ローマの信徒への手紙16章 暖かな挨拶

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロは「ローマの信徒への手紙」の最後の章を同労者や友人たちへの挨拶によって閉じます。ここに挙げられている名前のリストは、聖書の一般的な読者にとってはあまり意味がないように思われるものかもしれません。しかし、このリストには初期の教会、およびその状況に関する情報が驚くほどたくさん含まれているのです。古代史の研究者なら、人間の名前からだけでも、その人物に関してかなり多くの情報を得ることができます。このように多くの名前の記された一覧表は、研究者にとっては宝物そのものです。もっとも彼らの得た研究結果は、神様の御声を聴くために聖書を読む私たちキリスト信仰者にとっては必ずしも興味を引く内容ではないかもしれません。それでもなお、このような研究者の仕事も必要で有益なものなのです。それによって聖書を知るために役立つ背景知識が得られるからです。

「ローマの信徒への手紙」にこの16章は含まれるのでしょうか?

研究者たちは、この16章がはじめから「ローマの信徒への手紙」に属していたかどうか、昔から論争してきました。以前ローマの教会には行ったことがない、と言っているパウロがこれほどたくさんその教会の信徒たちを知っていることを、多くの学者は不思議がりました。26人もの人々に彼は挨拶を送っているからです。名前から判断すると、彼らのうちの何人かはエフェソの教会の信徒であった可能性があります。中には冗談半分で、エフェソ教会のパウロの友人たちがそろってローマに移動したのではないか、などと言う研究者の人たちもいます。もともと16章は別の独立した手紙だった、と彼らは主張します。

この16章がパウロの他の手紙の一部だったのか、それとも「ローマの信徒への手紙」の末尾に位置していたのか、私たちにはどちらでもよいことです。それによって神様の御言葉の価値が減るわけではないからです。この部分だけが独立した手紙ではなかったのはたしかです。簡単に挨拶だけをポストカードに書いて送る今の時代のやり方からすれば、パウロが色々な人々への挨拶だけを記している「手紙」があってもおかしくはありませんが、パウロの時代にはこれはほとんどありえないやり方だったからです。

パウロが以前に自分では訪れたことがない教会にこの手紙の部分を書いたことを信ずるに足る理由が、私たちにはあります。エフェソに長期間滞在したパウロが手紙で26人だけに対してだけ挨拶を送り、他の人々の名前を記さなかったとしたら、一体エフェソの教会の信徒たちはどのように思ったことでしょうか。26人より多くのエフェソの信徒たちのことを知っていたはずのパウロが、なぜもっと多くの人々に挨拶を送らなかったのでしょうか。それに加えて、挨拶のリストにある人々の名前の多くは、たとえばエフェソよりもローマで発見された碑文のほうにはるかにたくさん見出される名前なのです。ですから、古くからある考え方に素直に従うのが一番よい、という結論になりそうです。それに、ある手紙の挨拶を他の手紙の挨拶として末尾に付けることには、いったいどのような利益があるというのでしょうか。

フォイベと、パウロの女性嫌悪について 16章1〜2節

パウロはローマの信徒たちに、コリントの港町ケンクレアの教会の「僕」フォイベについて心のこもった推薦文をしたためています。この短いメッセージから私たちは驚くほど多くの内容を読み取ることができます。とりわけ、教会の「僕」(ギリシア語で「ディアコノス」と言い、教会での執事の職に相当します)としては女性も働くことができた、ということがわかります。このことは聖書のどの他の箇所でも禁じられていません。教会の初期の頃から、多くの女性が執事として働いたことがよく知られています。彼らは「女性執事」という名称で呼ばれることが一般的でした。

この執事の職は教会の牧師職(ギリシア語で「エピスコポス」と言い、英語の「ビショップ」(教会長)という言葉の元になっています)とは異なり、教会を指導したり教えたりする職務ではありません。パウロは女性が教会の礼拝で教えることを禁じており、この点については非常に厳しく命じています(「コリントの信徒への第一の手紙」14章26〜40節、および「テモテへの第一の手紙」2章9〜15節)。「コリントの信徒への第一の手紙」11〜14章は、全体として教会の礼拝について語っています。教会には礼拝以外の分野で、教会の職に就いた女性が御言葉に基づいて行うことができる実に多様な仕事が昔からありましたし、今もあります。それゆえ、パウロが伝える神様の御言葉を背景にして考えるとき、女性が御言葉に基づかない働きを行うこと(たとえば牧師になること)は無謀であり、そのような行為に神様からの祝福が伴っているかどうかは極めて疑わしいと言わざるをえません。

以上に述べた理由から、パウロには女性に対する憎悪がある、という見方もなされてきました。未婚者パウロが人間の現実の生活のことがわかるわけがない、と考える人もいました。「パウロが実際に会った女性たちは、彼が「未婚者としての教義」を形成し、しかもそれを「主の命令」(「コリントの信徒への第一の手紙」14章37節)として恥ずかしげもなく披露するのに一役買うタイプの女性ばかりだった。パウロ、あなたは可哀想な男ね」、などと、あるフィンランドの女性記者はうそぶきました。ここでまずもって覚えておくべきことがあります。それは、私たちのキリスト教の信仰によれば、主の使徒は自分が勝手に考えた意見を述べているのではなくて、聖霊様に導かれて御言葉を語っている、ということです。
 また、パウロに「女性嫌い」というレッテルを貼るのも間違っています。まさにこの16章で、彼はキリストにある多くの信仰の姉妹たちに温かい挨拶を送っているからです。彼らの中には「使徒言行録」18章にも記載のあるプリスカや、キリスト信仰者たちのために多くの労苦をいとわなかったマリアがいます。また、トゥルパイナとトゥルフォーサ、また「主にあってたくさん労苦した、愛する姉妹」ペルシスがいます。ルフォスの母親はパウロにとっても母親のような人でした。ローマの教会の女性たちに対するパウロの挨拶の仕方には、温かな愛と信仰者としての一致とが反映されています。

アキラとプリスカ 16章3〜5節

アキラとプリスカ(プリスキラ)というユダヤ人夫婦もパウロの挨拶の対象となっています。「使徒言行録」18章にも彼らは登場しています。西暦49年に、彼らはローマから退出しなければならなくなりました。この年に、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人をローマから追放したからです。ローマ人歴史家スエトニウスは、ユダヤ人たちが「クレストゥス」に煽動されて暴動を起こした、と記しています。当時普通の奴隷の名前だった「クレストゥス」(「まとも」という意味)と、私たちの主の御名「キリスト」は、当時同じように発音された言葉でした。スエトニウスが事態を誤って理解し、ユダヤ人たちがこぞって誰か奴隷の指導の下で暴動を起こした、と勘違いしたのだと思われます。ところが実際には、ローマ在住のユダヤ人たちは、ナザレのイエスがキリストであるかどうか、互いに論争していたのです。これらの争いの中で、イエス様を受け入れようとしなかった不信仰なユダヤ人たちは、イエス様を信じるユダヤ人たちに対してシナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)からの追放などの懲罰を適用したのであろうと思われます。その処置が非常に厳しいものであったため、周囲の注目を集めるほどの騒乱が生じてしまったのでしょう。

ユダヤ人たちのローマ追放は徹底さを欠く短期間の処置だったものと思われます。皇帝クラウディウスが54年に没した後、ユダヤ人追放令は解除されました。ですから、アキラとプリスカがその後再びローマに戻ってきていたのは大いにありうることです。彼らは主を証しする勇気ある信仰者でした。パウロの説明によれば、彼らはある時には、使徒の命を救うために自らの首を差し出すことさえしたのです(16章4節)。この出来事について、私たちは残念ながら何も知りません。もしかしたらそれは、パウロがエフェソで経験した大きな危険と関係があるものかもしれません。この出来事も私たちには謎のままです。ともあれ、アキラとプリスカの家ではキリスト信仰者たちが集っていました。これは、彼らの居住地には多くの小さな信徒の群れがあったことを示唆しているものと思われます。パウロは普通の場合、手紙の宛名として特定の教会を想定しますが、ここではそれとは異なり、手紙の受け取り手が「ローマの教会」ではなくて、「ローマにいる聖徒たち」宛てになっていることに注目しましょう。

ユニアスとアンドロニコ 16章7節

はじめに日本語聖書の代表的な二つの翻訳を記します。 「わたしの同族であって、わたしと一緒に投獄されたことのあるアンデロニコとユニアスとに、よろしく。彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、わたしよりも先にキリストを信じた人々である。」(口語訳) 「わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのあるアンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしよりも前にキリストを信じる者になりました。」(新共同訳)

聖書を新たにフィンランド語に翻訳し直したときに、この節はフィンランドにおいて二つの点で話題になりました。第一に、ここで「ユニアス」と訳されている名前が、1992年の新しいフィンランド語訳では「ユニア」という女性の名前に変えられたことです。このように訳す日本語訳も存在します。第二に、これは日本語訳でもそうですが、この節で挙げられている二人の人物が、1938年版のフィンランド語訳では「使徒たちの間で評判が」よい人たちだったのが、1992年版の新しい訳では「使徒たちの中で目立って」いた人たちだった、と変更されている点です。つまり、二人は際立った使徒であった、という解釈です。

パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜36節で伝えている、「女性が礼拝で教える立場を取るのは許されない」という指示を無視して、女性が牧師になってもよいとする「婦人牧師制」を支持する人々にとって、女性の使徒が発見された(?)ことは、大歓迎の出来事でした。しかし彼らには都合が悪いことに、このぬか喜びを台無しにする反証がたくさんあるのです。

ギリシア語の原語本文に基づく限り、名前がユニアス(男性)なのか、ユニア(女性)なのか、確実なことは実は何も言えません。どちらも文法上ありうる形だからです。ユニアヌスという男性の名前はユニアスという短縮形の名前で記されることがありました。他にも、シルワーヌスという名前がシラスに短縮されたケースがあります。最終的には、確率的な結論を下すほかありません。

「この二人は使徒たちの間で大いに評価されていた」、と原文は記しています。これは二つの意味に取ることが可能です。一つは、「両者は高い評価を受けていた使徒だった」、という解釈です。もう一つの有力な解釈は、「使徒たちが彼らのことを高く評価していた」、というものです。

「使徒」と訳される「アポストロス」というギリシア語は「派遣された者」、「メッセージを伝える者」という意味を持ち、広い意味でも狭い意味でも使用することができます。それは、狭い意味では十二使徒を指し、パウロさえもその中には入れられませんでした。 それよりもはるかに広い意味の使用例としては、フィリピの信徒たちがパウロの許に派遣したエパフロデトが挙げられます(「フィリピの信徒への手紙」2章25節)。この箇所におけるこの言葉の意味は「メッセンジャー、すなわち使者」というものです。ここからわかるように、この言葉の意味を考える時には、その狭い用法と広い用法とをしっかり分けなければなりません。

以上述べてきたことから、「女性使徒」の存在は想像の域を出ないことがわかりました。もしもユニアという読み方が正しく、また、このユニアが「アポストロス」だったとするなら、この言葉はここでは広い意味で使われていたことになります。「婦人牧師制」をセンセーショナルな話題として取り上げたフィンランドの新聞や雑誌が「女性使徒の発見」なるものに異常な関心を示し、「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜36節や、「テモテへの第一の手紙」2章9〜15節など、このテーマに直接関係する聖書の箇所を無視したのは、聖書の教えを軽んじる今の時代の風潮を反映するものだと言えます。

ところで、この「ユニアス」か「ユニア」か、という名前の問題は、研究者たちがわずか一節の一部からさえも実に多くのことを導出できることを示す好例です。パウロは彼らのことを「同族」、「一緒に投獄された仲間」と呼んでいます。彼らはパウロ自身よりも以前にキリスト信仰者とされた人たちでした。ユニアス(ユニア)とアンドロニコは「使徒たちの間で大いに評価されていた」人たちでした。

名前がユニアだったかユニアスだったかには関わりなく、それがユニアヌスという名前から導出されたものだったのは、ほぼ確実です。パウロはこの人物がユダヤ人であった、と言っています。この人物はローマ人の名前をもっているので、有名なユニウス家の奴隷だったとも考えられます。例えば、ガイウス•ユリウス•カエサルを殺害したマルクス•ユニウス•ブルートゥスはこの家系の出身です。パウロの挙げたこの人物は、他の人の奴隷として売られ、おそらく皇帝のおびただしい奴隷の群れに加えられ、ユニアヌスと名付けられたのではないかと思われます。この人物が後に奴隷の身分から解放されて自由の身になったのは、ほぼ確実です。当時の一般的な慣習として、奴隷は30歳になると自由の身になったからです。これは、奴隷の老後の世話にかかる経済的な負担を主人が免れるための措置でした。この後どうなったかはまったくの想像ですが、次のようなことが起きたのではないか、と考える優秀な研究者(P. Lampe)がいます。それによると、ほかでもなくフィリピで、パウロは皇帝の奴隷たちや解放された元奴隷たちと知り合いになりました。フィリピには奴隷や解放奴隷がたくさん住んでおり、パウロ自身彼らと付き合いがあったことを記しています(「フィリピの信徒への手紙」4章22節の「カエサル(皇帝)の諸家に属する者たち」という表現に注目してください)。そして、ユニアヌスとパウロは一緒に投獄されていた時期がありました。

異端の教えについての警告 16章17〜20節

すでに初代教会の頃より、多くの者が教会で、使徒の言葉ではなく自分の意見に基づいて教えていました。「こういう教師たちによく気をつけるように」、とパウロは教会員たちに厳しい警告を発しています。これらの教師がちゃんと話す力がなかった、ということが問題だったのではありません。逆に、彼らは美辞麗句を並べて純真な人々を欺き、惑わせていたのです。

私たちの生きる現代は非常に宗教的な時代です。信仰によって治療を施す者たち、諸霊の力を借りる者たち、瞑想を教える者たち、教会に新奇な教えを持ち込む者たちなどが至る所にあふれかえっています。「私たちは聖書から受けた教えを守らなければならない。それ以外のことを教える者たちには耳を貸してはいけない」、というのがパウロの指示の内容です。これが私たち現代人にとってどのような意味を持つものか、考えてみなければなりません。すべての宗教性がキリスト教的なものであるのではありません。また、「キリスト教」の名の下に一般に通用していることすべてが、神様の御言葉に従っているものとも言えません。「羊の衣を着たオオカミに気をつけるように」、とイエス様は警告なさいました。「ローマの信徒への手紙」の学びをこの警告の御言葉で閉じたいと思います。

この手紙でパウロは、キリストの福音を混ぜ物のない輝かしいものとして提示しました。その核心には、「罪深い存在である人間はキリストの十字架の死のゆえにその罪を赦され、神様に受け入れていただける者となる」、というメッセージがあります。誰であろうと、何であろうと、この宝を私たちから奪い去ることがあってはなりません。それゆえ、神様の御言葉の真理の中に留まる術を学び、御言葉を前にしてキリスト信仰者としての活ける良心を保てるよう、神様にお祈りする必要があるのです。


第13回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」15〜16章

パウロはキリスト信仰者としての生き方に関する具体的な指示を、キリストの示された愛の模範に依拠しつつ、この章を閉じます。彼はこれからの伝道計画を説明し、最後に、ローマの教会の多くの信徒たちに、彼らの名前を挙げながら挨拶を送ります。

1)神殿から商人たちを追い出したイエス様、ガラテアの信徒たちに手紙を送ったパウロ、両者ともに、真理をこそこそ隠しておくことはキリスト信仰者にふさわしい美徳ではない、ということを明らかにしています。その一方では、「ローマの信徒への手紙」15章1〜13節が示しているように、キリスト信仰者の真の役割とは「仕える役割」です。このことは、主御自身が弟子たちに仕えてくださったことからわかります。上記の二つの事柄は互いに相反するものなのでしょうか。真理を他者から隠す臆病さと、自分を他者よりも重要だと見なす高慢さ、という二つのうち、私たち個々人に染み付いている罪の傾向は、どちらのほうがより当てはまりますか。

2)パウロは伝道に燃えていました。まだキリスト教が伝えられていない西ヨーロッパでの宣教がしたくて、彼は夜も眠れないほどであった様が窺われます。それに対して、私たち自身の伝道への情熱はどうでしょうか。自分の周囲に対して福音を伝えるために、また世界伝道のために、私たちには何ができるでしょうか。自分の生活のためには多くの費用をかけても平気なのに、福音伝道のためとなると、とたんに財布の紐が固くなるのはどうしてなのでしょうか。

3)パウロは女性を憎悪していた、という主張がなされることがあります。「ローマの信徒への手紙」16章は、はたしてこの見方を支持するものでしょうか。

終わりのメッセージ

どうか私たちを「習慣的キリスト信仰者」としてください

「習慣的キリスト教」というと、形式だけで内容を伴わないキリスト教信仰のあり方に聞こえます。とても褒められたものではなく、これより最低の信仰生活はないだろうとさえ思われます。ちょうどアルコール中毒者をアルコールから解放する手助けをするようにして、このように気の抜けた信仰生活から脱却できるように手助けする組織が必要なのではないか、と普通なら考えるところかもしれません。

昔の私はそのように考えていました。「習慣的キリスト信仰者」とでも名付けられるこの哀れな連中に石を投げて、説教台や福音伝道や話し合いの場から追い払うべきである、と。我々「習慣的キリスト信仰者」は現代の疫病であり、我々と一切の関係を断ち切る権利を皆が有している、と。

長い間にわたる経験に基づいて言えることですが、例えば、朝の祈りのひと時や礼拝を通して、私の魂は大いに昂揚し、霊的な糧を得て満ち足ります。神様との親密な生活を送ることができます。それにもかかわらず、私は怠ける自分の性癖に対して、朝の祈りのひと時や礼拝の習慣を守るように、と命じなければなりません。しばしば私は、熟慮の上で生活に取り入れた習慣に従うように、自分自身に強いなければなりません。仕事や話し合いの場からいったん離れて食事の席に移るとき、私の心はいつも神様への感謝で満たされる、というわけではありませんでした。そうではあっても、私はキリスト信仰者としての習慣に従い、目の前に備えられた食事が神様からの善き賜物であることを、祈りをもって告白したのでした。

キリスト教関係の新聞社に勤めていたとき、晴れの日も雨の日も私は礼拝に参加しました。そのとき、いつでも自発的な喜びの心をもって、そうしていたわけではありません。これと同じことは献金についても言えます。喜んで献金を捧げている自分の姿に気がついて心が歓喜することは、めったにありません。かなりの量の捧げ物を差し出すためには、自分が本来ならやりたいと思っていることをあえて我慢する必要があります。例えば、伝道に従事する自分の職場の活動全体のために必要だとわかれば、捧げ物をする意欲はいくらでも湧いてくるものでしょう。

自分の人生に対して深い意義をキリストにおいて見いだすとき、喜びが生まれます。私たち信仰者のうちでキリストが活きて支配してくださっているとき、もうそれだけで十分なのです。信仰生活がはたして喜びの煌めきに彩られているか、あるいは、習慣的にキリスト教に固執するものであるか、ということはどうでもよくなります。

それゆえ、私は天の父なる神様にお祈りします。どうか私を、あなたの御旨に従うべく日々努力していると認めてくださるような「習慣的キリスト信仰者」にしてください。私たちの教会にも「習慣的キリスト信仰者」たちをお与えください。私たちがあなたの御国の仕事を熱心に行えるかどうかは、彼らの双肩にかかっているからです。それに対して、一時の思いつきに左右される「感情的キリスト信仰者」は、神様を賛美したり御国の仕事のために計画したり組織を作ったりする肝心な時には、決まって不在だからです。

レイノ・ハッシネン