ヨハネの黙示録8章

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

嵐の前の静けさ 8章1~5節

 ついに第七の封印が開かれる時が来ました。ところが今までの六つの封印を解いた時とは異なり、今回は何も起きません。天国は完全な静寂に包まれたまま半時間が経過します。おそらくこの静けさは待機をあらわしています。天国にいる者たちは、次に何が起きるか息をひそめて見守っています。神様の裁きがもうすぐ下されることを彼らは知っており、静かに裁きの時を待っているのです。文字通り「嵐の前の静けさ」です。

 この静寂が止んで、ヨハネは七人の天使を見ます。それからさらにもう一人の天使を目にします。この第八の天使は香炉をもっており、香を聖徒たちの祈りに加えた、とヨハネは語ります。これと同じことがすでに前にも述べられています(「ヨハネの黙示録」5章8節)。「聖徒たち」とは地上で生活している「神様に属する人々」のことです。天使は私たちの祈りにかぐわしい香を混ぜます。それから、私たちの祈りは神様の御許へと昇っていきます。これは、私たちの祈りが天国で聴かれることを私たちに保証する描写です。たとえ私たちが下手に祈ったとしても、神様の天使は私たちの祈りに香を加えます。そして、この香が私たちの祈りを神様に受け入れていただけるものにします。

 それから天使は香炉を祭壇の火で満たし、地上に投げ入れます。すると雷鳴が鳴り響き、稲妻が光り、大地が震えます。この天使の行為は、七人の天使がラッパを吹いて世界が揺り動かされる時が間近に迫っていることを示しているのでしょう。香炉を投げる行為はふたつのことを想起させます。すなわち、神様に属する人々の祈りが聴き届けられていることと、人々の長い間の願いをようやく今神様が実現なさるということです。イエス様がすみやかにこの世に再臨なさるように、また神様が世の悪を消去して自らを全能者として公に示してくださるように、神様の教会は祈り続けてきました。七つのラッパの幻はこれらのことが今ようやく実現しつつあることを描いています。それらが起きる前に、神様はすべての人を揺り動かして御許に招かれます。このことも七つのラッパは伝えているのです。

最初の四つのラッパ 8章6~13節

 七人の天使が一人ずつ順番にラッパを吹いていき、ヨハネに幻が示されます。封印の幻とラッパの幻は互いに関連しています。ラッパの幻は、すでに第六の封印の箇所で語られた内容をより正確に描写しているものだと思われます。それらは、世の終わりの有様やイエス様の再臨の直前の出来事を描いています。

 ラッパが鳴り渡る時、ヨハネは衝撃的な光景を目の当たりにします。天から雹や火が降り注ぎ、自然は死滅し、海は汚染され、星が空から落ち、太陽も月も光を失い、大地は揺り動かされます。これがどの程度まで象徴として語られたものか、私たちは知りません。たしかに人間は海の生物を殺し地球の一部を丸ごと焼き払えるような恐るべき手段を発明しました。もしかしたらキリストの再臨の直前にこれら人類の発明の数々が人間自身には制御できないものとなり、世界を破滅に陥れる結末を招くのかもしれません。あるいは、神様が前代未聞の大災害やありとあらゆる手段を通じて世界を徹底的に打ち砕くということなのかもしれません。

 イエス様の再臨の前に一体何が起きるか、その全体像を私たちは知りません。「裁きの日」が来る前に世は様々なやり方で打ちのめされる、と「ヨハネの黙示録」は語っています。このようにして神様は人々に語りかけておられるのです。私たち人間はあまりにもかたくななので、神様の優しい語りかけには耳を貸そうとしません。それで神様は厳しい処置を取らざるを得なくなるのです。しかしこれは神様の恵みであり、愛なのです。誰も死んだ後で地獄に落ちることがないように、神様は望んでおられます。神様は私たちをよいことと悪いこととを通して御許に招いてくださいます。

 11節では、例えばチェルノブイリの原子力発電所の事故(1986年)のことが想起されます。「チェルノブイリ」という名はウクライナ語に由来し、「ニガヨモギ」という意味です。それで、チェルノブイリの原発事故で「ヨハネの黙示録」の「ニガヨモギ」という名の星に関する予言が実現した、とさえ言われることがあります。しかしそれは言い過ぎでしょう。チェルノブイリの原発事故は小規模の災害に留まりました。汚染された水の量も「三分の一」をはるかに下回りました。にもかかわらず、チェルノブイリの災害は「ヨハネの黙示録」と関係があります。ほかでもない「ニガヨモギ」という名の原子力発電所が放射能汚染を周囲の環境に撒き散らしたのは、たんなる偶然ではありません。「ヨハネの黙示録」が真実を告げているというしるしを神様が与えてくださったのだ、と少なくとも私自身は信じています。神様が災害の発生を容認なさるのは、人々が我に立ち帰って活ける神様とその御心とを捜し求めるようにするためである、と思われます。