ローマの信徒への手紙5章 二人のアダム

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロは、今までの二章にわたって信仰による義について語ってきました。単純ではあるが深いやり方で、彼は一人一人に「神様の御許への道」を指し示しました。人は皆、神様をないがしろにしており、このことはユダヤ人も異邦人も変わらないが、キリストのあがないの血によって罪の赦しをいただけるのです。義についての教えの根幹を提示した後で、パウロは私たちに「アブラハムの信仰」を思い起こさせます。神様のことを無視してきた者をキリストのゆえに義としてくださる方を、アブラハムは信じました。このようにしてパウロは、 旧約聖書を通して神様が人間に与えてくださった一連の約束と彼が伝えている福音とを堅く結び付けたのです。さらに彼は「信仰による義」とはどういう意味かを明示した後で、「義とみなされること」がどのような結果や効果をもたらすのか、具体的に話をつなげて行きます。

神様のくださる義によって私たちがいただけるものとは? 5章1〜5節

キリストが私たちにくださった賜物としての義はどのようなものでしょうか。それは、神様が無言のまま首を縦に振ることで私たちは罪の呵責から解放されはするものの、その一方では孤独のままにとり残されるようなものではありません。恵みにより私たちは罪を赦していただいたので、神様に対する私たちの反抗は終わっています。この戦いの後に、神様との和解と平和の時が来ました。しかもこれは感情だけの問題ではなく、人間と神様との間の根本的な敵対関係が実際に終焉したことを意味しています。私と神様との間の関係は今では根本的に修正されているのです。もしも神様の御言葉自体が私たち皆にこのことを証していなかったとしたら、いったい誰がここまではっきりと言い切ることができるでしょうか。私たち人間は神様との関係をひどく乱してしまったにもかかわらず、御子キリストがそれを御自分の血によって整えてくださったおかげで、私たちと神様との関係は正常化されました。まさにこのゆえに、私たちは今、神様の輝く栄光にあずかる希望をもつことができます。

こうして私たちは神様の善き御手に守られて生きて行く時に、困難なことや辛いことについても感謝する大切さを学んでいきます。これらの試練を通しても、神様は私たちを教え導いてくださるからです。それによって忍耐が生じ、忍耐から試練に耐える力が生じ、そこからさらに希望が生じてきます。このように神様の御国に属する者たちは、この世の人々には到底理解できない特別な生き方を学ぶことができます。

「神様は善い存在か悪い存在か」という質問に対して、一般的に人々は彼ら自身が置かれてきたこの世での境遇に基づいて判断するものです。この世がその暗い面を彼らに見せつける場合には、神様がその諸悪の根源であるとみなされます。たとえば飢饉や苦しみについて神様を責め立てるのです。しかし、神様の御国に属する者たちはそういうのとは異なるタイプの人生教育を受けます。人は病床に臥せっていたり苦しみの只中にあったりする時にこそ、弱く罪深いその人を担い続けてくださっている神様に対して自ずと純粋な感謝の気持ちで満たされる、ということがよくあります。これは、その人がどのような苦しみの中でも師なる神様の慰めに満ちた御手を身近に感じる術を習得しているからです。とはいえ、この問題について公に話すことは控えめにしましょう。

というのは、苦しみの問題は書斎で学べることではなく、神様から受ける人生の学校で徐々に習得して行くべきことがらだからです。

神様の愛は、本来ならその愛に値しない者に対して向けられます 5章6〜11節

この箇所は理解が困難な7節を含んでいます。しかし、この節も全体の構成の中で捉えることにより理解できるようになります。「善い」と「義なる」という言葉はここでは同じ意味で使われていると思われます。この節以降は次のように理解できるでしょう、「誰か義なる人のための身代わりとして死を選ぶ者が見つかる可能性はある。あるいは、善い人(または、善いこと)のために死ぬだけの勇気をもっている人がいるかもしれない。しかし、 私たちがまだ罪人だった頃、キリストが定められた時に、神様をないがしろにしている人々のために死んでくださったことを通して、神様はその愛を私たちに示してくださった」。

基本にある考え方は明瞭です。人間というものは悪人を愛することをまったくしませんし、たとえ善人のためであっても自らの命を犠牲にするようなことはめったにありません。ところが、神様はそれとはまったく反対のことをなさいます。すなわち、 神様をまったくないがしろにしていた私たちを、 まず率先して神様が愛してくださったのです。そして、その御子の命を、神様に背を向けてきた人々のために犠牲として捧げられたのです。この点に関して正確な理解を期しつつ、これらの節から福音を注意深く聴き取るのが大切です。

私たち人間はどこか心の片隅で、神様はその愛を受けるに値する者だけを愛してくださるはずだ、と考えるものです。最低条件として、まず自分自身の生活を整えなければならない、その上でなら徐々に神様を信じるようにもなれるかもしれない、といったように。まず人間の側から真心を持って神様を「命の主」として受け入れなければならない、そうすれば、神様のほうでも私たちを愛してくださるようになる、などと言う人も多くいます。ところが、ここでパウロは正反対のことを述べています。真の神様について無知だった私たちのことを、まず神様のほうから愛してくださったのだ、というのです。神様はその愛を受けるにふさわしいほどまで聖くなれた人々だけを愛される、という考えは痩せ細った道徳主義の産物にすぎません。それでは、良心の呵責に苦しむ人を誰も助けることができません。

私たちキリスト信仰者はパウロが教えている通りに信じます。実に、神様の愛の途方もない広大さは、神様をないがしろにする人々を神様のほうから率先して愛してくださったところに示されているのです。御子イエス•キリストのゆえに私たちの罪をすべて帳消しにした神様の愛は、私たちに向けて今やいっそう大きく燃えあがっています。キリストの十字架上の死という「贖いの御業」の以前にも、神様は私たちを深く愛しておられました。その愛は御子を受苦の道へと向かわせるほど偉大なものでした。そして、この贖いはキリスト信仰者において実を結びました。神様の愛の働きによって、私たちキリスト信仰者が神様を誇りとし、神様の善き御業を誉め称え、皆に伝道していくようになったからです。

私たち自身の善い行いや信仰について、パウロはここでは一言も述べていません。それにはもっともな理由があります。人間の善い行いと信仰は今回取りあげた事柄とは何の関係もないのです。これらについては、かなり後になってから12〜15章で出てきます。その箇所でパウロは、「神様のもの」として贖われ買い取られた者はもはや好き勝手な生き方をしてはならない、ということをきちんと教えています。

二人のアダム 5章12〜21節

パウロは信仰による義についてさらにはっきり教えるために、アダムとキリストについて話し始めます。アダムは「古い人」、キリストは「新しい人」にあたります。ここでは、福音が最高の素晴らしさで示されています。

アダムは最初の人間であり、同時に全人類の代表者でもあります。アダムが罪に陥った時、彼と共に全人類の希望もまた潰えました。すべてはだめになりました。この出来事の後で、人は皆それぞれ、始祖であるアダムの負の遺産として罪と死とを受け継ぐことになりました。「原罪」は人がアダム以来代々継承してきた罪のことです。私たち人間は罪に陥りやすい傾向があるゆえに正しい方向へと指導矯正されなければならない弱い存在ですが、それだけにはとどまらず、私たち人間は誰でも、その歴史の始まりから絶え間なく神様に対して強く反抗し続けてきました。それはちょうど、人が皆、今までもアダムの子孫であったし、またこれからもそうである、ということと関係しています。

宗教改革者マルティン•ルターによれば、人間は神様に背を向けて生まれてきます。罪は一人の人を通してこの世に入り込みました。それをきっかけとして、死が人々の日々の生活を脅かす圧制的な存在となりました。罪からも死からも自分の力で解放される者は誰もいません。このように、私たちが生まれた時に受け継いだ贈り物(原罪)は実にひどいものです。教会で幼児に洗礼を授ける理由の一つはここにあります。ルターが幼児の洗礼式に友人たちを招く時に用いた「小さな異邦人の洗礼式」という表現は実に的確です。一人の人間(アダム)の罪の堕落は裁きと死とをすべての人間の上に持ち込みました。このすべての人間の中には、だっこされている赤ちゃんもお年寄りも、男も女も、健康な人も病人も、皆一様に含まれています。

パウロはここで、キリストが人類にとっての「新しいアダム」である、と言います。キリストにあって、すべて過ぎ去ったこと(「古いアダム」の罪の堕落がもたらした惨状)はすでに終わっています。そして、キリストにあって、神様の創造および贖いの御業(「新しいアダム」がもたらした罪の赦し)は瑕のない完全なものとなっています。

一人の人間(古いアダム)の罪の堕落はその子孫全体(すなわち、人類全体)の心を汚し、彼らを神様に反抗させるという甚大な結果を招きました。しかし今や、 一人の人間(新しいアダム)が父なる神様に対して徹底的な従順を貫いてくださったおかげで、人間皆が神様の恵みに与ることができるようになりました。

パウロがここで「皆に」と言っているのは口先だけのことではなく、本気でそう書いているのです。アダムが罪に陥り、その結果として、アダムの子孫である私たちにまで罪と死という厄介な遺産を残してしまいました。しかしその時点では、私たちは罪についても義についてもほとんど知りませんでした。それと同様に、キリストが十字架で「皆に」、すなわち全人類のために神様と人間との間の和解をもたらしてくださったのですが、その時点では私たちは神様の愛についても知りませんでした。

このことは私たちに慰めを与えます。私たちは、主がくださる恵みを自分のような者がいただいてよいものかどうか、躊躇してしまうものです。そう悩んでいるあなたに言いますが、恵みはすべての人のためのものなのですから、もちろんあなたのためのものでもあります。あなたのためにも、ゴルゴタの十字架の死を通してイエス様が罪の赦しの恵みを用意してくださったのです。そして、イエス様の死の犠牲を通して世界全体が天の父なる神様と和解させていただいたので、あなたもまた天のお父様と仲直りしているのです。

それゆえ今、私たちは皆、この大いなる神様からの賜物を無視したり侮ったりしないように、気をつけなければいけません。これほどまでに偉大な神様の愛を足蹴にするようなら、もしも永遠の命をいただく代わりに地獄の火の中で永遠に苦しむことになる場合には、それは自分自身の責任となります。自分に恵みをいただくためには、私たちは何も行う必要はありません。なぜなら、すでにキリストが十字架の死によって罪の赦しの恵みを用意してくださっているからです。

この箇所を閉じるにあたり、パウロは律法の意味を巡る問題に解答を与えます。キリストのゆえに罪が赦されるのなら、なぜそれに加えて、モーセの律法や神様の戒めが必要とされたのか、という問題に対する答えは明瞭です。律法の目的は罪を重大なものとして提示することでした。人々を責め、良心の呵責へと導き、神様の御前で罪深い存在にする、というのが今も変わらない律法の使命なのです。しかし一方では、律法によって、誰一人、絶望へと追いやられてしまわないように注意しなければなりません。そして、この自分自身への絶望から私たちを守ってくれるのが、キリストの恵みなのです。自分の弱さと罪深さを知っている人たちがいるところならどこであっても、律法はその役割をすでに果たしています。その時点で必要なことは、律法によって罪人としての自覚をもった人たちに対して神様の愛の素晴らしさを伝えることです。たとえ私たちの罪がどれほどひどいものであったとしても、キリストの十字架はそれらすべての罪が要求する罰という負債を十分に返済する力を持っています。「罪が大きくなったところでは、恵みも満ちあふれるものとなりました」(5章20節)、と聖書は教えています。この御言葉が該当しなくなるほど絶望的なケースは存在しません。人間が多くの悪い行いをすることはたしかにありえることです。しかし、キリストの十字架の血によって贖えなくなるようなことは決して起こりません。


第5回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」5章

パウロはアブラハムが信仰を通して神様に受け入れていただけたことを示した後で、私たちが信仰の義を通して神様との平和をいただいており、死の支配下から命の支配下へと移っている、と断言しました。これは苦しみが終わるという意味ではなく、キリストにあって命をいただくという意味です。

1)パウロは「苦しみを誇る」と言っています。これは多くの人々の考え方とは正反対の考え方です。パウロはこれによって何を意味しているのでしょうか。苦しみや困難の只中にいる時に、私たちは感謝することができるでしょうか。また、どのように感謝できるようになるのでしょうか。

2)神様の愛は本来ならそれをいただく資格が無いはずの人々に対して向けられている、とパウロは強調します。福音のこの考え方を私たちは自分に対しても当てはめることができますか。

3)本来ならいただけるはずのない神様の愛が私たちに向けられています。ところで、私たちもまたこの愛を他の人たちに分け与えていくことができるでしょうか。「あなたがたは自分を愛してくれる者を愛したとしても、どれほどの感謝に値しましょうか。罪深い人でさえ自分を愛してくれる者のことを愛しているでしょう。自分によくしてくれる者によくしたとしても、どれほどの感謝に値しましょうか。罪深い人でさえ同じことをしているでしょう」(「ルカによる福音書」6章32〜33節)、というイエス様の御言葉を参照してください。

4)パウロによれば、一人の人間(アダム)を通して死はこの世に入ってきました。罪に対する罰としてすべての人が死ぬようになったのです。小さな子どもも罪深い存在であり、それゆえ、生まれたばかりであっても神様の御業である洗礼を必要としている、ということを説明するために何か別の根拠が必要でしょうか。

終わりのメッセージ

古いアダムはあいもかわらず

古いアダムは断食についての話を耳にしました。彼はフッと笑って、慣れた素振りで身をかわしました。そして、またしても傷を負わずに済みました。しかもその際、彼は一見するとキリスト教的な理由を持ち出したのです。

キリストの復活を祝するイースターに先立つ時期である受難節は「断食の時期」とも呼ばれます。十分な栄養が摂取できない時代に、断食はイエス様や使徒たちや他のキリスト信仰者たちにとって必要なことでした。 「でも、高い生活水準の世界に住んでいる私には関係のない話だね」(アダム)。

十字架にかかったイエス様は渇いた口で、「私は渇く」、と言われました。 「でも、私がコーヒーを飲む習慣については、誰にも文句なんか言わせないぞ」(アダム)。

イエス様が大祭司の尋問を受けていた時には、鶏の鳴く声が唯一の音楽でした。 「ステレオでお願いね」(アダム)。

救い主はあざけられ暴力を受ける前に、みすぼらしい衣を着せられました。 「今流行の服以外を着るなんて、考えられない」(アダム)。

朝早く聖書を読むのは、もちろんよいことです。 「ありがとう。でも、新聞の方がもっと興味深い」(アダム)。

イエス様は御自分を捕らえに来た敵対者たちに向かって、落ち着いて話されました。 「私が呪いの言葉をぶつける相手は、そうされるのが当然の奴らなのさ」(アダム)。

必要とする人々に自分のお金を定期的に分け与えるのは、道理にかなっています。 「自分が心から喜んでお金をあげられるようになる日を待つとしよう」(アダム)。

どうして、ほかでもなくまさに私が節制して生きて行かなければならないのでしょうか。 「私は恵みによって救われているんだからさあ(そんなこと必要ないよね)」(アダム)。

レイノ・ハッシネン
(一部変更しました。訳者)