ヤコブの手紙5章 信仰は危険や困難に打ち勝つ
富は「雇用人」としては優秀だが「主人」としては悪質である
「ヤコブの手紙」5章1〜6節
これから扱う箇所は経済的に豊かな社会に生きている私たちが心に銘記すべき厳しい警告を含んでいます。この警告は、私たちの所有財産が私たちの生活において本来占めるべき位置と実際に占有している位置とにかかわりがあります。
旧約聖書の預言者たちは富裕な者たちを幾度となく繰り返し叱責してきました。このことについて彼らの中でもとりわけ厳しい宣教をしたのは預言者アモスであったと思われます(例えば「アモス書」4章1〜11節)。経済的な豊かさのもつ危険についてはイエス様も度々警告なさっていました。これが「ヤコブの手紙」5章の背景にあることは容易に読み取れます。イエス様の教えの例を以下に引用します。
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」
(「マタイによる福音書」6章19〜21節、口語訳)
富には特に危険な側面があります。富の所有者がその富に縛り付けられてしまうという点です。人間は自分の持っている富の虜になり、富のおかげで自分は快適な生活を送れるのだと思い込みがちなのです。経済的に余裕のある人間はあまりにも快適な生活を送っているうちに、ともすると「自分もいつかは死ぬ」という厳然たる事実を忘れたくなるのではないでしょうか。例えば、次に引用する「ルカによる福音書」の箇所でのイエス様の教えはこのことにかかわりがあります。
「それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。」
(「ルカによる福音書」12章15〜21節、口語訳)
十分すぎるほどの富を所有していることに安心し切った金持に対して神様が「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。」と言っておられることに注目しましょう。この世の富はそれを所有している人間たちに対して、あたかも彼らが富のおかげで永遠に生き続けられるかのような錯覚をいともたやすく抱かせるものなのです。そのような幻想にとらわれた人間は「天の御国に入る」という目標を見失い、「地獄に落ちないような生き方をする」という目的も軽視するようになります。富裕な者にとっての天国とはこの世の中にある見せかけの天国です。しかし、それに引きずられて人生を終えてしまった者をあの世で待っているのは真の地獄です。
「金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。」
(「ヤコブの手紙」5章3節、口語訳)
金銀はさびないことをヤコブは知らなかったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、ヤコブは「さびること」という表現によって「さびつくこと」を意味していたとも言えるでしょう。「さびつく」というのは実際に使用されないままになっている状態のことです。裕福な者の所有する金銀は使用されずに金庫に放置されているうちにさびついてしまったのです。金銀は金庫に保管しておくべきではなく、むしろ貧しい人々を助けたり友を得るためなどに大いに活用していくべきだったのです。この世の富(すなわち「不正の富」)について聖書は次のように教えています。
「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」
(「ルカによる福音書」16章9節、口語訳)
金持の衣服にも金銀と同じようなことが起きました。着られることもなく放置されていた衣服はいつしか虫に喰われてしまっていたのです(「ヤコブの手紙」5章2節)。そうなってしまう前に余剰の衣服を服がなくて困っている人たちに分配するべきだったのです(「マタイによる福音書」25章36、43節)。
「見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。」
(「ヤコブの手紙」5章4節、口語訳)
この節は、金持が労働者たちに正当な賃金を支払っていないことを批判しています。これは労働者たちに対する搾取あるいは略奪行為です。当時も今も人が富を築き上げようとするときには人間の強欲さがあらわになります。ここで「強欲さ」とは、本来ならば他の人のものであるはずのものを自分のものにしてしまいたいという欲望のことです。
経済的に不当な仕打ちを受けた労働者たちの叫び声は「すでに万軍の主の耳に達している」のです。これは、不正を行っている者たちを裁くために神様が速やかに来てくださるようにという心からの叫びです。次の「イザヤ書」の引用がこれと似た社会的状況について語るときに「ヤコブの手紙」と同様の表現を用いているのは偶然ではないでしょう。
「万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、
「必ずや多くの家は荒れすたれ、
大きな麗しい家も住む者がないようになる。」
(「イザヤ書」5章9節、口語訳)
「ヤコブ書」5章は経済的に豊かな社会に住んでいる人々にとって、キリスト信仰者であるかどうかにはかかわりなく、心に突き刺さる部分があるのではないでしょうか。私たちの国や社会は経済的に豊かになりましたが、これにはアフリカやアジアや南米などの貧しい国々を搾取することによって実現したという面があるのでしょうか。いわゆる先進国は発展途上国のエネルギー原料を正当な対価で買い取ってきたのでしょうか。先進国の人々は自分たちだけが経済的な豊かさを享受し続けるために発展途上国の人々を意図的に貧困状態へと放置してきたのではないでしょうか。先進諸国が発展途上国と種々の共同開発事業を行なっているのは、前者の後者に対する「良心の疚しさ」を和らげるためにすぎず、後者を本気で援助する強い意思には欠けているのではないでしょうか。
このような疑問に加えて次のような問題も考えてみる価値はあるでしょう。国民の生活を基本的な社会保障の制度によって守ろうとする福祉国家の仕組みができたのが他ならぬキリスト教の影響を受けた社会であったのはどうしてなのでしょうか。
同時にキリスト信仰者でもあり金持でもあることは可能か?
イエス・キリストを信仰する経営者が1970年代にフィンランドの長者番付で一位になったことがありました。その年に彼は全フィンランド人の中で一番多く税金を国に支払ったということになります。新聞記者が彼に「フィンランドで一番の金持であるあなたはイエス・キリストを信じているそうですが、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?」という趣旨の質問をすると、彼は「私はフィンランドで一番裕福な者なのではなく、収入を正直に一番多く国に申告しただけです」と答えました。
キリスト信仰者は同時に金持でもありうるのでしょうか。「ルカによる福音書」によれば、イエス様の弟子たちのうちの少なくとも一部は経済的に余裕のある者たちでした。彼らはそれぞれ自らの資産を用いてイエス様にお仕えしたと書かれているからです(「ルカによる福音書」8章3節)。
次の聖句からもわかるように、富そのものは罪ではなく、むしろ神様からの祝福のあらわれのひとつです。
「謙遜と主を恐れることとの報いは、
富と誉と命とである。」
(「箴言」22章4節、口語訳)。
ここで「富を何のために使用するのか?」また「富はその所有者にどのような影響を与えるのか?」といった問題を考えてみる必要があります。「ルカによる福音書」16章19〜31節に登場する金持の男に起きたのと同じようなことが誰に対しても起こりえます。この金持の男は自らの富によって目が眩まされ、自宅の門前に横たわっていた貧しいラザロには無関心でした。彼はまたこの世での有限な人生を終えた後に永遠の世界が彼を待ち受けていることも忘れていました。
ところで、キリスト信仰者、キリスト教会、キリスト教宣教団体は各々の組織において金銭にかかわる事柄をどのように取り扱うべきなのでしょうか。宗教改革者マルティン・ルターは「もしも明日この世が終わることを知っていたとしても自分はリンゴの木を植える」と言ったとも伝えられています。次に引用する出来事はイエス様が十字架にかけられる少し前に起きました。
「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。」
(「マタイによる福音書」26章6〜13節、口語訳)
イエス様はある女から高価な油を頭に注ぎかけられたときに、それを金の無駄遣いとみなすことはなく、彼女をお叱りにはなりませんでした。むしろ、彼女にそのことを感謝なさったのです。
金銭には神様の御国の働きにおいて独自の役割があります。お金がなければ、宣教師たちはすぐにでも母国に帰還しなければならなくなるでしょう。お金がなければ、冬の冷え切った教会に暖房を入れることもできなくなります。しかし、お金は「使用人」であるべきであって「主人」であってはなりません。
私たち人間は将来に対して経済的にも備えなければなりません。今日一日で全財産を使い切ってしまうようなことは決してすべきではありません。その一方で、どのような場合に金銀が無駄にさびつくことになるのか、また、どのような場合には将来のための賢明な備えであるのか、という問題は慎重に考えてみるべきです。これら二つのケースの間に明確な境界線を引くのは容易ではありません。それゆえ、キリスト教会やキリスト教の宣教団体において経済面を任されている人々が適切な判断を下していけるように私たちキリスト信仰者が祈りに覚えるのは大切です。
忍耐はいつかかならず報われる
「ヤコブの手紙」5章7〜11節
「イエスの再臨について新約聖書がほとんど述べていないのはそれが重要ではないからだ」という主張もときおり耳にします。「イエス様の再臨」とは、この世の終わるときにイエス様がこの世に戻ってこられて生きている人と死んでいる人とを裁かれる未来の出来事のことです。しかし丁寧に読んでみると、新約聖書はイエス様の再臨(および最後の裁き)について実に約300箇所で触れているとも言われます。新約聖書には全部で260の章があるので、平均して1章につき約1回の割合でイエス様の再臨(および最後の裁き)に言及されていることになります。ヤコブばかりではなくパウロもまたイエス様の再臨についてアテナイのアレイオパギアの賢者たちに対して次のように語っています。
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。」
(「使徒言行録」17章30〜31節、口語訳)
このようにイエス様の再臨と最後の裁きとは最初期のキリスト教の宣教において中心的なテーマであったことがわかります。
ユダヤ人たちは「主の日」の到来を待ち望んでいました。その日はユダヤ人たちにとっては喜びの日となり、異邦人たち(すなわち非ユダヤ人たち)にとっては苦しみと裁きの日となるはずでした。キリスト教信仰においても主の再臨への待望は、上に述べた裁きと喜びという二つの対照的な出来事への期待が含まれています。
ヤコブはイエス様ができるかぎりすみやかにこの世に再臨してくださるのを待望していました。しかしそうはなりませんでした。ヤコブはまちがっていたのでしょうか。使徒ペテロはイエス様の再臨を待ち続けることについての同じような質問に対して手紙で次のように答えています。
「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」
(「ペテロの第二の手紙」3章8〜9節、口語訳)
イエス様の再臨はいまだ起きていません。神様がそうなさっているのにはちゃんとした理由があります。すべては恵みに基づくことなのです。また、神様と人間とにはそれぞれ全く異なる時間の感覚があるということも覚えておかなければなりません。
どうしてイエス様の再臨の時がなかなか訪れないのか、私たちは理性によってあれこれ考えあぐねるべきではありません。むしろ、自然がいつものように種を成長させてくれることを期待しながら種を蒔いていく者のような姿勢で活動していけばよいのです。それと同じようにして、キリスト信仰者は神様の約束なさったことを信頼し、それがいつかは必ず実現することを期待し続けなければなりません。農夫は種が実を結ぶのを早めることはできません。それと同様に、キリスト信仰者は神様の立てられたスケジュールに従わなければなりません。種が実を結ぶようにいつ再臨が訪れるのか、キリスト信仰者は知りません。それをご存知なのは神様おひとりだけです。
「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」
(「マタイによる福音書」24章36節、口語訳)
このことと併せて、次に引用する「ルカによる福音書」12章のイエス様の警告にも耳を傾けましょう。
「するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」
(「ルカによる福音書」12章41〜48節、口語訳)「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」 (「ヤコブの手紙」5章7節、口語訳)
「前の雨」は秋の雨あるいは収穫を、また「後の雨」は春の雨あるいは収穫を意味しているとも考えられます。イスラエルでは秋にも春にも収穫期があったからです。春には穀物が、秋には果物が実りました。雨季も年に二回あり、秋は十月に、春は三月から四月にかけてよく雨が降りました。雨季と収穫については次に引用する旧約聖書の「申命記」にも記されており、それがヤコブの言い回しの背景にあるとも考えられます。
「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。」
(「申命記」11章13〜15節、口語訳)
忍耐の模範の例として旧約聖書の預言者たちやヨブが挙げられています。参考箇所を次に挙げます。
「このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」
(「ヘブライの信徒への手紙」11章32〜38節、口語訳)
ヨブは、その「ひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(「ヨブ記」1章1節、口語訳)にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、実に様々な苦難に遭います。財産も子どもたちも自らの健康さえも失い、彼を慰めに来た友人たちも逆に彼を責め立てるようになります。 それでもヨブは最後まで忍耐を貫き、主なる神様に叫び声を上げて祈り続けました。ヨブは大変な不幸を経た後で、裁き主なる神様から諌められ、悔い改めます。ヨブを責め立てた友人たちは神様からきついお叱りを受けます。最後にヨブの人生は好転し始めました。次のように「ヨブ記」は閉じられます。
「主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、 「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。また彼は男の子七人、女の子三人をもった。彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」
(「ヨブ記」42章7〜17節、口語訳)
次の「ヤコブの手紙」の箇所には、ヨブを不当に断罪した友人たちに対する主の叱責に通じるものがあります。
「兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」
(「ヤコブの手紙」5章9節、口語訳)
裁く者が裁かれることをこの節は教えています。イエス様も次のように言っておられます。
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」
(「マタイによる福音書」7章1〜2節、口語訳)「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。」
(「ヤコブの手紙」4章11節、口語訳)
上掲の節は前にも引用しましたが、ヤコブは他の人について悪い噂を撒き散らす者たちを厳しく戒めています。
それでもヤコブは神様を私たちの罪を赦してくださる憐み深いお方として描き出しています。これは多くの神学者のもつヤコブについての一般的な印象とはかなり異なっていると思います。彼らはヤコブが完全で聖なる信仰生活を人々に要求していると誤解しているからです。
キリスト信仰者は誓ってもよいか?
「ヤコブの手紙」5章12節
「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。」
(「ヤコブの手紙」5章12節、口語訳)
多くの人はこの節と「マタイによる福音書」5章33〜37節とに基づいて「キリスト信仰者はどのような誓いであれ一切誓ってはならない」と解釈しています。ヤコブのこの箇所はパウロの「コリントの信徒への第二の手紙」1章17〜20節ともかなり似ています。
しかし、イエス様とヤコブは公の場でなされる宣誓ではなく個人的に誓うことを禁じているのです。当時のユダヤ人たちには誓いを頻繁に立てる慣習がありました。このような誓いは神様の御名を用いてなされました。彼らは日常の些細な事についてもいちいち誓いを立て、その度ごとに神様を「保証人」代わりにしていたとも言えます。もちろんこれは尊い神様の御名の正しい使い方ではまったくありません。
旧約聖書は特定のケースにおいてはむしろ誓いを立てることを要求しています。次に一例を挙げます。
「双方の間に、隣人の持ち物に手をかけなかったという誓いが、主の前になされなければならない。そうすれば、持ち主はこれを受け入れ、隣人は償うに及ばない。」
(「出エジプト記」22章11節、口語訳)
預言者エレミヤは偽りの誓いについて述べています。ということは、正しい誓いもあるのです。
「彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、
実は、偽って誓うのだ。」
(「エレミヤ書」5章2節、口語訳)「あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。」
(「エレミヤ書」7章9〜10節、口語訳)
次の例からもわかるように、パウロの手紙は内容的には誓いであるような箇所を含んでいます。
「ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。」
(「ガラテアの信徒への手紙」1章20節、口語訳)「わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」1章23節、口語訳)
ここまでみてきたことから私たちは「公になされる宣誓は正しい」と結論できるでしょう。それとは異なり、神様の御名以外によって誓う種々のやり方や、自分の誓いに信憑性をもたせるために御名を軽率に引き合いに出すことは、御名をぞんざいに扱うことにほかなりません。
祈り 〜 神様の御手を動かす力
「ヤコブの手紙」5章13〜18節
これから扱う箇所についてはあらかじめ読者が知っておくべきことがあります。ヤコブは模範的な「祈りの人」であったということです。ヤコブは真摯な信仰者であったため、ユダヤ人キリスト信仰者たちは彼をエルサレム教会の指導者として受け入れていたという面もあったのかもしれません。古くからのキリスト教会の伝承によれば、ヤコブはあまりにも熱心に祈る人だったために彼の膝はラクダのもののようになっていたそうです。
「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。」
(「ヤコブの手紙」5章14〜15節、口語訳)
上掲の箇所に基づいてローマ・カトリック教会は「終油」あるいは「病者の塗油」と呼ばれる秘跡(サクラメント)を設定しました。直接的にはこの箇所は魂の救いではなく病者の癒しについて述べているにすぎませんが、新約聖書の原典のギリシア語の単語(「ソーゾー」)にはそのどちらの意味もあります。
油を塗布することは旧約聖書の時代にも用いられていた病の癒し方です(「イザヤ書」1章6節)。イエス様の弟子たちも人々を癒すときに塗油を行なっていました(「マルコによる福音書」6章13節、「ルカによる福音書」10章34節)。しかし、この箇所でヤコブが強調しているのは祈ることの大切さです。実のところ、塗油ではなく祈りこそが癒しの鍵なのです。
現代では高度に発達した医学が癒しという恵みの賜物や病人のための祈りにとってかわった、という主張もなされています。たしかに医学の進歩は神様が人類に与えてくださった最大の賜物のうちのひとつです。しかしその一方では、最先端の医学をもってしてもすべての病を治すことはできないというのも事実なのです。私たち人間は神様のこの世に対する働きかけを制限することができません。医学の分野に関してもそれは同じです。
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう」。」
(「詩篇」50篇15節、口語訳)
この有名な詩篇の箇所は「神様への電話番号」などと呼ばれることもあります。神様は人が種々の困難に直面するのを容認なさる場合が少なからずあります。そうしなければ、多くの人は神様の御許に自ら来ようとはしないからです。
キリスト信仰者の人生もまた実に多様な困難に遭遇します。しかし、それらの試練は神様が彼らを見捨てた証拠などではありません。
「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」
(「ヤコブの手紙」5章17〜18節、口語訳)
ここでふたたびヤコブは旧約聖書の例を引き合いに出しています。預言者エリヤはまったく普通の人間でしたが、一方では、力にあふれた祈りの人でもありました。祈りによってエリヤはバアルの預言者たちに対しても勝利を収めたのです(「列王記上」17〜18章)。
キリスト信仰者は傍観者であってはいけない
「ヤコブの手紙」5章19〜20節
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。」
(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)
この節の「真理の道から踏み迷う者」とは本来のキリスト教ではない異端にまきこまれてしまった人のことか、あるいは道徳的に堕落してしまった人のことを指していると思われます。どちらの場合でも人は神様との生き生きとした結びつきを失ってしまうことになります。
キリスト信仰者をこのような危険から正しい道へと立ち戻らせることは教会で働いている牧師のみの責任ではありません。これはキリスト信仰者各人の義務でもあります。パウロは次のように教えています。
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)
上節でパウロは「その人を正しなさい」と言っています。ギリシア語の動詞「カタルティゾー」は、古典古代の医学では「関節から外れた体の部位を元どおりの位置に戻す」という意味をもっていました。この箇所にもその意味が込められています。すなわち、迷子になったキリスト信仰者を本来その人が属しているはずの場所すなわち神様の御意思の下に連れ戻すことです。
「罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものである」という上掲の「ヤコブの手紙」の御言葉は「箴言」10章12節や「ペテロの第一の手紙」4章10節の御言葉と同様に、愛は多くの罪を覆うものであることを強調しています。
ある人たちはこの教えを「よい行いは悪い行いを帳消しにしてくれる」というように理解しました。しかしこれでは「よい行いと悪い行いとの関係がそれを行う人間の永遠の世界における命運を定める」というイスラム教による救いの考え方と同じものになってしまいます。
それとは異なり、この箇所の教えは「愛は罪の大きさには目を留めないものである」と理解することもできます。イエス様は御自分のことを愛する者たちのみを愛してくださるのではありません。むしろ、イエス様は御自分の愛に相応しくないような者たちをこそ愛しておられるのです。
終わりの挨拶のないままに
既出の5章19〜20節にて、ヤコブは古典古代の手紙および新約聖書の手紙にはつきものの終わりの言葉や挨拶を記さないまま唐突にこの手紙を閉じています。それもあって「ヤコブの手紙」はいわば序論付きの説教のようなものとみなされる場合もあります。しかし例えば「ヨハネの第一の手紙」も終わりの言葉や挨拶がないままで閉じられています。古典古代における手紙の書き方の作法は絶対的なものではなく、そこから逸脱した流儀で書かれることもありました。「ヤコブの手紙」はそのような手紙でした。しかし、まさにそれによって最後の節がよりいっそう印象深いものになっていると思います。