テサロニケの信徒への第二の手紙1章 苦しみを経て勝利へ

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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はじめのあいさつ 「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1〜2節

「パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1〜2節、口語訳)

「テサロニケの信徒への第二の手紙」の送り手はテサロニケの教会を設立し(「使徒言行録」17章5(「ヤソンの家」)、15節)、「テサロニケの信徒への第一の手紙」を以前すでにこの教会に送ったことのあるパウロとシルワノとテモテという三人の男たちでした。

「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにある」のような「キリストにある」という表現はギリシア語新約聖書でパウロがよく用いているものですが、これを現代語で他の表現に置き換えることには慎重であるべきでしょう。パウロのギリシア語は文法的に不完全であるためそれを補った現代語訳にしなければ意味が通じないと考えて原文から離れて意訳するのが適切であるとは思えないからです。

神様の恵みへの感謝 「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章3〜4節

「兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章3〜4節、口語訳)

原語のギリシア語新約聖書では1章3〜10節は一つの文になっていますが、ここでは3〜4節と5〜10節に分けて取り扱うことにします。

ある一定の状態で落ち着くということがなく、成長して強くなっていくか、あるいは減退して弱くなっていくかのどちらかしかないという奇妙な性質を「信仰」は持っています。

信仰がこのようなものであるのは、魂の敵(悪魔)と神様の間に絶えざる戦いがあるからです。魂の敵はキリスト信仰者たちの周辺を「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(「ペテロの第一の手紙」5章8節)のです。このように魂の敵が絶えずキリスト信仰者たちの隙を窺っているので神様は「御自分のもの」たちを一瞬たりとも放置なさらないのです。人が神様との活ける関係を保っているかぎり神様はその人のうちで働きかけてくださるので、信仰が活動を停止してしまうような事態にはなりません。

「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章4節、口語訳)

多くの人はキリスト信仰者になった後で落ち着いた成長の時期を経験するものです。しかしまもなく彼らは困難に直面することになります。サタンはこの世で生活している人間を安穏なままには放置せず、どうにかして神様の恵みから引き離そうと躍起になります。しかもその結果として実際に神様の恵みから離れてしまう人も出てくるのです。サタンの使う常套手段の一つはキリスト信仰者が御言葉に従おうとするがゆえにこうむることになる苦しみと迫害です(1章4節)。次の「使徒言行録」の箇所では瀕死の迫害にあったパウロが弟子たちを励ましています。

「弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。」
(「使徒言行録」14章22節、口語訳)

人が迫害の中で信仰を捨ててしまうケースについてはイエス様の種蒔く人のたとえ(「マタイによる福音書」13章21節)に述べられています。

迫害と苦しみは私たちを神様から遠ざけるべきものではなく、それとは逆にいっそう神様の御許に近づけるものであるべきです。神様の恵みによってのみ私たちはサタンの攻撃に耐え抜くことができるからです。苦しみの最中にいる人は自らの力を頼りにしないで神様からの助けこそを求め続けるべきなのです。

「だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」
(「ヤコブの手紙」1章13節、口語訳)

誘惑が神様からきていると考えてしまうと、人は神様から助けを求めるどころか、逆に自分の苦しみについて神様を責めることになってしまいます。しかし真の助けを与えてくださるのは神様をおいて他におられないのです。

神様の裁きは公正である 「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章5〜10節

最後の裁きにおいて神様に対して「あなたは公正ではない」と責めることができる人は誰もいません。「自分は不当な罪状によって永遠に滅びようとしている」と主張できる人も誰もいません。とはいえ最後の裁きでは公正が完全に実現するわけではないという面もたしかにあります。というのは、神様の恵みによってのみ私たちは天の御国に入れていただけるからです。もしも神様が私たち自身の行いに基づいて「公正に」私たちを裁かれるのならば、天の御国に入る可能性のある人はまったくいなくなります。ですから、私たちが自分のために神様にお願いできるのは公正な裁きではなくキリストの贖いの御業のゆえに罪の赦しの恵みをいただけることなのです。

「永遠の滅び」(地獄)の詳細については今までたくさん議論されてきました。しかしどれほどその詳細について考えを巡らしても推測の域を出ません。それでもいくつかの原則的な事柄についてなら聖書は私たちに明らかにしてくれます。

「そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章9節、口語訳)

この箇所でパウロは永遠の滅びが神様との永遠の別れであると述べています。これはあらゆる善の源から永遠に切り離されてしまうという意味でもあります。神様こそがあらゆる善の源だからです。

「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」
(「ヤコブの手紙」1章17節、口語訳)

永遠の滅びに落ちていくのは、キリストを救い主として受け入れずに否定する者たちです。罪はそれ自体としては誰も地獄に落としません。イエス様がすべての人間のすべての罪を帳消しにしてくださったからです。しかし罪に対する赦しをイエス様の贖いの御業に依拠して神様にお願いしようとしない人にとって罪は永遠の滅びをもたらすものとなってしまうのです。

「その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章10節、口語訳)

「キリストのもの」となっている人々は天の御国に入れていただけて「キリストに似るもの」とされます(「ヨハネの第一の手紙」3章2節)。

信仰生活は聖霊様の御業による 「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章11〜12節

私たちはひとりでは一瞬たりとも信仰に留まることができません。聖霊様の御業によってのみ私たちは信仰に留まることができるのです。そのような私たちがするべきなのは自分の信仰を誇ることではなくへりくだることです(「コリントの信徒への第一の手紙」10章12節)。

「このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章11節、口語訳)

私たちは恵みにより神様の御許へと招かれたのです。

「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章12節、口語訳)

私たちは神様の恵みがなければ主にある栄光を受けることもできなくなります。

かつてパウロ自身、ユダヤ人として自分の行いによって神様の御前に自分のことを義としようと(すなわち神様に受け入れていただけるのにふさわしい者になろうと)最大限の努力を追求しました。しかしまさにそれゆえにパウロはキリスト信仰者にされた後で「恵みとは何か」について非常に深い理解を得るように自分自身が変えられて、恵みこそが私たちを天の御国に入れるようにしてくれる唯一の可能性であることを看破できたのです。