コリントの信徒への第一の手紙13章 愛の雅歌

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

使徒パウロがこれまで書き残したもののうちで最も偉大なのは、「コリントの信徒への第一の手紙」の13章である、と多くの人は考えています。この章はもっともな理由から「愛の雅歌」と呼ばれています。

人間が書き記した書物の中でも、この章は高い地位を占めています。その偉大さと荘厳さは、ほかの多くの宗教においても認められています。この章は、私たちクリスチャンが誇りとすべき高価な真珠です。それと同時に、この章はすべてのクリスチャンを恥じ入らせるものでもあります。なぜなら、私たちはこの珠玉の教えに従って生活してはいないからです。

13章の位置の問題

多くの研究者は、「今の13章は元々とは違う場所に置かれている」、と考えています。12章でも14章でも、パウロは恵みの賜物について語っています。それに基づき彼らは、「13章はパウロの死後にこれらの章の間に配置されたのだ」、と主張します。また、「おそらくパウロは12章と14章との間に、彼自身かあるいは誰か他の人が以前に書いたものを配置したのだ」、と考える研究者もいます。一方では、「この13章は私たちの聖書の中でまさに本来の正しい場所に位置しており、パウロがこの「コリントの信徒への第一の手紙」のために書いた箇所にほかならない」、と考える研究者も大勢います。

問題を解く鍵となるのは、12章の最後の箇所です。これは12章と13章とを結び付けています。今扱おうとしているこの13章は、手紙の他の部分と内容的に逸脱してはいないのです。ここで愛が話題になるのは、パウロが時にはコリントの信徒間の争い以外のことについて話したいと思ったからではありません。愛のテーマを扱っている理由は、まさにこれがコリントの教会の難問だったからです。

コリントの教会では各々が自分自身の恵みの賜物を用いて、それをとりわけ大事にしていました。クリスチャンの生活は大きな賜物を駆使することにほかならない、と考えられていたからです。しかし、これは的の外れた考え方です。あらゆることの基底であり出発点であるべきなのは、愛です。それをコリントの教会は忘れていました。その結果、人々は恵みの賜物を誤ったやり方で自己中心的に用いるようになったのです。また、そこから教会員同士の諍いも生まれたのです。

13章では、コリントの信徒たちの問題と彼ら特有の罪の傾向について常に注意が向けられています。それゆえ、この箇所がコリントの信徒たちに向けられたパウロの筆によるものであることを信じない理由はなにもありません。要するに、13章は前後の章と関連させて読まれるべきものだ、ということです。

私たちの愛か、キリストの愛か

もうひとつのキーポイントは、この箇所での「愛」という言葉で、パウロは何あるいは誰をさしているのか、ということです。「彼はここでキリストについて語っている」、というのが通説です。もっとも、彼はこの個所で一度もイエス様のお名前を挙げてはいません。ということは、彼はやはり「コリントの信徒たちの愛」について語っているのでしょうか。

「愛」と訳せるギリシア語の言葉はたくさんあります。それらの言葉には各々明確に異なる意味があります。ここで用いられている「アガペー」という言葉は、「無私の愛」を意味しており、高価なものを愛でる心などとは異なります。この箇所の「愛」の意味の問題に取り組む時、このことを考慮するべきです。この言葉は、新約聖書ではよく用いられていますが、他の文献では比較的使用頻度が低い単語です。

パウロがここで語っているのが、キリストについてなのか、それとも私たちの愛についてなのか、一概に決定することはできません。この問題は、いくらひねりを加えてみたり知恵をしぼってみたりしても、解決しません。私たち自身のクリスチャンとしての生活により深く分け入っていく必要があるのです。そこにこそ、この章が語っている「愛の場所」があります。

「クリスチャンの愛」とは、キリストが私たちの心に住まわれ、私たちの隣人にお仕えなさることにほかなりません。そのとき、ゴルゴタの十字架で公になった愛は、私たちの生活の中でも具体的なかたちをとるようになります。

圧倒的な愛 13章1~3節

古典時代には、さまざまな「徳」を適切に序列化することをテーマとした書物がたくさんありました。そして、最上位に置かれた徳が賛美の対象となり、それに対して他の徳は軽んじられる傾向がありました。「コリントの信徒への第一の手紙」13章は、形式的にはこのような「徳の一覧表」の体裁をとっています。とりわけこの箇所では、愛が他のあらゆる徳よりも上位に置かれています。コリントの教会の抱えていた問題に合わせて、パウロは愛を特に御霊の賜物と比較しています。

「人間と天使の言葉で話すこと」というのは、コリントの教会で高く評価されていた「異言で話すこと」をさしています。異言と天使の言葉との共通性は、「コリントの信徒への第二の手紙」12章4節からみてとれます。異言で話すこと自体には何の価値もありません。人は、その技能をどれほど磨き上げたとしても、相変わらず「死んだ楽器」に過ぎません。預言についても同じことが言えます。たとえ預言が人間にすべての秘密を明かすとしても、たとえ人が考えられうる一切合財の知識を蓄えたとしても、また、たとえ人がどれほど偉大な信仰の持ち主であったとしても、愛がなければ、すべてはまったくむなしいものです。
誰かが自分の財産を丸ごと貧しい人たちの食べ物として分配したとしても、それ自体には何の意味もありません。
殉教者のなかには、自分の体を焼かれるために渡した者がいました(たとえば、「ダニエル書」3章をみてください)。しかし、愛がなければ、そんなことをしても無益です。この箇所の最後の部分は次のようにも訳せます、「たとえ私が自分のことを誇るために、自分の体を渡したとしても」(つまり「焼くために」のところを「誇るために」と訳することもできるのです)。
ともあれ、愛がなければ、これらすべて見事な成果は、取るに足りない無価値なものです。それら自体には内在的な価値などはありません。それらの行動の背景に、キリストを私たちのために十字架の道へと赴かせたのと同一の愛が伴う場合にのみ、賜物は有益なものとなるのです。

愛とは何か? 13章4~7節

ここでパウロは愛を他のものと比較するのをとりあえず置いて、本当の愛とはどのようなものか、語り始めます。この箇所は、「聖書は聖書によって御言葉の正しい解釈を提供する」という事実を、聖書の他のどの箇所よりも明瞭に示しています。

パウロが言う「愛」とは、本来、理論的なものでも神学的なものでもありません。「キリストを隣人のもとにお届けする」のが、真心のこもった躍動する愛です。そして、この愛こそがコリントの教会に欠けていたものです。愛が欠けていたため、教会は、その力と霊に満ちた外見とは裏腹に、神様からのあらゆる賜物の意味を見失い、弱々しく、霊的に欠乏した状態にありました。

不滅の愛 13章8~13節

パウロは再び愛と霊の賜物とを相互に比較していきます。愛は決して滅びない、という点で愛は霊の賜物とは比べられないほど高みに位置しています。愛とは異なり、霊の賜物はすべて、結局この世では不完全なものです。

しかし、栄光の中に入った人皆に神様の奥義が明示される時がいつか来ます。その時には、異言で話す賜物もまたその意味を失います。もはや誰もそのような特別な賜物を必要とはしなくなるからです。あらゆる霊的な知識も、それらがどれほど深遠なものであっても、やはり時と共に消えて行く、という点では同じです。いつか預言はすたれ、異言はやみ、知識は意味を失います。しかしその時、愛はもはや決して消え去ることのない完全なものとなります。

このことは、人間が大人になっていく過程と比較することができるでしょう。子どもは自分の限られた理解力に応じて考え、自分で言葉にできることがらを話します。人が大人に成長するとき、その話し方はもはや子供の不明瞭な音の流れではなくなります。また、大人の膝ほどの身長しかなかった頃と比べて、いろいろなことがらをよりよく理解するようになります。

霊の賜物に関してもまったく同じことが起こります。それらは、来るべき世界で実現することを予告するものであるのはたしかですが、神様の真理から遠い儚い賜物であることにはかわりません。それとは異なり、愛は神様の完全で大いなる賜物なのです。それは、霊の賜物(カリスマ)を求める人皆にとって、最良の恵みの賜物を得るための道なのです(12章31節!)。その道を通じて、クリスチャンは皆、自分の生活の「エネルギー源」として、キリストの愛を競い合うようにして求めていかなければなりません。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)