ローマの信徒への手紙9〜11章 教会とユダヤ人

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

今回取り上げる9〜11章は、私たちに大問題を突きつけます。ここでパウロは自分もその一員であるユダヤ民族の行く末について述べているからです。彼はイスラエルが福音を拒絶する有様を、心を痛めながら実際に自分の目で体験しました。これはなんとも奇妙な状況でした。罪深い存在である人間を救うために、神様は天地創造の時以来、目に見える形で人間の歴史に関わり続けてこられました。神様は御言葉を通して、御自分についてユダヤの民に啓示して救いの約束をお授けになりました。にもかかわらず、ユダヤの民の大多数はキリスト教会に加わろうとはせず、教会の外部に留まりました。これが「異邦人の使徒」であるパウロにとってどれほど辛いことであったか、9章の始めの言葉からも感じ取ることができます。パウロの親戚や友人たちは彼の伝える福音に注意を払いませんでした。

現在でも多くのキリスト信仰者は自分の親戚や友人に関してパウロと同じように、なぜ彼らは福音を受け入れないのか、問わずにはいられません。神様が罪深い存在である人間を救われる出来事は人類の歴史の中で今この瞬間も起きているし、またこれからも起こります。歴史におけるイスラエル民族のもつ意味に関しては、私たちの生きている現代においても様々に相反する意見が述べられています。9〜11章でパウロはこれらの問題を、感嘆するほかない鮮やかなやり方でじっくりと掘り下げていきます。この難問に真正面から取り組んだ彼は、最も深く暗い場所に神様の最も偉大な善き御心を見出します。

福音を拒むユダヤ人 9章1〜5節

まずパウロはユダヤ人をめぐる問題を提示します。福音伝道は異邦人の間では成果を挙げましたが 、ユダヤ人の間では順調な広がりを見せませんでした。パウロにとってこれは辛いことでした。モーセは、不平ばかり言っている民の代わりに自分が見捨てられるように、と神様に願い出たことがあります。パウロもそれと同じことをここで願いますが、そうはなりませんでした。神の御子イエス•キリストが十字架で流された血によって全世界のすべての人間(そこにはユダヤ人も全員含まれます)のすべての罪を身代わりに引き受けて、義なる神様の御前でその罪の罰をすべて受けてくださった、という福音は、神様の御国に属する民であるはずのユダヤ人にとっては受け入れがたいものでした。この状況は今日に至るまで変わっていません。ユダヤ人伝道は許可されている範囲で行われてはいますが、それでも一年の間にごく少数のユダヤ人がキリストを信じるようになるのがやっとという状態です。これほどまでに徹底して福音を拒絶する態度は他の民族では見られない現象です。

神様は御心のままに人を選抜なさいます 9章6〜29節

この箇所でパウロがまず一番強調する点は、神様は人間のはるか上におられる方だ、という認識です。ここで私たちは純粋にユダヤ的な旧約聖書の信仰と色あせた希薄な西欧のキリスト教信仰との間の違いを目にします。自分の抱えている苦しみがたとえどれほど深いものであったとしても、パウロは王であられる神様の権能の領域に足を踏み入れようとはしませんでした。神様は御心のままご自由に、人を救いへと選ぶことができるのです。この神様のやりかたに対する批判を、パウロは徹底して否定します。神様は憐れもうとなさる人を憐れみ、かたくなにしようとする人をかたくなになさるからです。

神様が誰かを選び、また誰かを選ばない、というやりかたについて、旧約聖書はいくつかの実例を挙げています。たとえば神様はイサクを選び、イスマエルを選びませんでした。またヤコブを選んで、エサウを選ばれませんでした。とりわけエジプトのファラオはかたくなになった人間として今日でも通用する代表例です。神様がファラオをかたくなにされたのは、イスラエルの奴隷状態からの救済が人間の行いによるものではなく神様の御業によるものであることを明示するためでした。このようにして今もなお神様はイスラエルの一部を「聖なる民」として選抜なさっています。神様はおひとりでこの「選抜」を行われました。すべての人が救いへと招かれているのはたしかです。ところが実際に主の御許に来たのはごく少数の人々だけでした。この奥義を前にしてパウロは深く頭を垂れます。

私たちはパウロのようには造り主に対してなかなか頭を下げようとはしません。なぜ神様は、人々の石のように堅い心を粉砕する力を私たちの福音伝道に与えてくださらないのでしょうか。どうして私の子どもたちや配偶者や友人たちは福音に興味を示さないのでしょうか。彼らのために神様に祈りをささげるのを決してやめてはいけません。私たちは神様の比類なき偉大さを素直に認めて告白するべきなのです。被造物は造り主に対して反抗するべきではありません。パウロは、エレミヤが陶器職人たちの仕事ぶりを観察するために彼らの仕事場に連れて行かれた旧約聖書の出来事を記します。職人が自分の作った器に納得できない場合、その器は再び粘土にされます。どうしてそのようなことをするのか、陶器職人は誰に対しても弁解する必要がありません。陶器職人が自分の作った器に対してもっているのと同じ権利を、神様は私たち人間に対してもっておられます。パウロがこの章などで扱っている内容の意味を考える上で、この視点は忘れてはならない大前提です。私たちが人生を通してそれを学び習得していくのは決して容易なことではありません。しかし、神様が義しい唯一のお方であり人は皆罪深い存在である、という真実は変わることがないのです。

神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル 9章30節〜10章21節

パウロは救いへの二つの道を提示します。神様は御子をこの世に送られ、苦しみにあわせ、死なせ、死者の中から復活させました。その後で神様は、キリストのあがないの血によってすべての罪が帳消しにされたことを全世界に知らせようとなさっておられます。この救いの道を聴いて受け入れる者が異邦人(非ユダヤ人)たちの中から出てきました。ところが、この道はユダヤ人たちには受け入れられませんでした。相も変わらず彼らは古くからあるもう一つの道を歩もうとしたのです。この道は、神様が定めたモーセの律法を実行する者が神様の御前で義しい者である、とする救いの考えかたです。ユダヤ人はたしかにこのことには非常に熱心ですが、キリストが「律法の終わり」でありキリスト信仰者全員の義であることを認めようとはしません。救いというものが神様から賜物として無代価でいただけるほど簡単であるはずがない、と彼らは考えます。しかし、実に神様の御旨とはこういうものなのです。

この御旨をユダヤ人たちは聞き入れようとしません。それゆえに、彼らには旧約聖書に預言されている通りのことが起きました(「エレミヤ書」8章14節、28章16節)。彼らは「躓きの隅石」に実際に躓いてしまったのです。彼らには、石を使って家を建てる者に対するのと同じことが起こりました。今作ろうとしている壁に嵌め込めない奇妙な形の石を、彼らは何度となく隅っこへ追いやりました。ところが、すべての石をまとめて支えるために最後に嵌め込むべき隅の親石を探した時に、それまで価値がないとみなされ捨てられたあの石こそが実は最適だとわかりました。このようにして、ユダヤ人たちは神様の救いの御業を脇に押し退けてきたのです。しかし、これはその時に始まったことではありません。イスラエルはそれ以前から神様に反抗するかたくなな民だったのです。本来ならイスラエルが神様の御前で受けるべき分を異邦の諸国民が来て受け取ることになる、とモーセもイザヤも旧約聖書で預言しています。イスラエルは除け者になりました。それは、頑強に神様を拒み続ける自らの罪深さのせいでした。

イスラエルに起こった出来事は、私たち皆が心に刻むべき教訓でもあります。たしかに神様は全能なる権能によって、御許に招くために御民を選抜しました。そうしていただいたのになおも救いにあずかることができずに後に取り残されてしまった人々は、そうなったのがかたくなで罪深い自分自身のせいであったことを認めるほかありません。キリスト教が伝えられている国では、罪の赦しの恵みは福音を通してすべての人に差し伸べられています。それを受け入れないなら、悪いのは受け入れない人の側だということになります。私たちにできることといえば、神様御自身がまさしく自分たちを信仰の道へと召して選んでくださったという、とうてい人間には説明できない奥義に対して頭を垂れて感謝することだけです。

残された聖徒たち、そして異邦人の従順 11章1〜24節

ユダヤ人たちは神様の救いの御業を脇へ押しやり、自分のせいで神様の怒りを我が身に招いたのです。「神の選民」という彼らの特別な地位はこの意味で失われてしまいました。イスラエル民族の地位を事実上代わりに受け継いだのは、「神のイスラエル」、すなわち教会です(「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)。ということは、神様は御民を捨ててしまわれたのでしょうか。

神様が御自分の民を捨てるなどというのは、まったく考えられないことです(パウロのこの手紙では再び、「とんでもありません」、という強い否定表現が使われています)。 エリヤの時代と同じことが今ここで繰り返されているのです。その時にもイスラエル全体が活ける神様を捨てて、バアルの崇拝者になり果てたように見えました。エリヤは自分が主にお仕えする最後の一人である、と思い込んでいました。ところが、 偶像を礼拝しなかった主の御民が他にも大勢(七千人)残っていたことを彼は聞いたのです。神様は、偶像を礼拝しなかった一部のイスラエルの御民をちゃんと残しておいてくださったのです。これと同じことがパウロの時代にも起こったのだし、また現代でも起こっています。たしかに、ユダヤ人の大多数はキリストについての福音を聞きたがりません。しかし聴こうとする人も中にはいます。彼らは残された聖徒の群れであり、御民に対して神様が今も変わらずに忠実を貫いておられる生きた証拠であるとも言えましょう。

パウロは神様の救いの御業を捨てたユダヤ人たちを「切り取られたブドウの木の枝」にたとえています。そうした枝の代わりに、本来ならぶどう園とは何の関わりもない野生のブドウの木の枝が接ぎ木されました。このように神様は、だめになった枝を園から取り払うようにして、不信仰なユダヤ人たちを取り除いたのです。神様はイスラエル民族の代わりに異邦人を取り上げて、彼らの間で福音が広められて行くように計らわれました。

ユダヤ人の行く末は? 11章25〜36節

最後に、パウロはこの奥義のヴェールを少しばかり持ち上げて内側の様子を見せます。それによれば、終わりの時には福音がユダヤ人にも受け入れられるようになるのです。ユダヤ人に激情(あるいは妬み)を惹き起すべく私は努力した、とパウロは言いました(11章13〜14節)。異邦人に福音が宣べ伝えられる時に、ユダヤ人はキリストこそが彼らの真の王であると思い至るようになります。今のところ神様はユダヤ人をかたくななまま放置して、異邦人が福音を受け入れるようになさいました。しかし、いつかはユダヤ人も福音を受け入れる時が来ます。救われる異邦人の数が満たされる時、「全イスラエル」が救われることになります。この「全イスラエル」という表現はユダヤ人を一人残さず内包するものではなく、ユダヤの民の大多数を指していることを、パウロと同時代のユダヤ人の残した文書によって知ることができます。その特別な時が来ると、キリストはユダヤ人の、異邦人の、そして全世界の主となられるのです。この預言が実現するのを私たちは今もなお待ち続けています。

ここまで私たちはパウロの「ローマの信徒への手紙」の極めて重要な箇所を順々に学んできました。パウロにとっても、ここに出てきた問題は以前に彼が遭遇した問題よりも困難なものでした。これは神様による選び、神様の全能なる権能、いわゆる神義論(神様の義をめぐる論議)といった様々な神学上のテーマと関連している問題だからです。パウロは大胆にこの問題に取り組みます。そして、他の多くの場合におけるのと同様のことがここでも起きました。暗闇の深夜の只中でこそ、一番素晴らしい輝きが見つかるものです。ユダヤ人の救いをめぐる問題を深く考えることで、パウロも私たちも神様の大いなる奥義の前に連れて行かれます。その意思も知恵も人間には決して究めることができない大いなる神様に賛美の歌を捧げることで、パウロはこの箇所を閉じます。


第9回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」9〜11章

イスラエルは神様がお遣わしになったキリストを捨てました。それゆえ、神様の義を得ることができませんでした。しかし、神様がイスラエルの父祖たちに与えた約束を忠実に守っておられることは、旧約聖書的に「残された聖なる者たち」と表現されるユダヤ人たちが存在することに示されています。イスラエルの背信は際限なく続くものではありません。救われる異邦人の数が満ちる時、福音はユダヤ人にも受け入れられるようになります。 そして、自分たちの王様について、イスラエルは異邦人と一緒に神様への感謝を捧げるのです。

1)ユダヤ人の問題はキリスト教会の内部でも意見が大きく分かれる問題です。国家として今存在しているイスラエルはすでにキリストなしでも救いの途上にある、という意見もありますし、ユダヤ人に特別な地位を認めない人もいます。この問題を扱っている最も重要な聖書の箇所は明らかに「ローマの信徒への手紙」9〜11章です。この箇所によると、何が正しい答えになるでしょうか。

2)イスラエルの特別の地位を認めることは現在のイスラエル国家の行動をすべて承認することになるのでしょうか。キリスト信仰者がユダヤ人に敵意をもつのは許されている行為ですか。11章28節を参照してください。

3)イスラエルの堕落はキリスト信仰者にどのような教訓を与えるはずのものでしょうか。11章20節を参照してください。

4)自分の親戚や友人や同胞の民がイエス様を救い主として受け入れようとせず、かたくなになっている状態はパウロにとってとても辛いことでした。多くのキリスト信仰者は自分の子どもや配偶者や友人の不信仰について心を痛めています。この問題に関連して「ローマの信徒への手紙」9〜11章は私たちにどのようなことを考えさせるでしょうか。8章の終わり、前回の最後の質問に立ち返ってみましょう。

終わりのメッセージ

正直に告白しますが、私は自分で自分の行動を自由に決める意思を自分に許可したいとは思いません。また、救われるための努力をする際に役立つような何かを私の自由な裁量に委ねられることも望みません。たとえこれらのことが可能であったとしても、です。私がそう考えるのは、多くの不幸な出来事と危険の只中で、しかも多くの悪い諸霊の攻撃に対抗して、私は自分で自分を律して守ることができないからです。一人の悪い霊でさえ、すべての人間を合わせたよりも強大であり、誰一人自分の力によってはそれから救われることがないからです。しかし、私がそう考える主な理由は、たとえ危険や不幸な出来事がなく悪い霊がいなかったとしても、私は結局のところ自由意志をもてあまして、確信をもって行動できず、「空を打つような拳闘をする」ことになってしまうからです(「コリントの信徒への第一の手紙」9章26節の表現)。また、神様に受け入れていただけるためにどれほどたくさんの善い行いを積み重ねて行かなければならないか、ということについては、たとえ永遠に生き続けようとも、私の良心はいつまでたっても確信がもてないまま安らぎを得ることができないからです。自分の行いによって神様の好意を獲得しようとする人々に共通する体験でもあり、惨めなことに私自身何年間にもわたる体験を通じて身に染みてわかったことでもありますが、人というものは、どれほど非の打ち所がないような行いをしたとしても、それが神様に喜んで受け入れていただけるものなのか、それともまだ何か神様が要求なさっていることがあるのか、という疑いに囚われ続けるものなのです。

ところが実際にはそれとは反対に、神様は私の救いに関わることがらを私自身の自由意志の及ばない外部へ持ち出して御自分で決定することになさいました。それに加えて、神様は私を守ることを約束してくださいました。これは、私が善いことを行ったり、そうしようと奔走したりしたからではありません。神様は御自身の恵みと憐れみのゆえにそうなさるのです。まさにそれゆえに、私は安らかな心で確信にみちて、「神様は徹頭徹尾忠実なお方であり、私に一切嘘を言われないお方である」、と断言できるし、「どのような悪い霊も不幸な出来事も神様に勝つことはできないし、神様の御手から私を奪い去ることもできない。それほど神様は強く大いなるお方である」、と言い切ることもできるのです。 「私の父が私に下さったものはすべてにまさるものです。そして、誰も父の御手からそれを奪い取ることはできません」(「ヨハネによる福音書」10章29節)、とイエス様が聖書で言われている通りです。

こうした信仰理解を通して、たとえ全員ではないにせよ、少なくとも幾人かは救われるし、実際にはかなりの数の人々が救われることになります。それとは反対に、自由に決断する人間の能力を頼りにしている間は、誰一人として永遠の滅びを免れることができません。私たちは皆、最後の一人にいたるまで例外なく永遠の死の中で苦しむことになるでしょう。私たちが神様に喜んで受け入れていただける存在であるのは、自分の善い行いにではなく、神様が私たちに賜った真心からの御好意に基づいています。安らかな心で私たちは次のような確信をもつことができます。私たちの活動があまりにも消極的だったり、あるいは不手際だったりする場合にも、神様はそのことを私たちが救われない理由にはなさいません。父親の愛情を持って罪を赦し、癒してくださるのです。キリスト信仰者は皆、神様にあってこのことを誇りとすることができます。

(マルティン・ルター 「奴隷的意志」)