コリントの信徒への第二の手紙3章 キリスト信仰者は「キリストの手紙」です
「コリントの信徒への第二の手紙」3章1〜3節 推薦状
コリントでパウロの敵対者たちは他のキリスト信仰者たちから得た推薦状を提示しました。このような推薦状の利用法は初期のキリスト教会において一般的に見られました。新しい土地に来たキリスト信仰者は推薦状を持っていたおかげでそこのキリスト信仰者たちから「信仰の友」として受け入れられたのです。パウロ自身もこのような推薦状を書いています。例えば「ローマの信徒への手紙」16章1〜2節、「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜12節、「コリントの信徒への第二の手紙」8章22節、「フィリピの信徒への手紙」2章19節、「コロサイの信徒への手紙」4章7〜9節を挙げることができます。さらに言えば「フィレモンへの手紙」は手紙全体がそのような推薦状であるともみなせます。この手紙でパウロは、かつて主人の家から逃げた奴隷オネシモをその主人フィレモンが再び受け入れて寛大に取り計らってくれるように頼んでいるからです。また、アポロはプリスキラとアクラからの推薦状を携えてコリントを訪れています(「使徒言行録」18章27節)。
以上のことからもわかるように、パウロは推薦状を利用すること自体を攻撃しているのではありません。敵対者たちがパウロに反対するための武器として推薦状という慣行を悪用した点を批判しているのです。パウロ自身はコリントでは推薦状を必要としない立場にあります。なぜなら、コリント教会そのものが彼の伝道の仕事の結実であったからです。
パウロの敵対者たちは一体誰からの推薦状を携えていたのでしょうか。彼ら敵対者はユダヤ人でした(11章22節)。ですから、推薦状を認めたのはエルサレム教会、それも使徒たちのうちの誰か(例えばイエス様の弟で、当時のエルサレム教会の指導者であったヤコブ)であったとも考えられます。しかし、そうではなかった可能性もあります。というのは、パウロの敵対者たちはコリント教会からも推薦状を得ることを望んでいたからです(3章1節)。もしも彼らが誰か使徒からの、あるいはエルサレム教会の指導者たちからの推薦状を携えていたのだとしたら、彼らはとくにコリント教会の推薦状を必要とはしなかったはずです。
「パウロはエルサレム教会を本当に支援する意思があったのか」という問題も提起されています(9章1〜15節)。エルサレム教会を援助することはパウロの仕事のいつもの流儀とは異なっているとも考えられるからです。
また、推薦状はたしかにエルサレム教会から与えられたものだが、元来の目的とはちがう正しくない目的のために悪用された、という可能性ももちろんあります。
しかし結局のところ最も蓋然性が高いと思われるのは、パウロの敵対者たちがエルサレム教会のユダヤ主義者の一団であったという見方です。この点では「使徒言行録」15章24節も参考になります。彼らユダヤ主義者は例えばガラテアなど他の地方の教会でもパウロの伝道の仕事を似たようなやり方で妨害しようとしたからです。
それでも、推薦状を与えた者が誰かについては確実なことは言えません。
「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章1節、口語訳)
上節の「またもや」という言葉はパウロが以前書き送った(今は失われた)書簡いわゆる「涙の手紙」を指しているのかもしれません。パウロは手紙では自分の真意が伝わらずにしばしば誤解を受けてきたことを自覚していました(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節)。ペテロもパウロの書き方のある種の「とっつきにくさ」について次のように書いています。
「また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」
(「ペテロの第二の手紙」3章15〜16節、口語訳)。
それゆえ、パウロは書簡で自分の使徒としての権威を強調しすぎる印象を読者に与えないように慎重な態度をとりました(5章12節、10章12、18節)。
パウロは最初の十二使徒の一員ではありませんでした。それを敵対者たちが彼の使徒としての正統性を否定する根拠にしていることをパウロはよく知っていました。それゆえ、パウロは人間が書いた推薦状によって競い合うことはせず、かつてダマスコへの旅の途上で直接神様から使徒として召されたことを自分の使徒としての伝道活動の根拠としました(10章18節、「使徒言行録」9章15節)。
コリントにおけるパウロの最上の推薦状はコリント教会自体でした。彼がその設立に関わったからです。話は変わりますが、例えばキリスト教伝道に携わっている神学者は、神学部での優秀な成績と実践的な伝道の経験とのうちのどちらをより高く評価するものでしょうか。信仰に関わる仕事は、もしもそれに実践が伴わないならば、習得することがかなわないものではないでしょうか。
「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章3節、口語訳)
上節の「石の板」はモーセの律法を指しています。パウロは旧約と新約の関係について後ほど3章7〜18節でより詳しく扱っています。
すでに旧約聖書の預言者たちは、神様がその御心を律法の石の板にではなく人々の心に書き込む「時」がいつか到来することを予告していました。
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。」
(「エレミヤ書」31章33節、口語訳)「それゆえ、言え、『主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える』と。彼らはその所に来る時、そのもろもろのいとうべきものと、もろもろの憎むべきものとをその所から取り除く。そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。」
(「エゼキエル書」11章17〜20節、口語訳、「エゼキエル書」36章26〜27節も同様の内容です)
「コリントの信徒への第二の手紙」3章4〜6節 御霊と文字
パウロは彼自身が伝道しているのではなくキリストが彼を通して伝道なさっていることを確信しつつ強調しています。
「もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章5節、口語訳)
この節は2章16節の「このような任務に、だれが耐え得ようか」という質問への答えです。福音宣教の使命にふさわしい人間は誰もいません。しかし、神様は全能なるお方なので、罪深い人間にこの使命を担う権能を授けて、そのために必要な力を備えることもおできになります。
私たちは自らの力によっては誰に対してであれその人がイエス様を信じるようにはできないことを決して忘れるべきではありません。信仰が生まれること、新たに生まれること(「ヨハネによる福音書」3章3節)は常に神様おひとりによる御業なのです。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章6節、口語訳)
この節の終わりの部分は聖書の中でもしばしば誤解されている箇所の一つでしょう。例えば、以下のような二通りの誤解があります。
ある人たちの説明によれば、パウロはここで(旧約聖書の)律法の二種類の解釈について述べています。それらは「文字通りの解釈」と「より自由な解釈」です。そして、文字通りの解釈は間違っており、より自由な解釈は正しいとされます。その際、イエス様も旧約聖書を新しいやり方で解釈なさった(「マタイによる福音書」7章28〜29節)ということが根拠として引き合いに出されることがよく見られます。ところが実際には、イエス様も(「マタイによる福音書」5章27〜32節)パウロも(「ローマの信徒への手紙」3章19〜20節)「文字通りの解釈」の支持者でした。それとは対照的に、彼らの時代のユダヤ教のほうこそ聖書に「より自由な解釈」を施していたのです。
この節についてのもう一つの間違った解釈は、聖書を「文字」と捉えて「御霊の内なる導き」との相違を強調します。ところが、聖霊様が「文字」すなわち神様の御言葉の啓示に反する活動を展開されるなどと新約聖書は教えません。聖霊様はイエス・キリストを明示なさる方です。しかしこの啓示されたキリストとは、他でもなく御言葉に記されている通りのキリストなのです。聖霊様についてイエス様は次のように言っておられます。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
(「ヨハネによる福音書」14章26節、口語訳、「助け主」とは聖霊様のことです)
それでは「コリントの信徒への第二の手紙」3章6節の正しい解釈は何なのでしょうか。実はここでパウロは律法と福音について教えているのです。「文字」すなわち律法は殺します。なぜなら、律法は罪を誰も否定することができない「目に見えるもの」にするからです。罪の報いは死です(「ローマの信徒への手紙」6章23節、「エゼキエル書」18章4節)。イエス様だけが命を授けてくださるお方です。イエス様がすべての人間のすべての罪を肩代わりして十字架で罰を受けて死んでくださったことが、私たち人間の持ちうる唯一の希望なのです。
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」
(「ローマの信徒への手紙」3章21〜26節、口語訳)。
「コリントの信徒への第二の手紙」3章6節とその解釈をめぐる議論は「聖書の箇所は決してその文脈から分離して解釈するべきではない」という聖書解釈の基本がいかに大切かをあらためて私たちに思い起こさせてくれます。以下の3章7〜18節を読めば、最後に提示した解釈が正しいことがはっきりすることでしょう。
「コリントの信徒への第二の手紙」3章7〜11節 旧約に逆戻りしてはいけない
「キリストは旧約の律法の一部に過ぎない」とパウロの反対者たちは考えていました。彼らによれば、キリスト信仰者たちはモーセの律法の諸規定に従うべきなのです。「モーセに帰れ!」キャンペーンを彼らは展開していたとも言えましょう。
現代の異邦人(すなわち非ユダヤ人)キリスト信仰者には、そもそもなぜこのような問題が提起されるのか理解しがたいのではないでしょうか。しかし、これは最初期のキリスト教信仰の根幹に関わる大問題の一つでした。この問題はとりわけ「使徒言行録」で最初の異邦人たちがキリスト教信仰者となった時点で表面化しました。異教からキリスト教に改宗した異邦人たちはキリスト教徒になるだけではなくユダヤ人にもならなければならないのかどうかという問題を教会として解決しなければならなくなったのです。
「キリスト教に改宗した異邦人に対しても旧約聖書のモーセの律法に従うことを要求するべきである」というのがユダヤ主義者たちの言い分でした。要するに彼らはキリスト教をユダヤ教への単なる橋渡しとしか見ていなかったのです。もちろん彼らはイエス様の教えがユダヤ教を刷新するものであったことは認めていました。それでも彼らにとってキリスト教とはユダヤ教内における宗教改革運動の一つに過ぎなかったのです。
パウロが提唱した別の見解によれば、ユダヤ教はすでに過去のものとなっています。キリストは「律法の終わり」であり(「ローマの信徒への手紙」10章4節)、それゆえに異教からキリスト教に改宗した人々に対してはモーセの律法の遵守を要求するべきではないのです。パウロはユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人たちに対してさえモーセの律法の遵守を要求しませんでした。パウロの敵対者たちは「パウロはユダヤ教からキリスト教への改宗者が律法に従うのを禁じている」と偽りの非難を浴びせました。例えば、次の引用箇所からパウロの反対者たちの偽りの主張の内容がわかります。
「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上に、ギリシヤ人を宮の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。
(「使徒言行録」21章28節、口語訳、「この人」とはパウロのことです)
西暦40年代の終わりに(おそらく48年に)エルサレムで開かれた使徒たちの会議はこの問題に関して「律法から自由な福音」の勝利を決定づけました(「使徒言行録」15章1〜29節)。しかし、ユダヤ主義者たちは使徒会議の決議に納得せず、その後も彼らの主張に基づく宣教活動を続けたのです。
「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから。」
(「使徒言行録」15章19〜20節、口語訳)
上記の使徒会議の決定事項は単に最初の一歩に過ぎず、その後はキリスト教をユダヤ教に近づける努力をさらに重ねていくべきである、といったことを彼らは考えていた可能性があります。
それに対してパウロは、なぜキリスト信仰者は旧約(すなわちモーセの律法)に逆戻りすることなく新約にとどまるべきであるか、コリントの信徒たちにその理由を説明しています。
3章7〜18節においてパウロは「出エジプト記」34章29〜35節に述べられている出来事を引き合いに出します。すなわち、山の上で律法の石版を受け取った後でモーセの顔が光を放ち始めたのです。
律法は石版に彫られていました(3章7節、「出エジプト記」31章18節、32章15〜16節)。旧約の職務は「死の務」(3章7節)であり「罪を宣告する務」(3章9節)でした。律法には「人は律法の行いなしでも赦される」という考え方は含まれていません。律法それ自体は聖なる善いものです(「ローマの信徒への手紙」7章12、14節、「ガラテアの信徒への手紙」3章19〜24節)。しかし、人間は律法を遵守することができないので、結果的に律法は人間を裁いて死に至らしめるのです(「ガラテアの信徒への手紙」3章10〜11節)。
しかし今や「律法の時代」は過ぎ去りました。キリストが「福音の時代」を始めてくださったのです。上述の「出エジプト」の箇所でモーセの顔の栄光が次第に失われていったことも律法の時代が消えゆくものであることを暗示しています。キリストは全く新たな時代を開かれたのです。
キリストの輝きは「永存すべきもの」(3章11節)であり、しかも、律法の栄光よりも「はるかにまさった栄光」(3章10節)を持つものでした。それはちょうど眩しい太陽の光がロウソクのともしびを影に変えてしまうようなものでした。
新約は神様御自身が契約なさったものなので旧約を隅に退けることができるのです(「ガラテアの信徒への手紙」3章13〜14節)。救いの歴史は新たな段階へと移行しました。ですから、今はもう過去に束縛されるべきではありません。
今までの説明で「ガラテアの信徒への手紙」からの引用が何度もあったことからもわかるように、コリントの教会を揺るがしたのと同じ問題がほぼ同じ時期にガラテアの教会でも起きていました。
「コリントの信徒への第二の手紙」3章12〜18節 新約の栄光
キリスト教徒もユダヤ教徒も共に旧約聖書を聖典としています。しかし、イエスが旧約聖書でその到来が約束されていたメシア(すなわちキリスト)であることを正しく理解できるのはキリスト信仰者だけです。
イエス様は御自分について次のように言っておられます。
「そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。(・・・)それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。」」
(「ルカによる福音書」24章25〜27節、44〜48節、口語訳)
なぜ大多数のユダヤ人はイエス様を旧約聖書の中から見つけることができないのでしょうか。それは「おおいが彼らの心にかかっている」(3章15節)からであるとパウロは言います。彼らがキリストへと方向転換しないかぎり、この「おおい」は取り去られることがありません。しかし、このような刷新は人間の力では誰にも実現できません。それが可能にするのは聖霊様の御業のみです。
終わりの時には神様がこの「おおい」をイスラエルの人々から取り除いてくださるので、イスラエルの民すなわち大部分のユダヤ人が救われることになります(「ローマの信徒への手紙」11章23〜27節)。しかし、これが実現していくのをパウロは見ることがありませんでした。
「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章14節、口語訳)
この節は「古い契約」の書物すなわち旧約聖書について語っています。念のためにここで「旧約聖書」や「古い契約」はユダヤ教ではなくキリスト教の用語であることを指摘しておきます。ユダヤ人たちにとって旧約は今もなお有効な契約です。そして、依然として彼らは新約を認めようとはしません。
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章17節、口語訳)
この節にはキリスト教の中心的な教義である三位一体の教えとの関連を見ることができるでしょう。新約聖書には「三位一体」という言葉そのものは登場しないものの、その内容がはっきりと表現されているのは明らかです。「使徒言行録」20章28節や「ローマの信徒への手紙」8章9〜11節などがその例です。
もう一つ付け加えると、この節でいう「自由」とは現代人が考える意味での自由ではなく「律法や罪や死からの自由」を意味しています。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章18節、口語訳)
たとえキリスト信仰者であったとしても、私たち人間には神様やその御心を完全に理解することはできません。私たちも神様の真理を鏡に映すようにして見ているのです(「コリントの信徒への第一の手紙」13章12節)。なお、当時の鏡は磨かれた金属に過ぎず、現代の鏡よりもはるかに不明瞭な姿を映し出すものでした。
この節の「栄光から栄光へと」という表現は、栄光すなわちキリストにあずかっている者だけが主なる神様の栄光をいただけることを示唆しているものと思われます。この箇所はキリスト信仰者が神様の栄光をより深く理解できるように成長していく過程を描いている、と解釈する人たちもいます。しかし、人が「主の栄光」の究極的な理解に達するのは栄光の御国が到来する時まで待たなければなりません。参考箇所として「コリントの信徒への第一の手紙」2章10節と次の「箴言」の箇所を挙げておくことにします。
「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、
いよいよ輝きを増して真昼となる。」
(「箴言」4章18節、口語訳)