ローマの信徒への手紙13章 キリスト信仰者と公的権力

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

この世を支配する公的権力の意味 13章1〜7節

前回とりあげた12章の終わりで、パウロはキリスト信仰者が他の人々の間でどのように生活するべきかについて語りました。彼は愛の意味を強調し、個人的に復讐しないように要請しました。パウロは13章のはじめで隣人愛の具体的な応用例として、この世を支配する公的権力に対してキリスト信仰者がとるべき態度について取り上げます。

この箇所でパウロの伝える御言葉は妥協の余地がない明確なものです。これらの指示はその後二千年にわたって、時の権力者たちに対するキリスト信仰者のとるべき基本的な態度を決定してきたとも言えます。指示の内容は以下の通りです。世を支配する公的権力は「神様の僕」であり、神様御自身が定められたものです。公的権力と良好な関係を保ちたい人は皆、正しく善いことを行いなさい。悪を行う者は恐れなさい。なぜなら、神様はこの僕に剣の所持を、すなわち法律を破る者を処罰する権利を授けておられるからです。それによって、善そのものなる神様のお定めになった秩序がこの世でも力強く維持されて行きます。キリスト信仰者はこの世を支配する公的権力を「神様の御手」と見なすべきです。この御手の支配下にある者として忠実に行動しましょう。しかし、私たちがそうするのはそれが主の御旨だからであって、そうしなければ犯罪者として扱われるからだけではありません。

この聖書の箇所はルターにとって非常に重要なものでした。よく知られているように、この世における公的権力は神様が定められたものであることを、彼は大いに強調しました。パウロと同様にルターは、この世を支配する公的権力が欠如した場合にいったい何が起きるか、はっきりと見切っていました。そのような事態になれば、 誰一人、自分自身や自分の家族の身の安全を確保できない完全な無秩序状態になることでしょう。
 これは新聞などで世界情勢について読む時に気がつくことです。大都会で大規模な停電が起きた場合には、無秩序化した大群衆が略奪の限りを尽くし、建物に火を放ち、警察の働きを妨害します。それはさながら地獄が突然この世に現出したかのようです。国家権力が夜間の道路の安全を確保できないところでは、強盗が横行します。革命などで社会全体が極度の混乱に陥っている時には、支配権力機構は状況を沈静化する術を失います。
 このようなケースが歴史を通じて世界各地で実際に起こってきたことを考える時、整った社会秩序と安定した国家権力機構がどれほど大切な神様からの賜物であるか、よくわかります。これらは神様からこの世への最大級の賜物のひとつなのです。ただし、その存在のありがたみがわかるようになるのは、実際にそれが消えてしまった時になってからです。

世の公的権力が邪悪な場合には?

世の公的権力がいつもよいものであるとは限りません。パウロには本当にこのことが見えないのでしょうか。国家権力がそれ自身と異なる思想を持つ人々を政治犯として投獄し、公正とはいえない理由に依って裁判を行い、さらには残虐に拷問することがしばしばあることを、彼は知らなかったのでしょうか。神様を畏れない公的権力がキリスト教の信仰を宣べ伝えることを許可せず、それどころか逆に、世界各地で様々な時代におびただしい数のキリスト信仰者を殺害することになることに、彼は思い至らなかったのでしょうか。

ここでパウロは自らの立場をそれほど明確には説明していません。しかし、私たちは彼が鞭打ちで背中に負った自らの傷跡に言及していることを知っています。 それぞれの都市における公的権力の代行者たち(為政者たち)が必ずしもイスラエルの士師(裁き司)の末裔ではなかったことを、彼は誰から教わるまでもなく十分承知していました。それから彼はこの問題の考究を一時中断して、公的権力が神様の僕であることを指摘します。  

教会の初期の時代にパウロや他のキリスト信仰者たちが暴力的な公的権力を擁護しようとしたことが、たとえ一度でもあったのかそれともなかったのか、私たちは知りません。エルサレムの使徒たちはユダヤ教の大祭司たちを脅かすために暗い小道で復讐劇を目論んだりはしませんでした。不正な裁判による死刑判決に甘んじて従われたイエス様が彼らの模範だったからです。イエス様は比類のないやりかたで、この世の支配者たちから束縛を受けずに自由に生きることができました。イエス様はこの世の公的権力が神様を畏れない冷酷なものであることをご存知でした。そして、彼らのことを批判もなさいました。しかし、それでもあえて彼らの見かけだおしの権力に屈従なさったのです。そして、初期のキリスト教会もイエス様と同じような態度をとりました。

公的権力(ユダヤ教の大祭司階級)がキリスト教信仰の伝道を禁止するにいたった時、使徒たち(ペテロとヨハネ)は、「神様に聴き従うよりもあなたがたに聞き従うほうが神様の御前に正しいことかどうか、判断してください。私たちは自分の見たこと聞いたことを語らないではいられないのです」、と返答しました(「使徒言行録」4章19〜20節より)。このようなケースを除けば、初期の教会は決して為政者に対して反抗することはありませんでした。これはパウロの場合にももちろんあてはまります。

現代人にとっては?

現代の民主主義国家の中で暮らしている私たちにとって、パウロの伝える神様の指示に従うのは特に難しいことではありません。政府に対して不満を抱くことはあるでしょう。しかしそれでも、キリスト信仰者は合法的な公的権力に対して反乱を企てたりはしません。民主主義国家では、選挙やその他の手段を通じて社会の建設に積極的に参加することが国民全員に求められます。社会批判もそのひとつの手段です。しかし、批判する場合にも限度というものがあります。腹立たしく思われるような税金もちゃんと納め、公正ではないと感じられる法律にも従うことがキリスト信仰者の生き方です。このように行動することは、公的権力を「神様の僕」として私たちが認めていることを示すものです。公的権力が私たちに対してことさらに従順を要求する必要はありません。私たちは自発的に公的権力に対して従順な態度を保つからです。その理由は、神様が「そのようにしなさい」と御言葉を通して命じておられるからです。ただし、神様の御言葉から公的権力が背反する場合には、キリスト信仰者は公的権力の命令に反する行動を取ります。この点に関して、はたしてこれに該当するケースを知っているかどうか、各自がその良心に照らしてゆっくり考えてみるとよいでしょう。

キリスト信仰者が公的権力に従順であろうとする時に、信仰上困難な問題に頻繁に遭遇する国と、そのようなことがあまり起こらない国とがあります。たとえば、子どもに洗礼を授けることやキリスト教の教育を施すことを禁じている国があります。公的権力がキリスト信仰者を迫害し殺害する場合さえあります。こうした事態に対して私たちキリスト信仰者がどのような態度を取るべきかを決めるのは往々にして困難です。ともあれ、私たちは全世界に平和と安全が与えられるように祈ります。神様を畏れない公的権力が神様からの怒りを我が身に招くことを私たちは知っています。神様は御自分の従僕たちが際限なく悪事を行うことを許可なさらないからです。そうではあっても、キリスト信仰者は武器を手にする前に何度も熟慮を繰り返します。神様の御言葉の発している警告は明瞭です。

軍隊や警察など国家安全に関わる職務については?

キリスト信仰者は軍隊に入り戦争に参加することが許されているのでしょうか。教会が軍隊に祝福を与えその働きを支えることは神様の御旨に反しているのではないか、という疑問が当然ながら出てきます。たとえば、フィンランドでは男性の若者には、しばらく兵役につくか、あるいは他の場所で働くという義務が課されています。しかし、「殺してはならない」という神様の戒め(モーセの第五戒)をすべての状況で遵守するために、兵役の代わりに他の場所で一年間働くことを選ぶキリスト信仰者の若者も多くいます。

このことに関連する聖書の箇所はルター派の教会にとって非常に重要です。公的権力には「剣を持つ」権利があることを、私たちキリスト信仰者は神様が制定なさったことであると受け止めています。ですから、この聖書の箇所によれば、キリスト信仰者が警察官や軍人になろうとするのはよくないことではありません。なぜなら、それは公的権力と神様の僕として働くことだからです。キリスト信仰者が個人的に人を逮捕したり、警棒で殴りつけたり、武器で脅したりするのは許されないことです。それとは対照的に、 国家の安全に関わる職務に就いているキリスト信仰者には、公的権力の代行者として前述のことを行う権利が委ねられています。このことによって神様が望んでおられることは、地獄のような状況が地上に現出してしまわないようにすることです。それゆえ、青年男子がフィンランドで兵役の義務に就くのはまったく正しい行いなのです。人は皆自己の良心に従うのが基本的にはよいことなのですが、その際に、その良心を神様の御言葉にしっかり結びつけることが大切になります。自己の良心が聖書に反したことを考えたり行ったりするように勧める場合には、その良心のあり方自体を再検討する必要があるでしょう。確実に言えることは、キリスト信仰者は自ら戦争## Heading ##を求めることがあってはならず、常に平和を祈るべきである、ということです。

キリスト信仰者としての生き方に関する他の一連の指示 13章8〜14節

公的権力をめぐる問題を扱った後で、パウロは愛のテーマに戻ります。そして、読者全員に一番大切な戒めを指示します。それは、「自分と同じように隣り人のことも愛しなさい」、というものです(「マタイによる福音書」22章39節)。イエス様と同じような言い方で、パウロはこのことを説明しています。すなわち、愛は律法の成就であり、律法が命じる一切のことは「隣り人を愛しなさい」という戒めに集約される、ということです。しかしこれは、この一つの命令によって他のすべての戒めはその意味を失ってしまう、ということではありません。そうではなく、私たちは自らの罪がゴルゴタの十字架によって赦されたことを仰ぎ見るとき、神様の御旨と設定なさった事柄とに従う力をいただける、という意味なのです。

パウロは荘厳に響き渡る奨励の言葉でこの章を閉じます。キリスト信仰者は神様の御国に属しています。キリストの再臨に際して御国の栄光の中に入れていただける存在なのです。夜は更け、日の出の時が近づいてきています。使徒パウロによれば、この夜は「エジプトでの隷属状態を終わらせる過越しの夜」と捉えることができます。キリスト信仰者は、あたかも朝がまだ来ないかのように考えて夜の酒宴に浸るような真似をするべきではありません。今すでに心の用意を整えておくべきなのです。私たちにとってそれは、キリスト信仰者としての自らの生き方を見つめ直すことです。とりわけ大切なのは、私たちの罪を帳消しにしてくださったイエス・キリストの中に救いを求めて避難することです。


第11回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」13章

公的権力に対して従順な態度を取り、キリスト信仰者にふさわしい愛を保ちながら常に目を覚ましているように、とパウロは勧めています。

1)マルティン・ルターにとって「ローマの信徒への手紙」のこの章は後にとても大切なものとなりました。彼はこの章に基づいて、「この世での公的権力は神様が設置なさったものである」、と教えました。かりに公的権力が存在しないとしたら、いかなる事態が発生することでしょうか。このことに関連して、停電状態になった大都市ニューヨークでどのようなことが起きるか、想像してみましょう。たとえば、警報装置が作動しないため商店からの略奪が無制限に行われることでしょう。
このことは人間というものについてどのようなことを教えてくれるでしょうか。
私たちの国は警察が存在しない場合にも秩序が維持されるものでしょうか。

2)自国民を敵に回して流血の事態を招くことさえ辞さない、残虐で横暴な国がこの世には存在します。このような事態の最中におかれたキリスト信仰者はどのような行動をとることができるでしょうか。

3)民主主義国家においては、国民が国政に参加して批判も行うという積極性が国民に対して期待されています。この点で、今の時代はパウロの時代とは状況が異なっています。ということは、公的権力に対する従順な態度を教えるこの手紙の箇所は今ではもう意味を失ってしまったのでしょうか。
払うのが腹立たしくもなる税金や、内容的に愚かしい国の法制については、どう考えるべきなのでしょうか。

4)キリスト信仰者である若者は良心の咎めを感じないで、国の決めた徴兵義務に従い軍隊に行くことができるでしょうか。
教会が武器について神様からの祝福を願うケースについてはどう思いますか。
私たちは戦争兵器一式共々軍隊を放棄して、必要に応じて武器を使用する警察だけを容認することが可能でしょうか。