ヨハネの黙示録9章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

第五のラッパ 9章1~12節

 第五の天使がラッパを吹きます。ヨハネは天から地に落ちた星を見ます。これは悪魔そのものを指していると思われます。「イザヤ書」には空から落ちた「明けの明星」が出てきます(14章12節)。この星はバビロンの王だけではなく、手下たちと共に下に投げ落とされた悪魔のことを意味している、と古くから考えられてきました。それからヨハネは神様の敵に「深淵の鍵」が与えられるのを見ます。「与えられた」という受動態は「神様の働き」を示しています。すなわち神様が悪魔にその鍵をお与えになったことを意味しています。「神様の悪魔」という表現を用いたルターは正しかったのです。結局のところ、悪魔は自分の権力を持ってはいないからです。悪魔は神様が定められた限度内で活動します。神様は全能です。それゆえ悪魔の活動も神様が実現を許可なさることと妨げることとに左右されます。

 聖書は世界を象徴的に三つの層に分けています。上には天国と神様の御住い、地上には生きている人間たち、地下の深淵には悪の巣窟と神様の敵の王国があります。天から落ちた星は深淵を開いて悪の諸力を外部に開放してしまいます。太陽の光を覆う煙とイナゴとは地上で悪が猛威を振るう様子を描写するものです。4節では、悪魔の活動には神様のお定めになった限界が設けられていることがふたたび示されています。すなわち神様は御自分に属する人々を悪魔の攻撃から守ってくださるのです。「印を受けている人々」、すなわち「神様のもの」である人々に触れることが今の悪魔には許されていません。

 イナゴが五ヶ月間跳梁跋扈して人々に苦痛を加えることが許された、とヨハネは聞きます。「五ヶ月」という期間はイナゴに与えられている時間が限定されていることをあらわしています。いつイナゴが暴れ出すのか、いつ騒乱が収まるのかは神様が決めておられることです。悪には神様がお定めになった時間が与えられています。神様は全能であり、世界の出来事は神様の決定に基づいて進行します。

 人々はイナゴの攻撃で苦しめられます。それでも人々は悔い改めて神様に助けを求めません。彼らはただ死を望むばかりです。しかし死は彼らに与えられません。人類に降りかかる悪には、それでもなおよい目標があります。神様が人々を様々な方法で揺り動かされる目的は、それによってできるかぎり多くの人が活ける神様や救いを見出すようになることです。おそらくまさにこうした理由から、神様は人々がこの段階では死なないようになさるのでしょう。死とは、「恵みの時」すなわち罪を悔いイエス様を信じることがまだ可能な期間が終わることを意味します。神様は人々が救い主への信仰をもたないまま死ぬことを望まれません。

 7~10節でヨハネは彼が目にしたイナゴがどのようなものかを描写します。その形状に現代の戦車や戦闘機の象徴を読み取る人々がこれまでいました。ヨハネが幻の中で現代兵器による戦争を目撃したというのは、ありうることです。もちろん悪魔は滅びをもたらすためにその活動手段としてありとあらゆることを利用するでしょう。しかしいっそう真実に近いと思われる解釈は、イナゴはイエス様の再臨の前に世界を騒乱に陥れる悪魔的な諸力をあらわしている、というものです。それらの力は強大でそれゆえ恐るべき悪魔の手先であり、世界を破壊し地上の住民に苦痛を与え、あらゆる悪巧みを仕組んできます。そうすることで人々を神様からできるかぎり遠ざけてしまおうとするのです。それらの力とは具体的には思想であったり、支配者であったり、他の諸力であったりします。悪魔はそれらを神様や神様に属する人々に対する戦いに利用します。神様が容認なさる範囲において、これらの諸力は世界に争乱を巻き起こすことができます。

第六のラッパ 9章13~19節

 第六の天使がラッパを吹きます。ヨハネはこの世の終わりでまだ何が起きるのかを目にします。四人の天使が解き放たれて、人類の三分の一が死にます。この数字が象徴的なものであるかどうかはわかりません。ともかくもイエス様の再臨に先立つ嵐で非常に多くの人間が死ぬのはたしかでしょう。おそらく四人の天使は悪魔の使いなのでしょう。天使たちはユーフラテス川の向こう側からやってきます。昔の人々にとって、この川は恐るべき境界線でした。その向こう側には、自分たちの側のなじみ深い世界を脅かす多くの民族が控えていました。「ユーフラテス川」は象徴的に理解することができます。それは悪を描いているのです。その悪から「滅びをもたらす者たち」がやってきます。

ヨハネはおびただしい数の騎兵や馬を見ます。私たちの計算に従えば、それは二億に相当します。現代世界においてこれほど多数の軍隊でも実際に存在しています。例えば中国の国民軍にはほぼこれに相当する数の兵士が所属しています。それはともかく、世界に争乱と滅びをもたらす巨大な悪の力をヨハネはこの数字を通して描いている、と理解するのが正しいと思われます。ここでもヨハネが描く騎兵隊の中に現代の戦争兵器に通じる要素を見出すことができます。とはいえ、ヨハネが戦車や戦闘機を描写しているとは断言できません。むしろヨハネは滅びをもたらす者たちの様子がどれほど恐ろしげで強大かをあらわしているのだと言えるでしょう。それらは悪魔に仕えて世界を滅ぼす力を有しており、そのせいでヨハネは恐ろしさのあまり気が動転しています。前に登場したイナゴと同様に騎兵隊もまた悪魔の使いだったのです。思想、群集、支配者、あるいは国家は、それらが悪魔の奴隷になり下がる場合には、ヨハネが騎兵隊について描写したことを実行に移すこともあるでしょう。

悔い改めない人々 9章20~21節

 この二節に込められたメッセージは衝撃的です。神様は艱難を人類に与えることで、結果的には彼らにとって最善となることを実現しようとなさいます。神様は人類を揺さ振られます。それは、多くの人が間違った道から方向転換し、命を宿さない偶像ではなく活ける神様を見出し、「最後の日」に神様の怒りから救われるようになるためなのです。ところがどうでしょう。人々は神様の厳しい警告に耳を貸さず、神様をないがしろにした生活を続けています。人間はこれほどまでに心をかたくなにしてしまうものなのでしょうか。しかし今の時代、実際にそのような状態になっているのを私たちは目の当たりにしています。例えば環境汚染、増大する地球上の艱難、ひどくなっていくばかりの戦争といった厳しいやりかたによって、神様は人類を罪のまどろみから覚まそうとしています。それでも人々は神様を無視して生活しています。彼らは神様の御前で悔い改めて生きるどころか、逆にさらに深い不義の生活へと落ち込んでいきます。