の只中で神様の教会は活動していかざるをえません。そのような状況の下に生きる神様に属する人々は、「神様の子どもとして生きるのは楽ではない。わざわざそうする甲斐が本当にあるのだろうか」、などと思う瞬間がもしかしたらあるかもしれません。この疑問に天国の幻は次のように答えてくれます。 「それでもやはり、そのように生きる甲斐はあります。なぜなら、神様の子どもだけがその居心地のよい場所(天国)に入ることができるからです」。

 イエス様の御名のゆえに困難に陥ることになっても、諦めてはいけません。もしも信仰を捨てるなら、モーセと小羊の賛美歌が歌われている場所には入れません。それどころか、前章の終わりでおぞましく描写されているグループの一員になってしまうのです。最後の災いについて語り出す前に天国の幻はこのことを告げようとしているのであり、まさにそれゆえこのタイミングで出てくるのです。

 天国に入った人々は「モーセの歌と小羊の歌」を歌う、と言われています。これは、天国に到着したグループには旧約の聖なる人々も新約の聖なる人々もいることを思い起こさせます。かつてこの世で生活していた「神様に属する人々」はいつか皆がひとつの群れとなり、神様に賛美を歌うようになるのです。

 天国では、世を裁いてくださった神様に感謝が捧げられます。多くの人はこの記述を残酷だとみなします。「神様の裁きはおびただしい数の人々が最悪の滅び(永遠につづく地獄の苦しみ)に遭うことなのだから、天国に入った者たちがこのことについて神様に感謝するとは、一体どういうことだ」、と彼らは訝しがるのです。これはたしかにその通りです。しかしそれでもやはり神様の裁きが公正であることに変わりはありません。この公正な裁きについて天国では神様に感謝が捧げられているのです。天国に着いたときに、ようやく私たちは神様の壮大な神聖さを目の当たりにし、まさにこれこそがふさわしい讃美であると理解します。神様がこれほど長い間裁きの時を延期してくださったことについても、私たちは驚嘆しつつ感謝するのが当然だと言えます。神様はこの世の不義と悪をいつも見ておられました。またこの世は聖なる神様に対して不遜な戦いを絶えずしかけてきました。それでもなお神様は人が罪の赦しを受けることができる「恵みの時」をこの裁きの時まで延長してくださったのです。天国は神様が共にいてくださるがゆえに居心地のよい場所なのです。この場所にできるかぎり多くの人が入れるように、今も神様は忍耐強く待ち続けてくださっています。

 「クリスタルの海」についての記述は天国の幸福をあらわしています。この世には世界中を震撼させる激しい嵐が巻き起こります。しかし天国ではこのような嵐は起きません。天国の海はクリスタルガラスの表面のように静かなのです。

 それからヨハネはあの七人の天使をより詳しく見ます。その外見は彼らが仕えているお方に似ています(「ヨハネの黙示録」1章13節を参照してください)。ヨハネが以前見たことのある「生き物」(「ヨハネの黙示録」4章6~8節)から、彼らは杯を手に受け取ります。杯は神様の怒りで満ちている、と言われています。今は裁きの時です。この裁きが実行される時、神様の御許なる神殿に行くことは誰にも許されなくなります。