どうして神様は人になられたのでしょうか?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

1.旧約聖書

他の多くの場合にもそうするように、私たちはここでも旧約聖書から出発することにしましょう。旧約の民が神様との関係を保ってどれほど「よく」生きていくのに成功したか、私たちは頭を悩ませる必要はありません。彼らの歩みの初めの部分については、ネヘミヤ記9章にある「民の大きな罪の告白」に記されています。それは、創造主や主である神様への賛美から始まります。

神様はアブラハムを選び、彼の子孫に「約束の地」を与えることを約束してくださいました。ファラオの反対にもかかわらず、神様は御自分の民をエジプトから導き出してくださいました。神様は御自分の律法を御自分の民にお与えになり、彼らが反抗的であったにもかかわらず、耐え忍んでくださいました。神様は御自分の民を導いて、城壁に囲まれた町をつぎつぎに征服させました。神様の民が神様を見捨てるという罪を犯したゆえに、神様は御自分の民を攻め圧迫してくる敵の手に渡されました。しかし、彼らが苦しんでいるときに彼らの声を聞いて彼らに士師を与えてくださいました。主は御自分の民に対して預言者たちを通して語られましたが、民は聞こうとはしませんでした。神様をないがしろにする民の罪を長い間耐え続けたあとで、主は御自分の民を異邦人たちの手に渡されました。しかしながら、神様の忠実さはエルサレムの崩壊の後でさえも絶えることがなかったのです。こうして民は捕囚の中で生きていくことが許されました。ネヘミヤの時代になり、今や民は自分たちの土地に帰ることができました。そして、異邦人の政治的な支配下におかれる原因となった自分たちの罪を、神様に告白したのでした。

このようにネヘミヤ記9章はイスラエルの民の歴史を描き出しています。そこには、「神様は忠実であられたが、民は反抗的だった」というはっきりとしたメッセージがあります。

このようなイメージによく似ているのが、使徒の働き7章にでてくるステファノの説教です。人々は神様をないがしろにして生きてきたのに、神様は忠実で義であられました。人々が神様を捨て去ったにもかかわらず、神様は忠実さを守り続け、御自分の民を見捨てたりはなさいませんでした。神様は御計画を人々の力を借りて実現されたのではなく、むしろ「人々(の反抗)にもかかわらず」そうなさったのでした。神様はある人々の殺意を逆用して、御自分の民を守るために御計画を実現されたのでした。そのよい例が、ヨセフがエジプトに売られたことです。そのとき、実は神様がヨセフを通して多くの民の命を救おうと計られたのでした(創世記50章20節)。

すでに旧約聖書を通して、私たちは大切なことを学ぶことができます。その学ぶべきこととは、「ある人間のグループが神様の民の地位を得て神様の御心を知ることができる」ということだけではありません。さらに大きな問題は、「人間の神様をないがしろにする態度と悪さ」です。このために私たちは神様の御心に従うことができず、次から次へと新しいやっかいな問題の中に自分から突っ込んでいくのです。しまいには罪が私たちを神様から最終的に引き離してしまうことになります。人間の働きは何の助けにもなりません。神様の救いの働きが必要になります。神様は全世界に対して救いを用意してくださったのです。神様は歴史の中で働かれ、そこでひとりひとりの人に対して彼らが御自分のみもとへと帰ってくるための「道」を用意してくださったのでした。このすべてが「救いの歴史」と呼ばれるものなのです。

2.救いの歴史と新約聖書

新約聖書は、この「救いの歴史」が何を目指しているか、すでに詳しく知っていました。救いの歴史の神学者としては、とりわけ、ヘブライの信徒への手紙の書き手と福音書記者ルカを挙げることができます。ルカによる福音書のはじめの数章は、「キリストについての福音」がいかに矛盾なく密接に「旧約の義」と結びついているかをよく示しています。ザカリヤ、エリサベツ、ハンナ、そしてシメオンは、神様の働きが御民の只中で根本的に新しい段階に移行するのを見ました。これにはまた、イエス様が御自分の受難を予告なさったことも関係しています(ルカ9章22節)。ルカによる福音書24章13~35節では、復活されたイエス様御自身が、エマオへの道でふたりの弟子に神様の救いの歴史について教えてくださいました。ルカは「使徒の働き」でも救いの歴史について語り続けます。福音はシメオンの言葉どおり「異邦人を照らす光」です(ルカ2章32節)。「使徒の働き」の中でルカは、福音が新しい地域に伝えられていく過程を、詳細かつ正確に描き出しています。たとえば、サマリアに(8章)、何人かの異邦人に(10~11章)、すべての異邦人に伝道するプログラムとして(13章)というようにです。

同様に、ヘブライの信徒への手紙の背景にも、神様の救いの歴史について慎重に吟味された見方があります。このことは手紙のはじめの言葉からもわかります(ヘブライ1章1~2節)。ナザレ人イエス様は何の準備もなくこの世にあらわれたりはなさいませんでした。。それは、神様が昔から何度も様々な方法で預言者たちを通して語られたあとになってはじめて実現しました。この世に来たのは、偉大な大祭司であり、神様の御前、至聖所で、唯一の永遠に有効な犠牲をささげられた方でした。実は旧約聖書のあらゆる犠牲は、このただひとつの犠牲の予型だったのです。大いなる贖罪の日のただひとつの犠牲がそれらすべてをもはや必要のないものにしてしまいました。同時に、ヘブライの信徒への手紙の書き手は神様の民の荒野での歩みに目を留め、荒野の旅の後から来る休息を「神様のもの」である人々に「来るべき世」で約束されている「安息日」の予型として描き出しています。このように、旧約聖書は全体として「キリスト」へと集約されていきます。そして、キリストの中に罪人は命を見出します。

3.アドヴェントの時期と短い断食

私たちは、歴史の中での神様の救いのみわざに対して心が少しも動かないこともあります。それは、神様の救いの働きが「たんに文字の上のことで難しい」と感じられるためかも知れません。だからこそ、私たちはアドヴェントの時期が必要なのです。昔からアドヴェントは、イースターの前と同様に断食の時期でもあります。まさしくこの断食の時期のおかげで、私たちは神様の救いのみわざをたんに文字の上ではなく、実生活の中で体験することができるようになるのです。 イエス様のこの世で歩まれた道は、寝ぼけた人々がとりとめもなく思い巡らす特徴のない世論を伝え広めるようなことではありませんでした。イエス様の道は恥辱と下降への道であり、屈辱を甘受した人の道でした。イエス様は神様からお生まれになった神様であったにもかかわらず、動物小屋のくさいにおいや寒さや飢えを避けようとはなさいませんでした。人々の心のかたくなさ、神様をないがしろにした生活、最良の弟子たちにさえあった無理解、友の裏切り(ユダの接吻など)や親しい者たちの逃亡などが、イエス様の心を動かしました。打たれて死にそうなほど弱った、茨の冠をかぶせられたイエス様が民の前に押し出されたとき、民は「痛みに満ちた人、病気を知っている人」(イザヤ書53章)に対して「死を!」と叫んだのでした。 アドヴェントの時期に私たちは、とりわけイエス様の歩まれた足跡を探り、それらすべてを愛することを学びたいと思います。それらは私たちの心にとって、「復活された主が私たちを愛しており、私たちのためならすべてを与える用意ができているお方であること」を示す証印なのです。 神様のみわざは、何かの「理論」などではなかったし、今もありえません。血が御子の顔から流れ出たとき、同じように父なる神様の心からも血が流れ出たことを、私たちは知っています。熱情の神様は罪を憎んでおられます。しかし、罪人たちを愛しておられます。このように、キリストの十字架は、人間の私たちには理解しがたいような「神様の怒りと愛」を示しているのです。


(聖書の引用は口語訳からのものです)