コリントの信徒への第一の手紙4章 パウロの職務

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

はじめの章でパウロは、コリントの教会の問題を取り上げました。その問題とは、教会が幾人かの教師を中心とするグループに内部分裂していた、ということです。この後でパウロは、あることを念頭に置きつつそれについては明かさないまま、福音が人間の教えではなく神様の教えであることを語り始めます。福音は、神様の知恵であり、理性にとっては愚かしいことであるため、人間的な諍いとは何のかかわりもないのです。この後でパウロは3章で、「御言葉の説教者は皆、神様の御前で自分の使命と責任があり、教会が彼らに関して争い合うべきではない」、ということを強調しました。

あちこち寄り道した末、ようやく今パウロは、教会内に騒乱を巻き起こした争いの解決に乗り出します。その争いはパウロ自身にとっても大きな問題でした。すなわち、コリントの信徒たちの全員が、パウロの使徒としての権威を認めているわけではなかったのです。このことについてパウロは1章ではまったく触れませんでした。やっと今になって、長い教理的な説明をした後で、彼はこの問題に着手しました。

唯一の裁き主なる神様 4章1~5

ここでパウロは自分の立場について話します。パウロはコリントの教会の創始者でした。彼がコリントを離れた後に、他の教師たちが教会を訪れ、力強い宣教によって教会員の心をつかみました。パウロはコリントの信徒たちに、「このようなことはまったくかまわない」、と伝えます。問題になったのは、パウロの使徒としての権威を無視しようとする動きが生まれてきたという状況の変化でした。教会にはパウロのいうことをもはや聴こうとはしないグループができました。彼らは、パウロがエルサレムの原始教会の偉大な使徒たちに肩を並べるような使徒である、とは認めませんでした。

パウロは自分の立場を守りぬきます。これは自分を無意味に誇示する行為ではありません。神様がパウロに与えてくださった使命に忠実であろうとする態度でした。神様御自身がパウロを異邦人の使徒として召してくださったのです。それゆえ、使徒の言葉に従うべきかどうかということは、コリントの信徒たちが勝手に決めてよいことではないのです。

パウロは「キリストの命を受けた者」、「神様の選ばれた管理者」であり、まさにそこに、コリントの教会におけるパウロの立場は基づいています。他の人からどう評価されるかということは、パウロにとってはどうでもよいことでした。パウロは、与えられた使命をどのように遂行したかについて、他ならぬ神様の御前で裁きを受ける覚悟を決めています。

今パウロは、コリントの信徒たちが「本来神様に属すること」を「自分たちに属すること」であるかのように考えて、神様の「奥義の管理者」を裁き始めたりしないように、警告を発します。いつか必ず神様が、御自分の僕たちも含めて、皆を裁かれる日がやってきます。この日をパウロは、へりくだった心で、神様の裁きの下に自分をゆだねて、待ち望んでいます。それに対してパウロは、コリントの信徒が裁きの権能を「自分や他の人々のもの」とみなしている態度を不適切であるとして完全に否定しています。

アポロとパウロの例 4章6~7節

「私はあなたがたのためにこのことを自分とアポロにあてはめてきました。それはあなたがたが私たちのことから教訓を得るためでした」(6節)。

パウロの考えは明瞭です。前の箇所でパウロは、コリントの信徒たちに御言葉の説教者の使命を具体的に説明するために、自分とアポロを例として引き合いに出しました。パウロもアポロも神様の僕であり、おひとり神様から裁きを受ける立場にあります。問題になったのは、コリントの信徒たちがあまりにも性急に、自身の言葉に重きを置く「裁判官」として振舞いはじめた、ということです。「コリントの信徒たちはいったいどこからこのような権威を得たのか」、とパウロは厳しく問いただします。実のところ彼らは、裁判官の役を演じる権利がないにもかかわらず、その職務を遂行しようとしていたのです。彼らが得たものは何であれ、すべて神様からの賜物としていただいたものでした。しかしコリントの信徒たちには、それを理由にして他人よりも上に自身の立場を持ち上げる権利はなかったのです。

王と道化師 4章8~13節

パウロはコリントの信徒たちを痛烈な皮肉をもって次のように批判しています、「コリントの信徒たちは「神様に所属する強大な民」という妬ましいような高みにのし上がっています。彼らは王や裁判官のようなお偉方になってしまいました。キリストの十字架によって、彼らは世間から愚か者とはみなされなかったし、敬われる彼らの立場を誰も怪しんだりはしません」。

ところが、使徒たちはまったく違う待遇を受けました。手紙の最初の挨拶の後、今ようやくはじめて、パウロはこのメッセージを自分自身に当てはめました、「神様は御自分の使徒たちを多くの苦しみを受ける最悪の立場へと低められました。彼らは家もなく窮乏の中でどうにか暮らしてきました。彼らは馬鹿にされ迫害され悪く言われます。神様は使徒たちを皆からつばきを受ける「世のゴミ溜め」になさいました。一方、コリントの信徒たちは、あらゆる点でうまくことが運んでおり、彼らは権威を誇る大人物になっています」。

パウロの皮肉は切れば血が出るほど鋭く、また文章としても最上のレヴェルのものです。しかし、彼はたんに揶揄で終わらせようとはしていません。「コリントの信徒たちの恵みの賜物は、それ自体としてはすばらしいものだ」、とパウロは考えています。問題なのは、彼らがそれについて栄光を神様に帰さなかった、という点でした。

使徒パウロはすでにここで、とりわけ「コリントの信徒への第二の手紙」の最も中心的なテーマ、私たちルター派にとって決して捨てることができない大切なことを扱っています。すなわち、神様の力はこの世では人間的な能力とか輝きとして目に見えるようには現れない、ということです。この世の時には、神様は御自分の力を弱さの中に隠されます。

神様はなかんずくキリストの人生において、このようになさいました。キリストは光り輝く宮廷の中にではなく、貧しく片隅に追いやられた者として、お生まれになりました。キリストの贖いのみわざは栄光の道ではなく、キリストは御自分を常に可能なかぎり低められました。そしてそれは十字架上の恥辱に至るまで続きました。

教会が設立される時が来て、神様はこの世の超一流の哲学者たちではなく、学のない漁師たちを教会形成のために選ばれました。パウロは神様の御心を実現するために働くことを許されましたが、すでにその召命の時に、「これから多くの苦しみを味わうことになる」、と神様から言い渡されています(「使徒言行録」9章16節)。そして、終わりまでその通りになりました。

「十字架の神学」の核心は、「神様はこの世では栄光を隠され、神様の力はそれとは全く逆の「弱さ」の中に現れる」、ということです。それに対して「栄光の神学」は、神様の目に見える力、強いクリスチャン、大説教者などを偏愛します。しかし、パウロにとってそれはまったく疎遠な教えでした。

コリントの教会の使徒、パウロ 4章14~21節

神様が御自分の宣教者たちを低くされ苦境に立たせるやり方を説明した後で、パウロは再びコリントの信徒たちの方へと向きを変えます。コリントの信徒たちは主の使徒(この場合にはパウロ)を軽んじる権利が彼らにはあるかのように思い込んでいました。多くの者はコリントの教会におけるパウロの権威を認めていませんでした。コリントの教会では他の多くの教師や使徒が影響を及ぼしていたのは言うまでもありません。

ここでパウロは彼の主張にはどのような根拠があるかを明かします。たとえコリントの信徒たちにキリストにある一万人の養育者がいたとしても、彼らにはキリストにあってただおひとりの御父がいます。パウロは教会の設立者でした。彼がコリントに福音を伝えたのです。このことに基づけば、彼は少なくともコリントの信徒たちに対しては使徒でした。パウロにとって、自分が他の使徒たちと同列の使徒の一人として認められるだけでは、十分ではありませんでした。コリントの信徒たちにとって彼は、教会全体の責任を負う「第一の使徒」でした。この責任を彼は他の者に譲り渡すつもりはありません。それゆえ彼は、自分に与えられている責任と権威を堅く守り抜きます。

教会の側はこのことを認めるべきなのです。しかし、皆が喜んでそれを認めないのは明らかで、中にはいやいやながらそれを認める者もでてきます。コリントの教会を訪れるときに、パウロは教会内部を徹底的に調査する予定でした。パウロと教会員たちとの出会いがうれしい再会となるか、それとも厳しい懲罰の時となるかは、教会員たち自身にかかっています。

手紙でパウロがどのようにコリントの信徒たちに接しているかを見るのはためになります。彼の最大の懸案は、教会から自分の権威を否定された彼がそこで牧会するのは不可能になってしまっている、ということでした。このことをはじめの章で口にするほど、パウロは愚かではありません。まず彼は、キリストの福音について、また説教者の使命と責任について、事細かに説明します。この後で彼は、使徒の苦境を目にしているコリントの信徒たちに訴えかけ、自分の側に喜んで立つ人々を皆、自分の方へと引き寄せます。彼の側に立つのを喜ばない者に対しては、彼は、それ自体は好ましくないやり方や、厳しい言葉遣いによって、自分の方へ引き寄せようとしています。

このようにパウロは、非常に優れた魂のカウンセラーであり、また手紙の書き手でもありました。彼は心の激昂を長い間我慢します。それから、抑制しつつも、心中にあることを激しく表現しています。使徒は、教会を異端教師たちの餌食にされたままではおかない、と堅く決意したのです。それゆえ、彼は戦います。自身の栄誉のためではなく、神様が彼に与えられた使命のゆえに。

「コリントの信徒への第一の手紙」4章は、パウロがコリントの信徒たちの間に秩序を回復させようとするやり方についての興味深いドキュメントであるだけではありません。主の使徒は私たち信徒の間にも秩序を取り戻させようとしているのです。つまりこれは、私たちにとって非常に身近な意味をもっています。主の使徒に対して声を張り上げて反対するのは、なにもコリントの信徒たちにだけ当てはまる罪ではありません。他の土地でも、何時でも、パウロや他の使徒たちの言葉を真面目に受け取らなかった人々がいたものです。現代に生きる私たちの間にも、「パウロは時として過ちを犯すふつうの人間にすぎず、彼の意見には一人の人間が理解した分の価値しかないのだ」、と考えている人たちがいます。

もちろんパウロは罪人でしたし、不完全な人間でもありました。にもかかわらず、彼や他の主の使徒たちは自分たちの名前によってメッセージを伝えたわけではありません。パウロはテサロニケの信徒たちに対して次のように書いています、

「これらのことのゆえに私たちが神様に絶えず感謝しているのは、あなたがたは、私たちから神様の御言葉を聴いたときに、それを人間たちの言葉としてではなく、真実通りに、神様の御言葉として受け入れてくれた、ということです。そして、この神様の御言葉は、信じているあなたがたのうちで働きかけているのです」
(テサロニケの信徒への第一の手紙2章13節)。

神様は私たちに人間を通して語りかけてくださいました。まさにこのようにして、神様は私たちに御自分の御言葉を与えてくださったのです。不完全な人間の言葉は、彼らを遣わした方の言葉、神様御自身の御言葉です。それゆえ、たとえばイエス様の言葉とパウロの言葉とを互いに対置させるのは間違っています。両方共、私たちに語られた神様の御言葉なのですから。主御自身がそれを保証されておりますし、先ほど引用した箇所からもわかるように、主は御言葉が私たちの中で働きかけるようになさっています。

ここで私たちは人間の意見にではなく、聖書の御言葉にしたがっているのです。「ルーテル教会信条集」は聖書の御言葉について次のように述べています、

「私たちは、次のことを信じ、教え、告白します。すべての教えと教師とを調べて評価する際に唯一の原則と規範となるのは、預言的かつ使徒的な旧新約聖書のみである、ということです。「あなたの御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」(「詩篇」119篇105節)と書いてある通りです。また、「たとえ私たちであれ、天からの御使いであれ、私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるように」
(ガラテアの信徒への手紙1章8節)とパウロが言っている通りです。」 1)

多くの人の考えによれば、聖書に対する上述のような信条告白は、自分を縛り上げて奴隷にするようなものです。しかし、ここではまったく違う見方をするべきなのです。私たちは罪人です。そして、自分自身に頼って行動するかぎり、地獄への旅を続けているのです。ところが今、神様の御言葉は、キリストの血のゆえに罪の赦しと天国とを私たちに約束しています。決して裏切らない神様の御言葉が私たちに「本当にそうなる」と保証してくれないならば、いったい誰がこのようなことを信じる勇気をもてるというのでしょうか。

神様は約束なさったことを取り消したりはしません。それゆえ、弱く不完全な信仰者は、神様のみわざと御言葉に「避けどころ」を求めることができるのです。


1) 「和協信条」冒頭文より。

聖書の引用箇所は以下の原語聖書から高木が翻訳しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)