ヨハネの黙示録
インターネットでヨハネの黙示録を読むか聴く(口語訳)
はじめに
「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異な書物です。将来起こる出来事を描いている箇所は新約聖書の中ではこの書物以外にもあります。たとえば「終末」についてのイエス様の教えがあげられます(「マタイによる福音書」24章、「マルコによる福音書」13章、「ルカによる福音書」21章など)。しかし、このテーマに焦点を絞っている書物は「ヨハネの黙示録」だけです。
聖書の中でこの「ヨハネの黙示録」ほど、その内容について様々な議論を巻き起こしてきた書物は他にありません。この書物を意味不明の幻が次々と出てくる本だとみなす人々の中には、この本をまるごと捨ててしまいたいと思っている人さえいます。しかし一方では、まさしくこの書物が新約聖書の中でも最愛の書物になっている人々もいます。彼らは新約聖書の他のどの書物よりもこの書物を熱心に読み、この書物を通して世界の出来事とその意味を説明しようと試みます。「ヨハネの黙示録」について人々の意見が対立しているのは別に最近始まったことではありません。「ヨハネの黙示録」は教会の歴史を通じて疎まれたこともあり愛されたこともある書物です。すでに初期の教会においても、「ヨハネの黙示録」は聖書に取り入れるべきではない、と考える人たちがいました。その一方では、まさに「ヨハネの黙示録」に聖書の他の書物以上の価値を見出す人たちもいました。
マルティン ルターの「ヨハネの黙示録」に対する態度には注目すべき点があります。1522年にこの宗教改革者は新約聖書のそれぞれの書物に序文を記しました。その際「ヨハネの黙示録」に対して彼は非常に否定的な態度をとり、「私はこの書物を使徒的でも預言者的でもないとみなしています。(中略)私の霊はこの書物に対して違和感を覚えます」、と書き記しました。「ヨハネの黙示録」を嫌ったり軽んじたりする人々はしばしばこのルターの序文を引き合いに出し、「宗教改革者もこの書物を尊重しなかったのだから、どうして私たちがこの書物と本気でつきあえようか」、などと言い放ちます。しかしそのときに彼らはおそらく故意に、ルターが後年どんなことを書いているかについては忘れてしまっています。1530年、ルターは「ヨハネの黙示録」についての新しい序文を記しました。今回の彼はこの書物に対して以前とはまったく異なる態度をとっています。「ヨハネの黙示録」が難しい書物であることを彼は認めています。にもかかわらず、それが神様の啓示の一部であり聖書の他の書物とまったく同様に尊いものである、ということが今回のルターには明瞭となっています。宗教改革者がこの書物について後になって書き記したことは、前に書いたことよりも重視されるべきです。1530年に書かれた序文は、1776年度版の大部分のフィンランド語聖書に入っています。そこでルターは「ヨハネの黙示録」を紹介するだけではなく、説明も与えています。ですから、ルターの序文は読む価値が大いにあります。
いつどこで書かれたか?
「ヨハネの黙示録」はおそらく西暦90年代に書かれたと思われます。当時ローマ帝国を支配していたのは皇帝ドミティアヌスでした。彼は宗教的に地域の差がある帝国内部を均一化するために、ユダヤ人を除きローマ帝国内の住民は皆、皇帝を神として敬うように、という旨の勅令を出しました。当然ながらキリスト信仰者はこのような要求を受け入れることができませんでした。彼らは第一戒(「あなたには私のほかに神があってはならない」)の命じていることを知っていたからです。その結果、キリスト信仰者は厳しい迫害の対象になりました。皇帝の像の前で敬礼するようにキリスト信仰者は死の脅迫をもって強制されました。おそらくこうした迫害の中で、ヨハネはパトモスという島に追放されたものと思われます。そこでイエス様が彼の前に現れて「ヨハネの黙示録」に書かれてあることを幻として見せてくださったのでした。
ヨハネとは?
「ヨハネの黙示録」の書き手はヨハネです(1章1節)。しかし、彼は一体誰なのでしょうか。多くの研究者は「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」を比較して、言葉遣いがあまりにも相違しているため両者の書き手が同じであるとは到底思えない、という結論を出しました。そして多くの人は、「ヨハネの黙示録」のヨハネは使徒ヨハネとは別人物であると理解しています。しかしながら、これはまったくありえない話でもないのです。「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」との間に違いがあるのはたしかです。しかしそれは、ヨハネは「ヨハネの黙示録」を上手とはいえないギリシア語を用いて一人で書いたが、「ヨハネによる福音書」の場合には多くの弟子が執筆を助けたので、「ヨハネの黙示録」と比べて文法的なミスが目立たないギリシア語になった、とも説明できます。このように「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」の書き手が同一人物で、しかもそれがまさしく使徒ヨハネその人であった、と考えることも不可能とは言えません。
また書き手が誰であるかによって「ヨハネの黙示録」の価値が決まるわけではありません。その人物が使徒ヨハネなのか、それとも誰か他の人物なのか、ということには関わりなく、現に「ヨハネの黙示録」は聖書に含められています。神様がこの書物を自らの御言葉として承認して聖書の中の一冊として入れてくださった、ということが大切なのです。「ヨハネの黙示録」の中に私たちは神様の御声を聴きます。神様は私たちに何か言われたいことがあり、その一部をこの書物を通して伝えてくださっています。それゆえ、誰が書き手かということには関わりなく、「ヨハネの黙示録」は神様の御言葉としての価値をもっていることになります。
時間軸に沿ってではなく
「ヨハネの黙示録」の冒頭部分で、イエス様はヨハネに「現在のことと今後起ころうとしていること」を見せてくださいました(1章19節)。これからわかるように、「ヨハネの黙示録」には実はふたつの部分があるのです。最初の1~3章は、ヨハネがイエス様にお会いした時すでに実際に起きていた出来事について語っています。4~22章は、その後の時代に起こるはずのことを描いています。もっとも「ヨハネの黙示録」はこのようにまったく単純な二部構成になっているわけではありません。すでに1章には、将来起こるはずの出来事に関する記述があります。その一方で4~22章は、ヨハネがパトモス島で生活していた時期についても触れています。
「ヨハネの黙示録」はヨハネが生活していた当時の状況を描くことから始まります。主の日である日曜日にヨハネは復活したイエス様に出会います。そして、西暦一世紀の終わり頃に存在していた七つの教会に宛てて彼が書き送るべきメッセージをイエス様から聞かされます(2~3章)。
「ヨハネの黙示録」はこの世の終わりについての描写で閉じられます。それによれば、今ある世界は滅ぼされ、神様は新しい天と新しい地を創造なさいます。ヨハネは新しく造られた世界の不思議な光景に驚嘆します(21~22節)。「ヨハネの黙示録」の読者は、この書物があたかも時間的順序に従って西暦一世紀からこの世の最後の日に至る時までを描き出しているかのように考えるかもしれません。しかし、そのようにこの書物を読む人は誤読していると言えます。たしかにヨハネは互いに連関する幻の一群を見ますが、それらは時間軸に沿って進んでいくわけではありません。あたかもヨハネはある幻の舞台から他の幻の舞台へと次々と引っ張り回されているかのような印象を、この書物は与えます。ある舞台では彼は地上での出来事を見ます。そうかと思うと、たちまちのうちに彼は時間を飛び越えて未来に行き、天国についての幻を見ます。それからまたヨハネは時間を逆戻りして新しい舞台に連れて行かれ、この世の出来事を見ることになります。「ヨハネの黙示録」の幻は時と場所を飛び越えます。未来に向かったり、また逆戻りしたりしています。この書物の数々の幻は時間的な順序通りには整列されていません。これからわかるのは、この書物の幻を事後的に時間的順序に並べ替えてそれらに細かい説明を加えていくのはとうてい不可能なことだ、ということです。
同じことをさまざまな角度から
「ヨハネの黙示録」を正しく理解するためには、この書物に登場する多くの幻がある同じことをあらわしていることに気付く必要があります。カメラを例にとると、全体がフレームに収まるような遠距離からの写真や、ある箇所の細部をとらえた近距離からの写真など、同じ被写体をさまざまな角度から撮ることができます。そして「ヨハネの黙示録」でもこのようなことが行われていると言えるでしょう。ある幻の場合はある出来事をひとつの角度から描いたり、あるいはその出来事全体を見渡すようなイメージを与えたりします。また、後からに出てくるもうひとつの幻が以前すでに扱った内容を新しい角度からさらに細かく描き出そうとしている場合もあります。その典型的な例としては、バビロンの滅亡に関する描写が挙げられます。それについて「ヨハネの黙示録」はすでに14章8節で語っていますが、同じ出来事のより細かい描写が18章に出てきます。もうひとつの例は、神様の御許における永遠の命の描写です(たとえば、7章9~17節、19章6~10節、21章および22章)。すべてこれらの箇所は同じことについて互いに少しずつ重点をずらしながら語っているのです。
旧約聖書を読む大切さ
「ヨハネの黙示録」は旧約聖書と多くの関連があります。旧約聖書からの直接的な引用はありませんが、この書物には旧約聖書に由来する言葉の表現や描写や文章がたくさんあります。旧約聖書を知らないと「ヨハネの黙示録」やその言葉遣いを理解するのは難しくなります。それゆえ旧約聖書の書物、とりわけ「イザヤ書」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」、「ゼカリヤ書」を読むのは「ヨハネの黙示録」を研究するために必須であると言えます。「ヨハネの黙示録」をグループで学ぶ際には、各節の註に翻訳者が記した旧約聖書の該当箇所をその前後の文脈も含めて調べるのをお勧めします。そうすることで「ヨハネの黙示録」が理解しやすくなるからです。
「ヨハネの黙示録」は他の点でも旧約聖書に似ているところがあります。旧約聖書の預言は、メシア(すなわちキリスト)なるイエス様がこの地上でどのようなことを行い、どのような目にあわれたか、についてそのすべてを語ってはいません。それと同様に「ヨハネの黙示録」もこの世界の未来についてすべてを語っているわけではありません。あることがらについては語られていますが、伏せられていることがらもたくさんあります。「ヨハネの黙示録」の読者はこれで満足すべきなのです。ところがこの書物の解釈を試みる人々の中には、この程度では満足できない人がたくさんいます。彼らは「ヨハネの黙示録」が語っていないことについても、あえて深読みしようとします。
戦いについての描写
この世では神様と悪魔の間で戦いが繰り広げられているように見えます。この戦いの有様が「ヨハネの黙示録」の幻の中で描かれています。この世の歴史が進むにつれ、戦いは激しさを増していきます。そのため世は前よりも一段と大きな揺さ振りを受け、自然界は前よりも大規模に崩壊し、地上での苦しみも拡大深化していきます。神様との戦いでは、悪魔には部下がいます。「ヨハネの黙示録」には「野獣」や「娼婦」などが出てきます。それらは悪魔の手下どもであり、彼らの助けを借りて神様の敵は神様とその御民を攻撃します。「ヨハネの黙示録」の中には読者を怖がらせたり苦しくさせたりする要素がたくさん入っています。多くの幻は実に恐ろしいものです。人はどんどん死ぬし、自然は破壊されるし、血は飛び散ります。こうした書物の側面を誤用して人々をむやみに恐がらせることに長けた「ヨハネの黙示録」の解釈者たちもいます。しかし「ヨハネの黙示録」の目的は、人々のうちに恐怖と苦悩を生み出すことではありません。この書物は、悪の存在する世界で生きていくことが今もこれからもどういうことであるかを明瞭に描いているだけなのです。これと似たような恐怖や苦悩の描写は週刊誌や歴史の本にも見出せます。雑誌や歴史書とは異なり、「ヨハネの黙示録」は読者に勇気を与えることを目的としています。悪に満ちているこの世界でどれほどおぞましいことが起こったとしても、神様の側に属する人々は何も慌てる必要がありません。この世界は神様の御手の中にあり、神様は御民の面倒をちゃんと見てくださるからです。このことを理解して神様への信頼を強めるために「ヨハネの黙示録」は私たちに与えられているのです。
何回も実現する幻
「ヨハネの黙示録」を解釈者本人の時代状況にあてはめて理解しようとするケースがしばしば見受けられます。ヨハネに示された幻は今まさに私たちの目の前で実現しようとしている、というのです。「ヨハネの黙示録」が今起きつつある出来事について語っているというのは、もちろんありえないことではありません。しかし、この書物の内容を現代の事象にあてはめると誤った解釈がなされる危険が大いにあるいう点は注意すべきです。しかもこうした誤解の例は数限りなくあります。それゆえ「ヨハネの黙示録」を読むときには慎重な態度を取り、「絶対に確実だ」と断定するような解釈は避けたほうが賢明である場合が多いのです。
「ヨハネの黙示録」の幻は歴史を通じて何度となく実現してきたように見えます。ローマ帝国は当時この書物が「野獣」という言葉で表現したものに相当します。同じことはヒトラーのドイツやスターリンのソ連にも言えます。「ヨハネの黙示録」の幻が私たちの時代に最終的に実現するのか、それともいつか未来に成就するのか、私たちには知ることができません。それゆえ、この書物を説明しようとするときには慎重を期さなければなりません。
イエス様は「終わりの時」の出来事を子どもの出産にたとえています(「マタイによる福音書」24章8節)。母親である人はこのたとえの意味を実感をもって理解できることでしょう。子どもが生まれる直前には「同じこと」が何度も繰り返されます。陣痛が次から次へとおそってきます。その間隔はしだいに短くなり、その痛みはひどくなっていきます。そしてついに痛みが頂点に達した時、子どもが生まれます。このたとえは私たちが「ヨハネの黙示録」を理解するのを助けてくれるでしょう。そこで語られている多くの出来事は何回も繰り返されるものなのです。それらは歴史が進むにつれて次第に大規模になっていき、まさに「最後の時」の直前にそれはかつてなかったほど悪い状態になります。その後でイエス様はこの世に再臨して、一切の悪を終わらせてくださるのです。
数字について
どのような時間的スケジュールにしたがってこの世の歴史が進んでいくのか、近い将来に何が起きるのか、いつイエス様が帰って来られるのか、といった疑問について、今まで様々な細かい計算が「ヨハネの黙示録」に基づいて試みられてきました。この書物にはそれらの計算の出発点になっている「数字」が載っています。しかしそれらの数字のうちの多くは象徴的なものであり、ある特定の数量を表すものではないと思われます。数字は何か他のことを語っている場合が多いようです。たとえば、「三と半」(11章9節)は普通の意味での時間の長さをあらわすものではないでしょう。それはむしろ、時の「質」を示しています。それは悪魔が悪いことをいろいろと行うことができる時です。数の計算が難しいもうひとつの理由は、「ヨハネの黙示録」は時間と空間を軽々と飛び越えるので、何がはじめに起きてその後に何が続くかを決定するのがしばしば困難だ、ということです。「御父が自らの権能によって定められた時間(ギリシア語で「クロノス」)や時(ギリシア語で「カイロス」)のことは、あなたがたの知る限りではありません」(「使徒言行録」1章7節)、また、「その日やその瞬間については御父の他には誰も知りません。天の御使いも御子も知らないのです」(「マルコによる福音書」13章32節)、とイエス様も言われています。イエス様の告げられた御言葉は「ヨハネの黙示録」が書かれた以後の時代にも変わることなくいつでも有効なものです。
あたかも抽象絵画のように
「ヨハネの黙示録」のあらゆる細部に徹底的な説明を与えようとした人が今まで大勢いました。この書物に登場する様々なイメージには明確な意味を持った言葉がそれぞれ対応しており、それを読者は探り出さなければならない、と彼らは考えたのです。たとえば、「獣」はある特定の歴史上の人物であり、「バビロン」は地図上に存在するある都市のことであり、「ハルマゲドンの戦い」は終わりの時に起きる破壊的な戦いだ、といった具合です。しかし「ヨハネの黙示録」がある種のイメージに特定の場所や人物や出来事といった意味のみを与えているとは限りません。むしろ「獣」とは獣のもつ特徴を満たすあらゆる実在物をあらわしているのではないでしょうか。このように考えると、意識的あるいは無意識的に悪魔に仕え、神様を侮蔑し、神様に属する人々に向かって戦いを挑み、神様の教会を滅ぼそうとする思想や大国や支配者は「獣」の具体例であると言えましょう。「バビロン」が、最終的には滅ぼされる悪魔の帝国のイメージであるのはたしかです。「ハルマゲドンの戦い」とは、核戦争を暗示しているものとは必ずしも言えず、むしろ神様に対する悪魔の総力戦の一般的な表現であると言えるではないでしょうか。
「ヨハネの黙示録」には抽象絵画のようなものとみなせる部分があります。抽象芸術のすべての細部は明示できないし、また明示しようとしてもいけません。部分的には理解されないままで、絵画自体が芸術家から鑑賞者へメッセージを伝えているからです。それと同様に「ヨハネの黙示録」の中にも明示しないことを前提として書かれている箇所があるのではないでしょうか。理解できない部分を内包する幻としてそれらの箇所は私たちに語りかけ、この世における神様と悪魔との戦いの様子を描き出しているのです。
この書物には、おそらく今の私たちには理解できない箇所も含まれています。いつか将来世界が変わったときに、私たちはそれらの箇所を理解するようになるのかもしれません。あるいはまた、今では想像もつかない出来事をいつか私たちは目にすることになるのかもしれません。数百年前の読者にとって「海の死」を描く幻は理解不能に感じられたことでしょう。しかし今日では、海全体が本当に死滅する場合がありうることを私たちは知っています。さらに時間が経過してこれから起きる出来事を実際に目にするようになれば、「ヨハネの黙示録」の理解が進むだろうし、どの部分が比喩でどの幻がそのまま実現するのかを確定できるようになるかもしれません。こうした理由からも、「ヨハネの黙示録」の難解な箇所への最終的な説明を留保するのが賢明な態度であると言えるでしょう。
この書物を読むときには、聖霊様の助けが必要になります。聖霊様は聖書の最高の釈義者だからです。聖書は神様の御言葉なのですから、神様御自身が一番上手にその意味を明らかにしてくださるのは、言ってみれば当然のことです。それゆえ、私たちは聖霊様を「聖書の教授」としてお迎えし、難解な箇所を多数含む「ヨハネの黙示録」を祈りつつ読みはじめたいと思います。
このヨハネの黙示録の教えに引用されている聖書の箇所の日本語訳は、ヘブライ語旧約聖書およびギリシア語新約聖書から翻訳者(高木)が訳出したものです。