信仰、救い

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・パルム(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

ある時、金持ちの男の人が、「私はどうすれば永遠の命を得ることができますか」、とイエス様に尋ねました。
彼は真面目に生活してきた人でした。
イエス様は彼に、「自分の持ち物を売り払い、得たお金を貧しい人々に施し、それから私に従いなさい」、と命じられました。
その言葉に、彼は顔を曇らせました。
イエス様の要求の内容があまりにも厳しかったからです。
イエス様の弟子たちも、「それでは、いったい誰が救われるのだろうか」、と訝しがりました。
イエス様は、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」、とお答えになりました。
(マルコによる福音書10章17〜27節)

これがキリスト教による質問への答えです。

私たち人間は自己中心的な心に縛られています。
私たちは自分のことを他人のことよりも愛しています。
実は、救いを得るために努力することも自己中心的な行為です。
「私が救われるために」というのがその動機だからです。

このように惨めな私たちにはもはや希望がないのでしょうか。

キリスト教の答えは、他のすべての宗教の提示する答えとは異なっています。
キリスト教の中心に位置するのは、人間ではなく人間が行うべきことでもありません。

ここで、私たちの視線はイエス・キリストに向けられます。
私たち人間には誰にも決してできないことを、この方が成就されたからです。
イエス様は神様の御前で、私たちのしでかした罪の失敗の後始末を引き受けてくださり、私たちに染み付いている邪悪さを十字架の御業によって帳消しにしてくださいました。

イエス様の贖いの御業のゆえに、神様は完全に私たちの罪を赦す心をもっておられます。
罪深い者を憐れむ神様の御心を、福音は私たちに知らせてくれます。
この知らせを、私たちは信仰を通して自分自身にも当てはめ、受け取ることができます。

イエス様への信仰を通して、私たちは天の御国へと救われます。
父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けている私は、自分の命がすでに「神様のもの」となっていることを知っています。

私は、自分の人生について神様に対して弁解しようとは思いません。
私は、イエス様が私のために神様に対して弁護してくださることにすべてお任せします。
「こんな私でも天の御国に入れていただける」、と私は確信してよいのです。
「イエス様の救いの御業は私のためにも成就された」、と私は確信しているからです。

   もっと見る>>「信仰のABC」キリスト教徒になる

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
決して行いによるのではない。
それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(聖書のエフェソの信徒への手紙2章8〜9節)

イエス様、私があなたを信じることができるように助けてください。
フィンランド語原版執筆者: 
ヴィッレ・アウヴィネン(フィンランド神学協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

人を救いに至らせる信仰は、人間の内部に自然に備わっている特性などではありません。
信仰は人間の外部から与えられる神様の賜物なのです。
人間は、自分の力では信仰を生み出すことはできないし、信仰に入る決断をすることもできません。
人間は神様の御業に全く依存している存在だからです。

神様は恵みの手段を通じて信仰を生んでくださいます。
恵みの手段の中心的な役割を担うのが神様の御言葉です。
信仰をもたらす御言葉が、洗礼においては水に結びつき、聖餐においてはパンとぶどう酒に結びつき、懺悔(ざんげ)においては懺悔を受ける人への罪の赦しの宣言に結びついています。

聖霊様は神様の御言葉を通じて、人間に語りかけ、人間の心のうちに来られ、そこで信仰を形作ってくださいます。
信仰を生み強めることが聖霊様の主要な職務です。

もしもあなたが、「自分は信じているのだろうか」、とか、「自分の信仰で十分なのだろうか」、などと思い悩んでいるなら、あなたの信仰が強められるように神様にお願いすることができます。
これは、神様がいつでもかなえてくださる祈りのひとつです。
「自分でどう感じているか」、とか、「自分はどのような経験をしたか」、ということについて思い悩む必要はまったくありません。
「私の感情や経験とは関係なしに、神様は私に信仰を与えてくださる」、と安心して信頼してください。

聖霊様は教会を通してイエス・キリストが救い主であることを明瞭に示し、あなたにも罪の赦しの恵みが十分に与えられることを保証してくださいます。

信仰とは、自分自身であれこれ努力することではなく、人間のうちで行われる神様の御業なのです。

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」
(聖書のローマの信徒への手紙10章17節)

   詳しく見る、信仰のABC、8.1.方向転換

フィンランド語原版執筆者: 
シルッカリーサ・フフティネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

キリスト信仰者はキリスト教会の一員です。
キリスト信仰者は、他のキリスト信仰者たちと連携を保ち、神様の御言葉を聴き、国内および海外伝道を支え、聖餐式に参加します。
これらすべての活動を通して、キリスト信仰者の信仰は強められ、守られます。 このようにして、聖霊様はキリスト信仰者の世話を焼いてくださるのです。

神様が定められた戒め(とりわけ「十戒」)に従うよう、すべての人は義務付けられています。
キリスト信仰者が愛する天の父なる神様の御心を無視して生きることはできません。

私たちにはそれぞれ、この世でなすべき使命が与えられています。
私たちが隣り人(周りにいる人)に仕えるときに神様が望まれるのは、私たちがなすべき使命を忠実に果たすことです。
周囲の要求が重苦しく感じ始めると、たちまち私たちは自分の力不足に気づかされます。
「自分ではだめではないか」、と落胆します。
「神様の戒めに反して行動してやろう」、という誘惑にとまどいます。
実際にさまざまな罪を行ってしまう場合もよくあります。

人間は皆、この世での歩みが終わる時まで自分のうちに罪を抱え込んで生きています。
そして、これはキリスト信仰者の場合も同じです。
私たちに染み付いている罪はいろいろな反抗を企て、私たちが神様の御心にかなう生き方から外れていくようにけしかけます。
ですから、私たちは、罪の赦しと祈りと力とを神様の御言葉から絶えずいただく必要があるのです。

信仰生活は、ただ罪の誘惑を退けたり自己を磨き高めていくことだけではありません。
キリスト信仰者は「神様の子ども」としての平和を享受し、心安らかに生きることができます。
すべての信仰の実は、自分の行いではなく、主の恵みによるものだからです。
信仰と希望と愛は、イエス・キリストにおいて私たちに賜物として与えられたものです。まさにそれゆえに、キリスト信仰者は、「イエス様の近くで生活したい」、と心から望むのです。

   詳しく見る>>「信仰のABC」キリスト教徒として生きる

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。
わたしの愛のうちにいなさい。」
(聖書のヨハネによる福音書15章9節)

神様、私をあなたの道へ、イエス様のおそばへと連れて行ってください。 そして、私がそこからさまよい出ないようになさってください。
フィンランド語原版執筆者: 
ヴィッレ・アウヴィネン(フィンランド神学協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「自分は救われている」という確信は、人の行いや感情に基づくものではありえません。人間の行いや感情はいつも不完全であり、不安定なものだからです。
救いの確信は、神様ご自身による行いと約束にのみ基づくものです。

このことを三つの点から見ていきましょう。
第一に、「神様は世を愛し、イエス様の十字架の死を通じて世と和解された」、と聖書は教えています。
つまり、イエス様はあなたのためにも死んでくださったということです。
第二に、すでに洗礼を受けている場合には、あなたはイエス様の救いの御業を自分にあてはめて受け取るために、すでにイエス様と結びつけられているのです。
つまり、世界全体のために用意されたこの救いを、あなたもいただけるのです。
第三に、「福音を信じて洗礼を受ける人は救われる」、と聖書は教えています。

信仰で一番大切なのは、信仰の強さではなくて、信仰の対象です。
信仰の対象となるのは、イエス・キリストであり、神様がしてくださった約束です。
実は、信仰とは、助けを必要とする者が神様のほうへ向き直り、罪の赦しをくださるイエス様に助けを求めることなのです。
「主の御名に助けを求める者は救われる」、と聖書は約束しています。

このような信仰も、人間自身の行いではなく、神様からの贈り物なのです。
あなたが洗礼を受けた者として、イエス様のほうへ向き直り、あなた自身の罪を赦していただけるように願い、救われるように祈るなら、あなたは天の御国への道を歩んでいることになります。

イエス様は聖餐式を通して罪の赦しを与えることを約束しておられます。
ですから、聖餐式に参加することによって、あなたは信仰を強めていただけるのです。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
(中略)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」
(聖書のヨハネによる福音書6章54、56節)

フィンランド語原版執筆者: 
リーサ・ロシ(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

一般の宗教は、「どうすれば人はよい人生を送れるか」、「どのようにして人は神的な存在の近くに行けるか」、といった問題に答えを下そうとします。

しかし、こうした問題に対するキリスト教の答えは他の宗教とは異なっています。
キリスト教の核心は、「人間が何をするか」ではなく、「神様が何をしてくださったか」、ということにあります。

おおまかにいって他の諸宗教は、「祝福された人生を送り救いに到るためには、人は神的な存在に従い、善行に励み、最善を尽くさなければならない」、と人間に命じます。

キリスト教の教えは、それとはまったく別のものです。
私たち人間が祝福を受けて救われるために必要なことは、すべて、すでに、私たちのために、成し遂げられています。
私たちは自分の力で自分を救うことができません。
神様の御子イエス様が、自発的に私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。
その恵みのゆえに、私たちは罪の赦しの賜物を神様からいただいて救われるのです。

神様からの愛を受けるためには、私たちは何か特別なことを行う必要がありません。
神様はいつも変わることなく私たち人間を愛してくださっているからです。
しかも、この愛は完全な愛です。
私たちはキリストを信じることで、本当の憩いを見出します。
そして、神様からいただく愛の力によって隣り人(他の人々)に仕えることができるようになります。

「神様は御子イエス・キリストのゆえに私たちの罪を赦してくださる」、という恵みのメッセージがキリスト教の核心です。
このキリストにおける恵みだけが、人を救う力をもっています。
人間自身の努力や善行に応じて「救われるか、救われないか」が決まってしまうすべての宗教は、結局は人間をだめにし、絶望へと追いやります。

「イエスは彼に言われた、
「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」」
(聖書のヨハネによる福音書14章6節)

主よ、私はあなたを信じたいのです。 しかし、私は弱く心は揺れています。 どうか私を助けてください。
フィンランド語原版執筆者: 
Pasi Palmu
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木 賢

はい、天使も存在します。
神様の創造の御業は、視覚など人間の感覚で捉えられる現実だけに限られるものではありません。
そう考えるのは、人間の傲慢さにすぎません。
私たち人間は神様の創造の御業を俯瞰し支配する立場にはありません。
「神様の世界」は、自然科学によって観察できる世界よりも、はるかに豊かで多様で不思議に満ちた世界なのです。

キリスト教が広まっている国では、天使に出会った人々の体験談などに世間の関心が集まり、さながら「天使ブーム」になることがたまにあります。 天使自体はキリスト教信仰にとって主要なテーマではありません。
とはいえ、新約聖書の福音書を読むと、イエス様のこの世の人生のいくつかの重要な局面において天使が関係していることに気づきます。
たとえば、天使たちはイエス様の誕生を予告したり、イエス様の復活を知らせたりしました。
天使たちは、神様からのメッセンジャーとして、イエス様のある特定の人生の局面が私たち人間の救いの基となる大切な出来事であることを、はっきり告げているのです。

また、天使たちは「仕える霊」である、とも言われています。
彼らは、神様から与えられた職務をこの地上で忠実に果たすからです。
とくに、私たち人間が天の御国に入るという目的のために、彼らは仕えています。

   詳しく見る、信仰のABC、4.10. 天使たち

「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」 
(聖書のヘブライの信徒への手紙1章14節)