私が救われているかどうか、どうしてわかるのでしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
ヴィッレ・アウヴィネン(フィンランド神学協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「自分は救われている」という確信は、人の行いや感情に基づくものではありえません。人間の行いや感情はいつも不完全であり、不安定なものだからです。
救いの確信は、神様ご自身による行いと約束にのみ基づくものです。

このことを三つの点から見ていきましょう。
第一に、「神様は世を愛し、イエス様の十字架の死を通じて世と和解された」、と聖書は教えています。
つまり、イエス様はあなたのためにも死んでくださったということです。
第二に、すでに洗礼を受けている場合には、あなたはイエス様の救いの御業を自分にあてはめて受け取るために、すでにイエス様と結びつけられているのです。
つまり、世界全体のために用意されたこの救いを、あなたもいただけるのです。
第三に、「福音を信じて洗礼を受ける人は救われる」、と聖書は教えています。

信仰で一番大切なのは、信仰の強さではなくて、信仰の対象です。
信仰の対象となるのは、イエス・キリストであり、神様がしてくださった約束です。
実は、信仰とは、助けを必要とする者が神様のほうへ向き直り、罪の赦しをくださるイエス様に助けを求めることなのです。
「主の御名に助けを求める者は救われる」、と聖書は約束しています。

このような信仰も、人間自身の行いではなく、神様からの贈り物なのです。
あなたが洗礼を受けた者として、イエス様のほうへ向き直り、あなた自身の罪を赦していただけるように願い、救われるように祈るなら、あなたは天の御国への道を歩んでいることになります。

イエス様は聖餐式を通して罪の赦しを与えることを約束しておられます。
ですから、聖餐式に参加することによって、あなたは信仰を強めていただけるのです。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
(中略)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」
(聖書のヨハネによる福音書6章54、56節)