ヨハネの黙示録10章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

秘密のメッセージ 10章1~4節

 ヨハネは強力な天使を見ます。ヨハネがイエス様について以前語ったことがある(「ヨハネの黙示録」1章12~16節)容姿と似ているこの天使はイエス様御自身ではありません。この御使いは主に似ています。その片方の足は海の上に、もう片方の足は地の上にある、とヨハネは語ります。これは天使が波打ち際に立っていたという意味ではありません。天使はその左足が地上に右足が水中にあるほど非常に巨大であったという意味です。おそらくこの幻にはより深いメッセージがあります。聖書で「海」は「死」をあらわしている場合があります(「ヨハネの黙示録」21章1節を参照してください)。「地」とは私たちが普段目にしている被造物世界を意味しているのでしょう。もしもそうであるならば、地と海の上に立っている天使の幻には、この天使が仕える神様が被造物世界の支配者であり死も神様の支配下にある、というメッセージを伝えていることになります。

 3~4節には「七つの雷」が出てきます。ここでヨハネには「詩篇」29篇が心に浮かんだのかもしれません。この詩篇では「主の御声」という言葉が七回くりかえされます。雷鳴はヨハネが聴いた神様の御声だったのでしょう。全能者が語ることを書きとめようとしたヨハネはそれを禁じられます。ヨハネが耳にした内容は他の人々に話すべきものではない、と神様は何らかの理由で判断なさったのです。これと似たようなケースが「コリントの信徒への第二の手紙」にもあります。パウロはパラダイスに行き、そこで「人間が口にすることができず、口にしてもいけない言葉」を聴きます(「コリントの信徒への第二の手紙」12章4節)。神様は私たちにすべてを明示なさってはいません。それゆえに私たちはいっそう慎重であるべきです。終わりの時や神様の御計画が話題になる場合にはなおさらのことです。すべてについて告げられているわけではないので、疑問の多くについては答えのないままにしておくのが最善なのです。

巻物を食べるヨハネ 10章5~11節

 天使は手を天に向けて上げ、今や時が終わろうとしている、と宣言します。これは、第六のラッパが鳴り響いたからには神様が裁きの始まりを延期することはもはやない、という意味です。第七のラッパが鳴る時にイエス様が再臨なさり、この世の時は終わり、神様は裁きを遂行なさいます。その時が来ると、聖書の語ることが本当だったことを皆が目の当たりにします。今聖書を嘲笑している人々も笑うことがもはやできなくなります。神様の御使いたちが天地の主からのメッセージを人々に伝えていたことを皆がはっきり理解します。

 ふたたび天から声が響きわたって、ヨハネは特別な指示を受けます。天使が手に持っている巻物を食べなければならない、という命令です。旧約聖書にはこれと似た事件が二つ記されています。エレミヤは神様の御言葉をほおばりながら食べました(「エレミヤ書」15章16節)。エゼキエルもまたヨハネと同じ指令を受けました(「エゼキエル書」2章8~9節、3章1~3節)。ヨハネが実際に巻物を食べたとしても奇妙ではありません。パピルスを食べるのは前例のないことではなかったからです。巻物を食べる行為には深い意味があったにちがいありません。神様の御言葉が書かれた巻物をヨハネが食べるのは、神様のメッセージが彼の内に取り込まれて彼自身の一部となったことを示しています。

 今や神様の御言葉はヨハネの中にあります。それゆえ彼は御言葉について黙してはおれません。ヨハネにとってこの巻物は、初め口には甘く次に腹には苦く感じられました。これは神様の御言葉がどのようなものかをよく表しています。神様の御言葉は蜜のようです。それはとても美味しく、読むのは愉しいものです。しかし神様の御言葉には嫌に感じられる別の側面があります。御言葉は私たちが聴きたくないようなことも語るからです。しかも、その教えを他の人々に語らなければならないという使命はもはや喜ばしくもなんともありません。神様の裁きについて人々に話すのはとりわけ難しいことで、むしろ何でもよいから何か他のことをやりたくなるほどです。ヨハネもまた彼の話を人々が聞きたがらないことをよく知っていました。にもかかわらず、彼は自分が目にしたことと耳にしたことを公に伝えました。人々を喜ばせるような内容ではなかったにせよ、そのメッセージは神様から受けたものである以上、彼はそれを語るほかなかったのです。