コリントの信徒への第二の手紙6章 神様の仕事仲間として
「コリントの信徒への第二の手紙」6章1〜2節 キリストの御業が無駄になる場合もある
現行の聖書の章節分けは本文よりもずっと後の時代にできたものです。「コリントの信徒への第二の手紙」も元々は13の章に分けられてはいませんでした。章分けは後からなされたものです。
本文を理解する上で現行の聖書の章分けが最もわかりやすい区分けであるとはかぎりません。6章の冒頭の二つの節はパウロが5章18〜21節で述べた事柄に密接に関連しているため、それらと合わせて読むべきです。キリストは全ての人の全ての罪を自ら引き受けて「罪そのもの」とされ、ゴルゴタの十字架へと歩まれました。それによって神様は聖なる御自分と罪に塗れた全世界とを和解させてくださったのです。
しかし、キリストがすでに全ての人のために何をしてくださったのかについて知らされていない人々に対しては、キリストのこの和解の御業は無益です。これは例えば、自分の銀行の口座にたくさんのお金が預金されていることを知らない人に似ています。預金があることを知らないためにそれを使うこともできないのですから。
またその一方では、キリストにおいて実現した全人類と神様との和解の福音を聞いたことがあるにもかかわらずそれを受け入れようとしない人々もいます。残念なことです。それゆえに、パウロはコリントの信徒たちに罪の赦しの恵みを無駄せず受け入れるべきであると諭しています(6章1節)。
「神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、 救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」6章2節、口語訳)
私たちはこの世で自分の人生がいつまで続くのか知りません。明日を生きて迎えられるかどうかさえわからないのです。ですから、今までキリストを知らなかった人たちはキリストにある救いを今すぐにでも受け入れるべきです。また、すでにキリストを信じている人たちは自分が救いに与っていることを人生の土台にして今日も生きていくべきなのです。
前掲の6章2節には「イザヤ書49章8節」からの引用があります。この節はキリスト信仰者にも、またそうではない人にも、皆に向かって語りかけているのです。
6章1節の「神と共に働く者」という言葉にはギリシア語原典では「共に」を意味する「シュン」という接頭辞がついています。私たちは神様と共に神様のお仕事を実行していくのです。神様は私たちを通して活動を展開なさいます。神様は力と知恵を与えてくださいます。私たちは自分の力ばかりに頼らざるを得ない孤独な存在ではありません。
ここで注意すべきなのは、この節を引き合いに出して「私たち人間は自分自身を救うために神様の御業に参画している」という間違った教義(いわゆる「神人協働説」)を正当化してはいけないということです。私たちが神様のお仕事を実行する目的は他の人々も救われるようになることです。私たちは自分で自分を救うことができないからこそ、福音伝道の意義があるのです。
「コリントの信徒への第二の手紙」6章3〜10節 十字架を担う者たち
パウロは使徒の職務につきまとう様々な困難についてすでに4章7〜12節で述べています。このテーマは後に出てくる他の二つの箇所でも取り上げられます(11章23〜33節、12章10節)。なぜパウロは使徒の職務を遂行する際に自分が直面した諸々の困難についてこのように何度も繰り返し述べているのでしょうか。おそらくそれはパウロの敵対者たちがいわゆる「繁栄の神学」の信奉者であったことに関わりがあると思われます。彼らはパウロが数々の困難に遭遇したことをパウロ自身やその伝道活動に神様からの祝福がなかった証拠であるとみなしました。今日でもこれと似たような「信じればこの世的に祝福される」といったメッセージを耳にする機会があるのではないでしょうか。
イエス様は「御自分に属する者たち」にバラ色の将来を約束なさいませんでした。むしろ逆です。しばしばイエス様は十字架を担うことと来るべき困難とについて弟子たちに語られました(例えば「マタイによる福音書」10章34〜42節)。宗教改革者マルティン・ルターは「十字架」を正しい信仰の目印の一つとみなしていました。「神様のもの」である人たちはこの世では数々の苦難に巻き込まれます。迫害を受ける場合さえあります。これらは彼らのキリスト信仰のゆえに起こることなのです。
「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、」(6章3節、口語訳)と言ったパウロは、すかさずその後の4〜5節で彼の遭遇した種々の困難を列挙しています。しかもパウロは、これらの出来事を正直に述べれば彼に対する信用をなくしてしまう人が出てくることを十分承知した上でそのように書いたと思われるのです。パウロは「誰もつまずかせない」とは言っていません。彼はただ人をわざとつまずかせるような原因を自ら作ろうとはしなかっただけです。多くの人が福音につまずいてしまうことをパウロはよくわかっていました。しかし、そのことが福音の宣教それ自体の妨げとなってはいけないのです。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)
パウロは誰のこともわざとつまずかせたのではありません。福音それ自体がつまずきの原因なのです。ところで私たちの場合はどうでしょうか。私たち自身が他の人々をつまずかせる原因となっていないでしょうか。あるいは、私たちは福音というつまずきの石を他の人々にはっきりと指し示すことができているでしょうか。
パウロは6章3節の終わりで自分にとって気がかりなのは自分の評判ではなく使徒職についてであることを強調します。私たち人間はともすると自分のことばかりを考え、神様の御国のことは大切にしないものです。
「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、」
(「コリントの信徒の第二の手紙」6章4〜5節、口語訳)
パウロは上掲の二つの節で福音のゆえに彼自身が苦しんだ逆境の数々を列挙しています。しかし、すぐその後の6〜7節では神様が共にいてくださったおかげでそれらの困難とたった一人で戦う必要がなかったことをも彼は付言しています。
神様はキリスト信仰者に対して防御のためにも攻撃のためにも武器を提供してくださる、とパウロは言いたいのです。
「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」
(「エフェソの信徒への手紙」6章10〜17節、口語訳)
霊的な戦いのための武器の一覧については「コリントの信徒への第二の手紙」10章4〜6節も参照してください。
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」6章8〜10節、口語訳)
上掲の箇所でパウロは彼に向けられた非難に言及している可能性があります。もしもそうだとすれば、パウロは反対者たちから「そしられ」「悪評を受け」「人を惑わしている」者と見なされていたことになります(「使徒言行録」17章6節も参照してください)。さらにパウロは「人に知られていない」「死にかかっている」「懲らしめられている」「悲しんでいる」「貧しい」者とも見なされていました。これらの中傷の言葉に対してパウロは神様の大いなる「否」によって答えます。人間的な視点からすれば、あらゆることがすっかりだめになったようでした。しかし、神様が活動なさる時には「弱さ」が「強さ」に変わることもあるのです。
「だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章10節、口語訳)。
6章8〜10節は、福音がそれを聴く人々を二つのグループに振り分けていくものであることを私たちにはっきり示しています。実際、福音を聞いた人々の中にはパウロを褒める人もいればそしる人もいました(6章8節)。
パウロの言う「多くの人を富ませ」る富とは何でしょうか。霊的な富はこの世的な富よりも価値があります。霊的な富はこの世だけではなく死後の世界でも意味を持つものだからです。私たちがこの世から離れるときに携えていくものは信仰か不信仰かのどちらか一方だけです。キリストにおいて私たちはすべてをいただいています。それとは逆に、キリストなしの状態にいる場合には実は何も持っていないことになります。例えば「ルカによる福音書」12章21節、「エフェソの信徒への手紙」3章8〜9節、「フィリピの信徒への手紙」4章19節、また次の箇所を参照してください。
「わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」
(「コロサイの信徒への手紙」2章1〜4節、口語訳)
霊的な指導者が罪へ堕落するのは、次に述べる二つの理由から一般の信徒が罪へ堕落する場合よりもいっそう深刻な(そしてサタンにとってはとりわけ好都合な)問題です。
1)霊的な指導者の堕落は、その人物に任されている信仰者の群れも間違った道に引きずり込んでしまう結果を生みやすい。
2)霊的な指導者の堕落は、不信仰者たちが「キリスト信仰者なんて大したことないな」と意地悪く喜ぶ機会を提供してしまう。
このような危険が存在するため、パウロはキリスト信仰者たちが彼らの霊的な指導者やパウロ自身のために祈るように奨励し(「エフェソの信徒への手紙」6章18〜20節)、教会の指導者となる人間として誰かれかまわず適当に選んだりしないように訓戒しています。
「「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。わたしは、神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、おごそかにあなたに命じる。これらのことを偏見なしに守り、何事についても、不公平な仕方をしてはならない。軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」5章17〜22節、口語訳)。
「コリントの信徒への第二の手紙」6章11〜13節 自業自得
コリントの信徒たちに対してパウロがとった態度は命令ではなく訴えかけです。愛することは強制できるものではないからです。もちろん愛が生じるように誘うことはできます。しかし、愛するように一方的に命じたり決めたりはできません。
人間は自分で蒔いたものを後から自分で刈り取ることになります。しかも、これは何度でも起こりうるのです。このことを忘れてはなりません。不機嫌な態度や不信感をあらわにすることは新たな不信感を募らせることになるだけです。隠し立てをしない態度ははじめこそ危うげで中傷を受けやすく思われるものかもしれません。また、このような態度は弱さのあらわれとも受け取られがちです。しかし実際には逆に、策を弄して立ち回る態度こそが、そのように振る舞う人間の弱さを示しているのです。なぜなら、その人には物事に対して心を開いて向き合う勇気がないからです。
キリスト信仰者は常にオープンであるべきです。神様はすべてをお見通しです。たとえ人間をうまく騙せたとしても神様を騙すことは私たちにはできません。
「コリントの信徒への第二の手紙」6章14〜18節 間違った桎梏をなくして
試しに6章14節〜7章1節を取り除いてみると、この手紙のテキストは前後の文脈が淀みなく繋がります。そのためもあって、この箇所は後から付け加えられたものではないかという仮説もあります。当時の手紙の口述筆記は時間のかかる作業でした。例えば「ローマの信徒への手紙」の口述筆記はおよそ100時間を要したとも考えられています。当時の筆記用具は現代のそれとは比較にならないほど原始的なものでした。この点を考慮するとき、パウロの手紙にはこの箇所以外にも手紙の滑らかなつながりが失われているように見える箇所があるのも驚くには及びません。時間のかかる口述筆記では、ともするとテキストのあちらこちらで意外な展開を含むような文章を綴ることになりやすかったと思われるからです。
パウロは6章11〜13節を口述筆記させた後で、コリントの信徒たちが彼に対して心を開きやすくするためにいくつかの制限事項を設ける必要性を感じたのだとも考えられます。以前パウロはコリントの信徒たちに対して次のように書きました。
「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあろうか。もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」10章23〜33節、口語訳)
おそらくこの「コリントの信徒への第一の手紙」の箇所におけるパウロの助言の真意をコリントの信徒たちは誤解したのではないでしょうか。すなわち、この助言は異邦人キリスト信仰者がかつての偶像礼拝をキリスト教信仰と並行して行い続けてもよいという考え方を正当化するために誤用されたのではないか、ということです。
「牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。」と旧約聖書の「申命記」22章10節には命じられています。このような使い方をすると、牛よりも弱いろばが牛よりも多く苦しむ不自然な状態が生じてしまうからです。くびきはそれを課された二頭の家畜を同じ方向、同じ目標に向けて拘束します。それゆえ、キリスト信仰者とそうではない人とが終わりまで歩みを共にするのは不可能なのです。
しかし、パウロは「キリスト信仰者はこの世から離れて暮らすべきである」と言いたいのではありません。
「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。」 (「コリントの信徒への第一の手紙」5章9〜11節、口語訳)。
異邦人キリスト信仰者が彼の手紙の教えを曲解して以前の偶像礼拝に逆戻りする口実にするのではないか、とパウロは心配しているのです。
キリスト信仰者とそうではない人との間での付き合いを考えてみると、彼らの間の相違点はいつしか減っていくか、もしくは消えるのではないかという期待を抱かせる場合もあるでしょう。とはいえ、信仰者が不信仰者と付き合うことで不信仰者が神様の御許に導かれることになるかどうかは予断を許しません。それとは全く逆のことが起こる場合もあり得ます。なぜなら、私たち人間の自然な本性には神様を捨てて離れていく傾向があるからです。
こうした理由から、この「コリントの信徒への第二の手紙」6章14〜18節はキリスト信仰者の結婚にしばしば適用されてきた箇所です。すでに「コリントの信徒への第一の手紙」7章1〜6節でパウロは結婚についてより詳細に述べています。その箇所と今この箇所で述べられている考え方はとてもよく似ています。
パウロは一致(あるいは交わり)に関して各人が答えるべき五つのテーマを列挙しています。それぞれのテーマには二つの言葉が対をなしています。それらの間にあるのは一致ではなく、和解し得ない矛盾です。
1)正義と不義
2)光と闇
3)キリストとベリアル
4)信仰者と不信仰者
5)神の宮と偶像
「ベリアル」(6章15節)の元々は「無益」や「空虚」を意味するヘブライ語の言葉です(原語の「べリッヤアル」は「ベリー」(〜がない)と「ヤアル」(価値)の合成語)。ユダヤ教ではこの言葉はサタンを表す名前の一つとして使用されました。新約聖書でこの言葉が出てくるのはこの箇所だけです。
聖霊様はキリスト信仰者のうちに住まわれます。それゆえに、キリスト信仰者は「神の宮」なのです(「コリントの信徒への第一の手紙」3章16節、6章19節)。
「コリントの信徒への第二の手紙」6章16〜18節における旧約聖書の引用は例えば次の五つの箇所を合わせたもののようになっています。
1)「わたしは幕屋をあなたがたのうちに建て、心にあなたがたを忌みきらわないであろう。わたしはあなたがたのうちに歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう。」
(「レビ記」26章11〜12節、口語訳)
2)「わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。」
(「エゼキエル書」37章27節、口語訳)
3)「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。
その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。」
(「イザヤ書」52章11節、口語訳)
4)「わたしはわが強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたをもろもろの民の中から導き出し、その散らされた国々から集め、」「わたしがあなたがたをもろもろの民の中から導き出し、かつてあなたがたを散らした国々から集める時、こうばしいかおりとして、あなたがたを喜んで受けいれる。そしてわたしは異邦人の前で、あなたがたの中に、わたしの聖なることをあらわす。」
(「エゼキエル書」20章34、41節、口語訳)
5)「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。」
(「サムエル記下」7章14節、口語訳)
パウロは旧約聖書を自身の記憶に基づいて引用しています。彼はしばしば旧約聖書の多くの引用箇所を一つにまとめてもいます。パウロは旧約聖書のすべての巻物を携えて旅することができませんでした。また彼にはこのように高価な全集を所有することも叶わなかったことでしょう(「テモテへの第二の手紙」4章13節も参照してください)。当時の旧約聖書にはまだ現在の聖書のような章節分けもなかったので、パウロは引用した箇所を章節単位で示すこともできませんでした。
海外伝道の現場では「偶像」との関係について深く考察する必要に迫られます。古い宗教の桎梏は十分明確に断ち切るべきです。ところが、キリスト教自体に興味は持ってもなかなか洗礼を受けようとはしない人が多いのが実情です。なぜなら「洗礼を受けること」はキリスト教会への入り口であるだけではなく、それと同時に、それまでの異教をきっぱりと捨て去るという明確な意思表示でもあるからです。イスラエルの民が紅海を渡った奇跡の出来事もこれと関連して理解することができます。「コリントの信徒への第一の手紙」10章1〜11節を読んでみてください。
「偶像」をめぐるこの難問に関してキリスト教の宣教師たちに正しい知恵と力が与えられるように私たちは祈らなければなりません。
「コリントの信徒への第二の手紙」7章1節は内容的にこの箇所に含まれるものですが、便宜上、次の箇所の冒頭で説明することにします。