ヨハネの黙示録20章
千年王国 20章1~6節
ヨハネは鍵と鎖を手に持っている天使を見ます。天使は悪魔を縛り、深淵へと投げ込みます。「悪魔は千年の間縛られているが、その後自由にされて、しばらくの間暴れる機会を与えられる」、とヨハネは語ります。それからヨハネはこの世で獣に隷属しなかった人々を見ます。彼らは生き返り、イエス様と共に千年の間支配します。「これは第一の復活である」、とヨハネは言い、この復活にあずかった人々を祝します。彼らに対しては、第一の復活の後に来る「第二の死」は何の効力ももちません。14節には、第二の死は地獄を意味しているという説明があります。この地獄に悪魔とその僕たちはいつか投げ込まれることになっています。第一の復活でよみがえる人々には地獄に落ちる危険がありません。
千年王国のイメージについては実に様々な説明が提案されてきました。いわゆる「キリアスト」(千年至福説支持者)たちは「千年王国」を最後の裁きに先立って千年間続く「楽園のような時代」ととらえています。それによると、この時代には悪魔は世で活動することができず、それゆえ地上には悪魔が引き起こす悪も存在しません。悪魔は捕縛されているので、皆が安心して生活できます。イエス様を信じて死んだ人々は墓からよみがえって、イエス様と共に世界を支配します。このキリアストの説明には、新約聖書の他の箇所では地上の楽園についてまったく言及がないという弱点があります。たとえばイエス様は、終末の時について弟子たちに詳細に教えたときに、地上に到来する至福の時代なるものについて一切言及していません(「マタイによる福音書」24章、「マルコによる福音書」13章、「ルカによる福音書」21章)。それどころか、新約聖書によれば、この世は悪化の一途を辿り、キリストが再臨する最後の日にようやく世の悪は止むことになっています。こうした理由から、教父アウグスティヌスやルターなどは千年至福説を否定しました。千年王国とはキリスト教会のことである、とアウグスティヌスは考えました。教会は悪魔のわざを無効にしたイエス様の勝利を宣べ伝えます。人々を悪魔の支配から解放する福音こそが教会の宝です。悪魔は神様から許可されたことだけを行えるので、たしかに「悪魔は捕縛されている」と言うことができます。教会が自由に福音を伝えることができる地域では、悪魔は鎖につながれて深淵に投げ入れられています。アウグスティヌスによれば、「千」という数字を文字通りに受け取るべきではありません。それはペンテコステに始まりイエス様の再臨の時に終わるキリスト教会の時代を描いています。ルターは千年王国のイメージに関するアウグスティヌスの解釈に同意していました。
イエス様もサタンの捕縛について語っておられます(「マタイによる福音書」12章29節)。これはイエス様が悪魔に対して勝利することを意味しています。イエス様は敵よりも強い方なので、悪魔の活動はイエス様から許可された範囲内に限定されています。悪魔が捕縛されていることは、千年王国の描写においても悪魔の活動が完全に止んだことを必ずしも意味しません。むしろそれは、サタンの活動が制限されたという意味にとることができます。神様は悪魔を捕縛なさったので、悪魔が手出しできることは神様が許可なさることに限定されています。たとえばフィンランドではキリスト教会は何百年もの間、福音を自由に宣べ伝えることができました。千年王国の幻についてのアウグスティヌスの説明の仕方は、近年までのフィンランドにもよく当てはまります。フィンランドでは従来サタンの活動が制限されてきたので、サタンは鎖で縛られてきたかのようです。もっとも最近ではフィンランドでもサタンの活動が激しくなってきているのは否めない事実です。
千年王国の描写には第三の解釈も可能です。それは、この幻は神様の御許、天の御国を描いているのではないか、というものです。「ヨハネの黙示録」12章で語られたように、サタンは天国から投げ落とされました。それでヨハネは、サタンは捕縛されて深淵に投げ込まれた、という言い方をしたのかも知れません。4節でヨハネは、「キリストのもの」としてこの世を去った人々の魂を見た、と言っています。そして、「彼らは主と共に千年間支配する」、とも言っています。「神様のもの」として人が死ぬとき、身体はいったん墓に入りますが魂はそこには留まらず、復活した身体共々輝く天国へと昇ります。そこではキリストが無事に目的地に着いた教会員たちと共に支配しておられます。悪魔の権威は天国までは及びません。こういうわけで、「第一の復活」は神様の子どもたちがこの世を去る瞬間のことを意味しているともとれます。その人は天国の神様の御許に移り住むので、もはや地獄に落ちる危険はありません。「千年間」は1000×365日という期間の意味ではない、というアウグスティヌスの見方が正しいのはたしかでしょう。「ヨハネの黙示録」に出てくる様々な数字は正確な数量に対応するものではなく、他のメッセージを含んでいる場合が多く見られます。ですから、「千年」という言葉は具体的な長さではなく、たんに長期間の表現ではないかと思われます。この期間の具体的な長さを私たち人間は知りませんが神様は御存知であることを「千年」という数字は思い起こさせてくれます。その期間がいつ始まりいつ終わるのかは神様がお決めになっていることです。ここで想起されるのは、「主にとって、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(「ペテロの第二の手紙」3章8節より)という御言葉です。
私(ヤリ・ランキネン)の考えでは、この最後の解釈が千年王国の幻について最も適切なものだと思います。ヨハネは遠い未来の至福の時について語っているのではなく、キリストに属する人が死んだ後にすぐにいただくはずのことを描いているのです。この世では「神様のもの」である人々(つまり、洗礼を受けイエス様を救い主として信じている人々)は霊的な戦場に立たされますが、彼らがこの世を去る時にはその戦いも終わります。目下のところ悪魔は私たちの住むこの世で暴れまわっています。しかし、私たちは死を通して悪魔が手出しできないところへ移り住むことになります。死んだ後に神様に属する人々を待っているのは、永遠に主と共にいることができる御国です。このメッセージは迫害の中で生きていた初期の教会のキリスト信仰者たちにとって非常に大切な約束でした。当時悪魔は彼らを恐るべきやり口で攻撃していました。彼らは獅子の前に連れ出されて餌食にされたり、嘲笑の的にされたり、侮辱されたりしました。ヨハネに示された幻は、この世で主を拒まずに受け入れた人々にはこの世での命の後にどのようなことが起こるか、語っています。彼らはイエス様の御許に行けるのです。もうそこには悪魔の攻撃はなく、神様に属する人々の群れからはぐれてしまう危険もありません。さらに素晴らしいことに、そこで彼らはイエス様と共にこの世を支配することができるのです。イエス様に属する人々は、この世で彼らを支配し彼らに死の宣告を下した人々を逆に支配する立場に就きます。天地のあらゆる権威を有するイエス様は終末に向けてこの世を導きます。そして、すでに死んだ「神様のものたち」はイエス様がこの世を導く御業に参加させていただけます。パウロの「フィリピの信徒への手紙」の次の言葉はこれと同じことを意味しているのでしょう。
「私はこの世を去って、キリストの御許に行きたいと願っています。なぜなら、それが最善だからです」
(フィリピの信徒への手紙1章23節)。
最後の戦い 20章7~10節
ヨハネはこの世のエピローグを目にします。神様によって解き放たれた悪魔は人類に対する最後の攻撃を開始します。これはおそらくすでに16章で語られているのと同じ攻撃を指しているのでしょう(16章16節)。ヨハネはイエス様の再臨直前に勃発する大戦争を見ます。これは、世界で史上最悪の戦争を悪魔が引き起こすことに成功する、という意味かもしれません。あるいは、人々を惑わし神様の教会を破壊するために悪魔がその最後の力を振り絞って戦う様子をこの描写の中に見ることもできます。9節の「聖徒たちの陣営」や「愛されてきた都」への言及もこの解釈を支持します。「愛されてきた都」とは神様の御国とそこに属する者たちを意味しているものでしょう。これは「ヨハネの黙示録」において悪魔の帝国を指していると思われる「バビロン」という言葉の対義語に当たります。8節の「ゴグとマゴグ」は「エゼキエル書」にも出てきます(「エゼキエル書」38~39章)。誰のことをエゼキエルが意味していたのか、たしかなことはわかりません。イスラエルの民をおびやかしていたスキュタイ人のことであったのかもしれません。「ゴグとマゴグ」は後のユダヤ教では「選ばれた民」をおびやかす諸国民全体を意味する用語として理解されました。おそらくそれと同じ意味でヨハネもこの言葉を使用しているのでしょう。「ゴグとマゴグ」はイエス様の再臨の直前にキリスト教会を攻撃する悪魔の手下たちをあらわしている、ということです。
最後の戦いは激しいものになります。悪魔は多くの者を味方につけ、戦争に勝つためにありとあらゆる手段を講じます。ヨハネは戦いの様子を詳細には描写せず、ただ最終結果について報告しています。それによると、天から火が降ってきて、イエス様が悪魔一党を打ち砕いて勝利者となります。その日には悪魔が最後の戦いで敗北したことを皆が知るようになります。この世の終わりが来て、悪魔は地獄に投げ込まれます。この地獄は「火の湖」と名付けられています。そこにはまた悪魔の手下たち、獣、偽預言者たちがいます。彼らの苦しみは絶え間なく続きます。悪魔は一味もろとも自らの悪行の報いを受けます。その報いとは永遠の死です。
「地獄には終わりがないわけではない。地獄は一定期間続いて、その後は地獄に落ちた者たちは存在をやめるのだ」、と主張する人々がいます。しかし聖書はそれとはちがうことを教えています。天国は永遠であり、地獄もまた永遠に続くのです。ヨハネは地獄を描くときに「昼も夜も、世々限りなく」という言葉を用いています(20章10節)。
最後の裁き 20章11~15節
ヨハネに最後の裁きが示されます。神様は御座におられすべての人間が全能者の御前にいるのを彼は見ます。「命の書」が開かれ、そこに記されていることにしたがって全員が裁きを受けます。この裁きを逃れることは誰にもできません。ヨハネの時代でもまた後の時代でも長い間にわたって、海で死んだ者は海に埋葬される慣習がありました。海で死んだ人々もよみがえって裁きを受ける様子をヨハネは見ます。海はその記述によって死を象徴しているという解釈も成り立ちます(「ヨハネの黙示録」21章1節とその説明を参照してください)。死んだ後で天国に入れなかった人々は、ヨハネが「死」(ギリシア語で「タナトゥス」)また「黄泉」(ギリシア語で「ハーデース」)と名付けている場所に行きました。この場所もまた死者たちを最後の裁きへと引渡します。全人類が神様の御座の前に立ち、いよいよ裁きが始まります。
私たちが使徒信条で信仰告白する「身体のよみがえり」の瞬間をヨハネはここで描いています。人は死ぬ時に魂と身体が分離します。身体は墓に横たえられますが、魂はそこには残りません。最後の日には身体と魂は再び一体になります。神様からいただいた新しい身体に包まれて、私たちは神様の裁きへと歩み出ます。最後の日には、イースターにイエス様の上に起こったのと同じことが人間一人一人の上に起こります。墓は空になり、イエス様の魂は「復活の身体」をまといました。パウロは復活について「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳細に語っています。
「人は各々が自らの行いに応じて裁かれる」、とヨハネは言います。これはしかし、「イエス様を信じる者は救われる」、という私たちの主張と矛盾しているのでしょうか。答えは否です。そこには矛盾などはありません。最後の裁きにおいては、世界中の人間全員が自らの行いに応じて裁きを受けます。罪のない人は一人もいないので、人は皆、自分の悪い行いを神様に提示しなければならなくなります。救い主をもたない人々は自らの罪を携えて神様の御前に出なければならず、それらの罪のゆえに裁きを受けます。それに対して、私たちの罪を帳消しにしたお方の御許に避難している人々は、神様の御前では「罪がない」者とみなされます。なぜなら、すべての罪はイエス様のゆえに赦されているし、神様が赦してくださったことはもはや神様の目に留まらなくなるからです。信仰を通してイエス様を我が主として迎え入れ、イエス様を通して神様の恵みをいただいている人だけが、最後の日に神様の御顔の前で耐え抜くことができるのです。「行いに応じて裁きは下される」(「ローマの信徒への手紙」2章6節)と書くパウロは、「イエス様に避け所を求める者だけが救われる」(「ローマの信徒への手紙」3章23~26節)とも教えています。
ルターは「喜ばしい交換」という表現を用いることがあります。その意味は次のようなものです。私たちの罪とその罪ゆえに本来なら私たちが当然受けるべき罰をイエス様が肩代わりしてくださいました。これらすべての罪を私たちはイエス様に譲り渡したのです。イエス様は私たちに御自分の無垢さ(罪のまったくないこと)と清さと聖さを与えてくださいました。「イエス様のもの」として私たちは、イエス様の本質と御業がもたらすあらゆる善を「自分のもの」としています。私たち自身の悪質さと悪い行いはイエス様に譲り渡されています。「キリストのもの」である人をご覧になるとき、神様は御子の聖さと善き御業のみに目を留められます。それゆえに「イエス様のもの」である人には、裁きを受ける原因となる悪い行いが一切存在しないことになります。なぜなら、私たちにとって実に喜ばしいことに、私たちの悪い行いはイエス様の善き御業と「交換」されるからです。
救い主を受け入れないままで裁きを受ける人々には残念な結末が待っています。彼らは聖なる神様の御前で耐え抜くことができません。彼らには最悪の裁きが下されます。彼らは「火の湖」、つまり悪魔がいるのと同じ場所に投げ込まれます。自覚はなかったのかもしれませんが、彼らはこの世では「悪魔のもの」であるグループに属していたのです。彼らの受ける罰は彼らの親分が受けるのと同じものです。