テサロニケの信徒への第二の手紙3章 神様は日常の中で私たちを導かれる
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祈りの大切さ 「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章1〜3節
「最後に、兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章1〜2節、口語訳)
パウロがそろそろこの手紙を閉じようとしていることが「最後に」という言葉からわかります。
パウロはテサロニケの信徒たちにとりなしの祈りの課題を二つ挙げています。
1)福音が広まっていくように
2)福音を邪魔する敵対者たちの仕業からパウロが同僚たち共々守られるように
最良の福音の宣教によってさえ伝道が常に実を結ぶとはかぎらないことを上掲の箇所は指摘しています。
福音を受け入れようとしない人々はいつの時代にもいましたし、これからもいます。彼らの中には福音に対して積極的に反対するようになる者たちもいます。パウロの時代の福音の反対者たちのうちの多くはユダヤ人でした。「使徒言行録」を読むと、福音を宣べ伝えるパウロを黙らせるべくユダヤ人たちが幾度も福音宣教を妨害したことがよくわかります。
神様はすべての人が救われることを望んでおられます(「テモテへの第一の手紙」2章3〜4節)。ですから、上掲の3章2節は「ある人々は有無を言わさず強制的に神様の御国の外部に追い出されるほかなくなる」という意味に解釈するべきではありません。「イエス様に従うのを拒む」という選択肢を神様は人間に残されました。そして、とても残念なことに大勢の人々がこのような生きかたを選んでしまいます。
上掲の箇所の「不都合な」は原語のギリシア語では「アトポス」(男性形)といい、文字通りに訳せば「本来の場所から外れている」という意味になります。「悪人」は神様の元々の御計画に含まれているものではありません。悪とは、人間が本来いるべきところ(神様の御心にかなうところ)以外のどこかにいるという不健全な状態を表しています。
宣教活動には4種類の人間が関わりを持っています(3章1〜2節)。
1)とりなしの祈りをする者たち
2)福音を宣べ伝える宣教師たち
3)福音を受け入れる者たち
4)福音を受け入れないか福音に反対するようになる者たち
宣教活動ではキリスト信仰者全員にそれぞれ役割と活動場所が与えられています。皆が宣教師として海外に出発できるわけではありません。しかし宣教活動を祈りで支えることは誰にでもできます。
「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章16〜18節「しかし、主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章3節、口語訳)
上節の「悪しき者」は一般的な悪者だけではなく、神様の敵対者、魂の敵あるいは反キリストといった悪の権化を具体的に指していると理解することもできます。
日常の事柄を着実に行っていく大切さ 「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章4〜15節
テサロニケの教会では、人が日常行うべき義務をないがしろにして他のキリスト信仰者たちの支援に頼り切った生活をする信徒たちが出てきました。
「また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章10節、口語訳)
上節は貧しい人々や働く力がない人々の世話をすることを否定しているのではありません。キリスト教会は自分の収入を得る可能性のない人々の世話は当然行います(「使徒言行録」2章42〜47節および4章32〜37節)。上節でパウロが指摘しているのは、他の人々の助けにすっかり浸りきり自分で働くことを拒否した人々についてです。働けるのに就労を拒否する生きかたはよくないということです。上節はかつてソ連の憲法で引用された唯一の聖書の箇所であるとも言われます。
現代の社会保障制度の内容を具体的に制定する時にも、私たちは上節の意図することを真摯に受けとめる必要があるのではないでしょうか。
パウロはこれと同じ問題について「テサロニケの信徒への第一の手紙」の次の箇所でも述べています。
「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章11〜12節、口語訳)「兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章14節、口語訳)
この問題に関してテサロニケの教会の状態はパウロが最初の手紙を書いた時よりも悪化していたのかもしれません。あるいはテサロニケの信徒たちはパウロの最初の手紙での忠告を軽視したのかもしれません。ともあれパウロは第二の手紙では使徒としてのすべての権威をもってテサロニケの信徒たちに厳粛に命じることにしました。
「兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章6節、口語訳)
おそらく上節の「わたしたち」とはパウロ自身や、コリントのパウロのもとにいたテモテやシラス(「使徒言行録」18章5節)ではなく、一般的に使徒たちのことを指しているものと思われます。主の使徒が御言葉に従って伝えることに耳を貸そうとしない者は教会の日常生活の外部へと締め出されなければなりません。それは教会がこのような信徒たちの不適切な態度を断固として容認しないことを示すためです。
今の時代でも教会が霊的・信仰的な意味で健全であるかどうかは、人々が教会で使徒の教えに喜んで聴き入り従いたいと望んでいるかどうかにかかっています。
パウロはテサロニケの信徒たちを次の三つのやりかたで教えました。
1)旧約聖書と使徒たちから受け継いだキリスト教信仰を正確に教える宣教によって(3章6節)
2)自ら模範を示すことによって(3章7〜9節)
3)使徒として書き記した手紙によって(3章14節)
使徒教父文書に含まれる「ディダケー」(「十二人の使徒の教え」)は各地を巡回する説教者たちに対して最初の二日間は食事を提供するように助言しています。その後で説教者たちが宣教活動を始めることができるようにするためです。巡回教師たちは自分が教えることの対価として具体的な報酬を望みました。たしかにパウロも次のように述べています。
「あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章13〜14節、口語訳)
ところがパウロ自身は福音の宣教を通して生活費を得ることを辞退しています。
「それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章9節、口語訳)
今日では給料を得て牧師の仕事をするケースが普通でしょう。これは単純に、特定の人々が給料を得て福音伝道に集中できるやりかたのほうが他のやりかたよりも優れている点が多いという実際的な理由によります。しかしここで忘れてはいけない
ことがあります。たとえ給料を得て専門的に伝道している特定の人々(牧師や宣教師など)がいるからといって、平信徒たちがボランティアとして行う福音伝道は決して無駄にはならないし阻害もされないということです。ルター派には信徒全員が広い意味で伝道者であるとする「全信徒にかかわる祭司制」という考えかたがあります。ただしこれは特定の人々が礼拝での説教や洗礼や聖餐を施行するために教会によって牧師として選出されるという「専門職としての牧師制」と明確に区別されています。
「また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章10〜12節、口語訳)
わざと働かず怠惰な生活をしている信徒たちに対してパウロがどのような処罰を要求しているのかははっきりしません。おそらく彼らが教会から完全に除籍されることはなかったでしょう。上掲の箇所からわかるようにパウロは彼らを依然として信仰の兄弟姉妹とみなして「主イエス・キリストによって命じまた勧め」ているからです。「それでもやはり彼らは聖餐式には参加できなくなったであろう」という仮説も提示されていますが、これはただの憶測にすぎません。
ともあれ「働く義務を意図的に怠っている信徒たちの生活態度を教会は決して見過ごすべきではない」というのが主の使徒たるパウロの明確なメッセージであるのははっきりしています。
教会の規律に基づく処罰
現代の多くの教会では教会の規則に基づいて教会員を処罰することが非常に難しくなってきており、まったく不可能なケースもしばしばあります。しかし聖書は必要ならば処罰することを前提として次のような指示を与えています。
「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」
(「マタイによる福音書」18章15〜18節、口語訳)
上掲の箇所でイエス様は教会の規則に基づく処罰について次のような指示を与えておられます。
1)まず、ふたりだけの所で忠告する
2)次に、ほかにひとりふたりの証人を一緒に連れて行く
3)次に、教会に申し出て公に叱責する
4)それでもだめならば、教会から除籍しなければならない
(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9〜11節も参照してください)
3)と4)は現代の多くの教会ではもはや実行不可能になっているかもしれませんが、1)と2)は今でもやろうとすればできることです。
教会の規則に基づく処罰についての聖書の教えは次の5つの原則にまとめることができます。
1)教会の規則に基づく処罰は重大な罪を犯した者にのみ適用されます。教会員間の意見の相違については和解できるように調停しなければなりませんが、それとは異なり、言葉や行動によって使徒的な教えを否定する教会員に対しては処罰が適用されなければなりません。
2)教会の規則に基づく処罰は教会の規則を破った者との関係を教会側が断絶することを基本的な特徴としています。ただしこの断絶にはさまざまな段階があります(3章14〜15節と「コリントの信徒への第一の手紙」5章9〜11節を参照してください)。
3)処罰について決定を下すのは教会です。3章14節に「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。」(口語訳)とありますが、「そのような人には注意をして」というのは原語のギリシア語では「そのような人をマークして(あるいは注意対象として)」と直訳できます。これは処罰が教会の総意に基づく決定であることを示唆しています。
4)教会の規則に基づく処罰は愛の心をもってなされなければなりません。その例として「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたある金持ちに対するイエス様の愛に満ちた助言を挙げることができます(「マルコによる福音書」10章21節)。
5)教会の規則に基づく処罰の最終目的は処罰される人が罪を悔いイエス様を信じて悔い改めることにあります。
おわりの挨拶 「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章16〜18節
パウロは自分の手紙を口述筆記させていましたが(「ローマの信徒への手紙」16章22節)、当時の慣習にならい手紙の末尾には自筆で署名しました(「ガラテアの信徒への手紙」6章11節)。この署名には手紙がパウロ本人のものであることを保証するという意味がありました(2章2節も参考になります)。
「どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章16節、口語訳)
パウロはイエス・キリストについてこの節では「平和の主」と呼び、「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章23節では「平和の神」と呼んでいます。旧約聖書ではメシアについて例えば「平和の君」(「イザヤ書」9章6〜7節)という名称が用いられています。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章18節、口語訳)
「テサロニケの信徒への第二の手紙」は「一同」という表現の有無を除けば「テサロニケの信徒への第一の手紙」と同じ祝福の祈願で閉じられています。
(おわり)