ローマの信徒への手紙3章 恵みにより

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「ローマの信徒への手紙」は聖書の至宝です。そして、この手紙の最も重要な章は今回取り扱う第3章です。

パウロは最初の2章で、 神様の御前では人間のどのような能力も意味をなさないことを根底から明らかにしました。彼は第一に、異邦人が神様の怒りの下にあり、罪深い生活にがんじがらめにされていることを示しました。次に、ユダヤ人に矛先を向け、律法を知っているはずの彼らもまた神様の御前では彼ら自身の罪の罰を受けるべき存在であることを示しました。

パウロが人間一般についてこのように語る時、きっと私たちもまた同じ批判を受ける立場にあると感じることでしょう。「神様から注意を受ける必要がないほど自分はよい人間である」、と言い張ることなど私たちにはできません。

しかし今度の3章では、パウロは今までずっと目指して来たことがらを取り上げます。すなわち、私たちの罪を帳消しにしてくださったキリストについての福音です。まさにこの教えを通してパウロは、教会の歴史を通じて数知れない人々にとって敬愛すべき教師となりました。

「キリスト教伝道」の名の下に、内容が曖昧か全然だめなものがこの世では大々的に喧伝されています。しかし、「ローマの信徒への手紙」を読む時に、私たちは純粋な福音に触れることができるのです。

「ユダヤ人であること」は神様との関係において益がないのでしょうか 3章1〜8節

3章のはじめでは、パウロはまだユダヤ人についての話を続けています。このテーマは9〜11章でより詳しく扱われます。ユダヤ人がその罪のゆえに神様の怒りの下にあるという事態は、神様が御民イスラエルの間で活動されたことがまったく無駄だった、という意味になるのでしょうか。ここでパウロは深い考えを提示します。人々が悪い者だからといって、神様の働きがそれによって間違ったものになるわけではない、ということです。それどころか、人間の悪さがひたすら神様の栄光を明らかにすることになります。神様の側には落ち度がまったくなかったにもかかわらず、ユダヤ人は間違ったやり方を選んでしまったのです。それゆえ後に残るのは、ただおひとり神様のみが聖なる方であり、人間は悪い者だ、という真実ばかりです。私たちの罪でさえも神様の栄光を明らかにすることになるのです。とはいえ、 「神様は罪を結局よい方向へと変えてくださる」、とか、「罪を通して神様は栄光をお受けになる」、などと人々が考えてわざと罪を行ったりしないようにパウロは警告しています。このように自分の罪を正当化するために都合の良い考え方をする者は、神様の正義の裁きによって罰を受けることになります。

人間は皆、罪深い存在です 3章9〜20節

ここでパウロは今まで述べて来たことを総括します。彼は人間の悪さを示す多くの箇所を聖書から引用しています。実際、このことを伝える箇所は聖書にはたくさんあります。イスラエルの民の歴史は、この民が(神様に対して不従順な)かたくなな民であったことを十二分に示しています。パウロはこの箇所で、人間一人一人のありのままの姿を証しているのです。人は神様の御前では、この世にいるかぎり最後まで罪深い存在のままなのです。

私たちは自分自身の罪深さに触れないよう、わざと迂回する術に長けています。もちろん、私たちは完全無欠な存在ではありません。誰もそのような人はいません。しかし、自分が神様の御前で罪深い存在であり、それに見合う報酬として「天国へは入れない」という宣告を受けていることを私たちは認めているのでしょうか。このことを認めない人々にとっては、(神様からの)逃亡の旅は長く辛いものになります。というのは、両親の悪い行いに関して、その子孫が神様への愛を示さないかぎり3代にも4代にもわたって報復を下し続ける熱情をおもちの神様が彼らのすぐ後を追いかけてくることになるからです。しかも、彼らの逃亡の旅も結局は失敗に終わります。遅くとも最後の裁きの段階で、それは途切れてしまいます。

19節と20節にいたってようやくパウロは、なぜ彼がこのように長々と人々の罪深さと悪さについて語ってきたか、その理由を明らかにします。彼は溜飲を下げるために、わざと人々のことをあれこれ批判してきたわけではありません。彼の意図は、人間全員の口を塞ぎ、彼らを神様の御前で罪人とすることでした。

ファリサイ派の人と徴税人についてイエス様が語られたことが実現します。律法はファリサイ派の人の口を封じませんでした。そのため、その人は自分の罪深さを少しも理解せず、迷妄の中に留まることになりました。一方、律法によって徴税人の口は封じられ、その人は聖なる神様の御前に連れて行かれました (「ルカによる福音書」18章)。

これは、神様の聖なる律法の最も重要な役割です。私たち人間は、「自分は善い人間であり、神様に対しても十分認めていただけるくらいには善い存在だ」、と思い込んでいます。律法の説教を通して、神様はこの勘違いを私たちから取り除いてくださるのです。神様が私たちに対して何を要求なさっているか、聖書が語る時、私たちは良心が動揺するのを覚えます。自分たちが実は神様の御旨を破っていること、また神様の怒りの下で生きていることが少しずつわかってきます。もしも神様が私たち自身の罪に対する正当な裁きを私たちに対して下すならば、私たちの前に待ち受けているのは神様からの罰と怒りと地獄でしかありえないことに私たちは気がつきます。このように律法は私たちに罪の自覚を与えます。それは「何が罪か」ということだけではなく、「罪とはそもそも何か」ということも教えてくれます。しかし、神様が私たちに気づかせたいのは罪の自覚だけではありません。

キリストの血における神様の恵み 3章21〜31節

パウロは今か今かと切り札を出すタイミングをうかがってきました。その切り札とは、人は皆たしかに神様の御前で罪深い者であり地獄(つまり、永遠に神様のいない世界)に落ちるのが当然の存在であるが、彼らにはイエス•キリストという方がおられる、ということです。すべての人間が罪を行ってきた、というのは事実ですが、人は誰でもイエス様のゆえに罪の赦しという賜物を無代価でいただける、というのも真理です。イエス様が十字架で流された血が私たちの罪を帳消しにしてくれたからです。それゆえ今や疾しい良心を抱えたまま生きる必要はもうないのだ、というメッセージが罪人全員に宣べ伝えられています。神様と永遠に引き離される滅びの裁きの宣告を受けるのではないか、と恐れる必要はもうなくなりました。なぜなら、神様は罪を赦してくださり、それを私たちに贈り物として下さったからです。神様が贈り物を下さったということは、神様がその贈り物について何らかの支払いを決して要求なさらない、ということです。まさにそれゆえに、 まったくただで、私たち自身の能力や持ち物などには関係なく、罪の赦しがいただけるのです。神様を生活の中に正しい仕方でお迎えすることもできず、正しくへりくだることもできず、堅く神様を信じることさえできない私たちを、神様は憐れんでくださいます。とりわけ自分のいたらなさを自覚している者皆に対して、次のことは大いなる慰めとなります。すなわち、イエス•キリストの十字架の死のゆえに、あなたの負債はあなたに代わって支払われ、あなたの罪は帳消しにされている、ということです。イエス様のあがないの死のゆえに、神様は罪深い存在である人間にその罪を赦してくださる、というのが「ローマの信徒への手紙」の一番大切なメッセージです。

この罪の赦しは、あなたにも私にも与えられています。なぜなら、神様はこう言われているからです、「すべての人は罪を犯したため、神様の栄光を持たない存在になっており、彼らは代価なしに、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して義とされる存在になっているのです」(23〜24節)。このことはすべての人について言われているので、当然あなたにも当てはまります。「これほどまでに熱く愛してくださる神様から逃げる必要はないし、神様の愛を無視するべきではありません」、というメッセージによって、神なる聖霊様は私たちの逃亡生活を終わらせてくださるのです。

私たちは神様から義を下賜された身なのですから 、あたかも自分が神様の御心に沿って生きてきたかのように思い込んで、それに依拠して自らのことを誇ることはできないし、またそうしたいとも望みません。私たちの善い行いは罪の赦しをいただくために必須な前提条件ではありません。とりわけ罪の赦しに関わる事柄においては、善い行いを罪の赦しを受ける根拠に持ち出してはいけないのです。神様の裁きの座において、人が罪の赦しを受けるためには、自らの善い行いでは足りないからです。罪の赦しに関しては、イエス様の十字架のゆえに、あらゆることが完全に神様からの賜物でなければならないのです。パウロはすでにこの時点で中間試験を実施します。今まで述べて来たことが本当なら、もはや神様の御旨は結局この世では 実現しなくなってしまうのではないか、という問題が提示されます。罪の赦しをいただける以上、人々は平気で神様の戒めを少しも遵守しなくなるのではないか、という疑問です。いやそうはならない、とパウロは答えます。人々は善き神様とその愛の深さとをよく知るようになるので、神様の御旨は以前にも増して実現していくようになる、というのです。しかしこのことについて、パウロはここではこれ以上語ろうとはしません。それは「血の福音」に関係する事柄だからです。すなわち、キリスト信仰者であるあなたは自分の善い行いとは関係なく神様の子どもなのであり、キリストの死と復活のゆえにすべての罪が赦された存在である、ということです。そして、この福音と全く関わりが持てなくなるほど罪深い人間は一人もいません。


第3回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」3章

最初の1章と2章で、パウロは異邦人もユダヤ人も神様の御前では罪深い存在であることを示しました。この3章で、彼は福音を紹介します。人は皆、神様の御前では罪深い存在です。しかし一方で、人は皆、イエス•キリストにおいて罪の赦しをいただけるのです。

1)パウロは、3章8節で、「結局、神は罪を赦すし、罪を善用することもある」、などと考えて罪を行うことがあってはならない、と警告しています。あなたは今までこのように自分に言い聞かせて悪いことを行う誘惑に駆られたことがありませんか。このことに関して具体的にはどうするべきなのでしょうか。

2)パウロはまず厳しい話をし、すべての人が罪深い存在であることを示しました。その後ようやく罪を帳消しにする方法について話し始めます。それにしても、どうして人は自分が厳しく裁かれる話を聞くのが難しいのでしょうか。そのような話は今とりわけ必要なものなのでしょうか、それともあまり必要がないのでしょうか。私たちは厳しい裁きの言葉から素早く身を隠すときに、「神様がイエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださる」という約束(福音)からも自分の耳を塞いでしまうことになりはしませんか。

3)神様の義にあずかれるのは誰ですか。この3章によれば、それは誰に与えられるものなのでしょうか。

終わりのメッセージ 

「この世のすべての罪深い人たちに」

この世の罪深い人たちに、今、次のような言葉が響き渡っています、「さあ来なさい。すべてすっかり用意が整っていますから。天のお父様はその愛する御子を死に渡されました。御子はあがないのみわざを成し遂げられました。御子は、全世界の罪を帳消しにするための生け贄として十字架でその血と命とを捧げてくださいました。御子は死と地獄と悪魔とに勝利なさいました。そして、栄光に包まれて復活なさり、私たちのために永遠の命、義、天の御国における不死の命を準備してくださったのです」。これが短くまとめられた福音の教えの内容です。福音の本質は律法のそれとはまったく異なっています。律法は脅かし、怖がらせ、行いと報酬を要求します。しかし、どうしようもなく罪深い者ではあるがキリストを受け入れキリストの御名を信じている者たち皆に対して、福音はキリストのゆえに何の見返りを要求せずに、喜ばしき救いの宝をまるごと約束し、また実際にそれをプレゼントしてくれるのです。

F. G. Hedberg