ヨハネの黙示録6章
第一の封印 6章1~2節
イエス様は手に取られた巻物を開け始めて封印を一つずつ解いていきます。それぞれの封印が解ける度ごとにヨハネは幻を見ます。今ヨハネは預言者として語っているため、象徴的な言葉を用いています。ですから、あまりにも詳細な意味の詮索は避けるのが賢明です。おそらくヨハネも自分が見たことのすべてを理解することはできなかったでしょう。封印の幻は、この世自体とこの世での出来事とを一般的に描写することを目的として示されたではないかと思われます。封印の幻は、罪に堕落した世界で生きていくとはどういうことかについて語っているのです。
第一の封印が解かれると、四つの生き物のうちの一つが「来なさい!」と言います。ヨハネは白い馬とそれに乗っている者が出てくるのを見ました。その者は冠を被った勝利者として描かれています。これは福音が世界を征服していく様子を描いている、と説明されることがあります。そうかもしれません。しかしより真実に近いと思われるのは、人間の歴史の中で幾度も登場してきた世界征服を企む者の一群が描かれている、というものです。戦争に勝った彼らの王国は次の勝利者が現れるまでしばらくの間は権勢を振るいました。「ヨハネの黙示録」のこの続きの部分にさまざまな災いで苦しむ人々の描写があることも、後者の解釈を支持します。災いというのは誰かが侵略戦争を仕掛けた結果生じることが多いものです。昔の戦争では、偉い立場の指揮官たちは白い馬に乗りました。それゆえ、ここでも白い馬に乗っている者が出てくるのです。
第二の封印 6章3~4節
第二の封印が解かれると、赤い馬とそれに乗っている者が飛び出します。この馬に乗っている者には戦争を起こす力が与えられました。人類の歴史はこの赤い馬が世界をせわしなく動き回ってきたことを証明しています。新たな征服者が出現する度に、新たな戦争が始まります。実際に戦争は今まで絶えることがありませんでした。何世紀にもわたってよりいっそうむごたらしく血に塗れた戦争が行われるようになってきました。人間の懸命な努力にもかかわらず、永続的な平和が実現するには至っていません。残念ながら、それはこれからも変わりません。なぜなら、この世は罪に堕落した世界だからです。
第三の封印 6章5~6節
イエス様が第三の封印を開けると、ふたたび世界を襲う新しい災いが描かれます。今度は、黒い馬がそれに乗る者と共に走り出ます。ヨハネは秤やデナリについて語る声を聞きます。「秤」は人間が一日に必要とする穀物の量を意味しています。また「デナリ」は当時の一般の人が一日働いて稼ぐ金額です。黒い馬の幻は飢饉を意味しています。一家の主人は一日の賃金でようやく一人分の食事に必要な「小麦」を購入することができるという状態でした。ですから、当時貧しい人々の食事とみなされていた「大麦」で満足しなければなりません。しかしそれでも三人分の食事にしかならず、大家族にはとても足りません。「オリーブ油」と「ぶどう酒」はおそらく富裕な人々が購入するための商品でしょう。買うためのお金があるならば、それらを手に入れることは可能だ、ということです。
飢饉は人類の歴史の中で何度となく繰り返されてきた災いです。今日でも世界には十分な栄養を取れないまま生活している人々がいます。私たちの周りにもそういう人たちがいることでしょう。たしかに黒い馬は依然として活動を続けているのです。
死ぬ少し前にイエス様は世界の将来について弟子たちに語りました(「マタイによる福音書」24章など)。その内容はたとえば諸国民の間の戦争や人類を襲う飢饉などについてでした。これと封印の幻との間には明らかな共通点があります。イエス様は人類の歴史のさまざまな段階をエルサレムの弟子たちにもパトモスのヨハネにも同じように示してくださったのです。
第四の封印 6章7~8節
第四の封印が解かれたとき、黄緑色の馬が出てきました。その馬に乗っている者の名は「死」であり、それに「ハデス」(黄泉)が従っています。これらはその名が示す通りのことを派手に実行します。すなわち、病気や戦争や飢饉やその他の破滅をもたらすのです。地の四分の一が破壊される、というのは私たちには不思議に聞こえることかもしれません。しかし中世のヨーロッパで猛威を振るったペストや、地の四分の一よりもさらに多くのものの破壊を可能にした人間の発明(核兵器)といった例もあります。ですから、この幻の数字はたんに象徴的なものであるとはかぎりません。
すでにこれらの幻は、なぜ神様はこれほどおびただしい悪が生じるのを放置なさっているのか、というやっかいな問題を私たちに突きつけます。神様は厳しくて残酷なお方なのでしょうか。もしも神様が全能なら、なぜ封印の幻が描くような悪の実現を阻止なさらないのでしょうか。しかしこのことについて神様を糾弾するのは見当違いです。戦争が存在するのは神様のせいではありません。飢饉に関しても人間以外の存在にその責任を押し付けるのは無理があります。あらゆる悪の背後にある真犯人は他ならぬ私たち人間自身であり、私たち皆の中に居座っている罪なのです。私たちは怒りを溜め込んだあげく相争いはじめます。私たちの自己中心さのせいで、他の貧しい人々が十分な栄養すら得られない状態になっているとも言えます。もしも神様が世界から悪を取り除こうとなさるなら、まずはこの世界から悪を行う私たち人間を取り除かなければならなくなります。いつか神様の裁きが下され、その時に悪は止みます。しかしその時はまだ来ていません。それは私たちに対する神様の大いなる恵みでもあります。手遅れになる前に多くの人が救いを見出すことと、最後の裁きの時にできるかぎり多くの人に対してその罪が赦されて天国へ入れるという喜ばしい裁決が下されることを、神様は待ち望んでおられます。
神様はこの世のために独自の救済計画を用意されており、その計画は多くの悲惨な出来事をも含む多様な段階を経て実現されていくものであることをも覚えておくべきでしょう。神様の御計画にはよい目的があるのです。おそらく悪い出来事さえも神様のよき御計画の役に立っているのでしょう。災いを通して神様は人々を御許に引き寄せられます。神様は不幸な日々が私たちを御許に導くきっかけとなることを待ち続けておられます。不幸を通して神様に導かれた例は実際にたくさんあります。一般的にいって優しい態度よりも厳しい叱咤によって人は神様へと引き寄せられていくものです。出来事の意味を完全には理解できないことを認めざるをえない場合もあります。神様は私たち人間よりもはるかに賢く、御自分のなさることを熟知しておられます。また神様はこの世に悪が厳然として存在し続けていることを許容なさっておいでです。これは私たち人間には理解しがたいことです。もちろん神様は悪が存在する理由もご存知です。私たちはこのことに関しても実に神様は賢く正しく事を運ばれたのだと、いつか必ず天国で理解するようになるでしょう。
第五の封印 6章9~11節
第五の封印が開かれ、ヨハネは殉教者の一群を見ます。彼らは裁きの日が早く来るようにと神様に祈っています。殉教者たちが叫び求めているのは復讐ではなく、公正です。「最後の日」に正義が実現し、すべての人が公正に裁きを受けます。その日に世の悪は止み、悪の存在しない新しく創造された世界における命が始まります。この日が早く来ることを、神様の御言葉のゆえに殺された人々は祈り願っているのです。
しかし裁きの日はまだ来ていません。殉教者たちには白い衣が与えられます。白い衣は天国の清さをあらわしています。天国に着いた今、殉教者たちはあらゆる悪から守られています。白い衣はそのしるしでもあります。それから彼らは待機を命じられます。この世では依然として悪が猛威を振るい続けています。これは、イエス様への信仰のゆえに殺される人々がこれからも出てくることを意味しています。
第六の封印 6章12~17節
イエス様は第六の封印を開きます。すると、宇宙全体が揺り動かされます。最後の日は間近に迫っており、人々が恐れて震えあがるような現象が起きます。イエス様はエルサレムで弟子たちにそれと同じことを告げたことがあります。
「日は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天の諸力(天体)は揺り動かされます」
(マタイによる福音書24章29節)。
天地創造の時と同じようにまったく新しいことが起こります。ただし今回の出来事の経緯が天地創造の時とはまったく逆になっているという違いはあります。終わりの時には、人々は神様を避けてその怒りから身を隠そうとします。彼らは聖なるお方の御前に出るよりは、むしろ死を望みます。