ガラテアの信徒への手紙6章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

迷子にならないように! 「ガラテアの信徒への手紙」6章

ほぼ全てのパウロの手紙では、教義的な内容を取り扱った後に、キリスト信仰者としてこの世を歩んで行くための実践的な助言を読者たちに与える箇所が続いています。この基本的な構成は「ガラテアの信徒への手紙」でも踏襲されており、最後の章には奨励の言葉があります。しかし、それに続く結びの挨拶は例外的に短いものです。

霊的なケアの原則 「ガラテアの信徒への手紙」6章1〜5節

キリスト信仰者は周りにいる隣り人の行く末に無関心ではいられません。「自らの罪の報いを受けるがよい」と言ってすませるのはキリスト教信仰にふさわしくない考え方です。罪は必ずその結果を伴います。それを否定すべきではありません。しかし、他人を裁いたり他人の不幸を喜んだりすることによっては誰もキリストの御許に導かれはしません。むしろ逆効果です。

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

あるキリスト信仰者が罪に躓く場合には「柔和な心をもって、その人を正しなさい」という奨励を実践することが他のキリスト信仰者の義務となります。上掲の節で「正す」というギリシア語の動詞(「カタルティゾー」)は「元に戻す」とも訳すことができます。この言葉は古典古代のギリシア医学では「外れた骨や脱臼した関節を元のところに戻す」という意味を持っていました。あるキリスト信仰者が神様の御心から外れてしまった場合には、正しい道を踏み外したその人を本来いるべき場所に連れ戻すことが他のキリスト信仰者の義務となるのです。

これに関連してイエス様の次の教えもよく学ぶ必要があります。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」
(「マタイによる福音書」18章15〜18節、口語訳)

まずは罪を犯した本人とそれを咎める者の二人だけで話し合うべきです。それで解決しない場合には、次の段階として咎める者が自分の友人を「証人」として連れてきます。これでもうまくいかない場合には、第三段階として他の教会員たちのいる前でその人の罪を糾弾することになります。

しかし現代の私たちにとっては、このようなやりかたをルター派のキリスト教会で実行するのは不可能に思えるのではないでしょうか。ルーテル教会の多くでは教会が教会員をその罪のゆえに処罰すること(例えば聖餐式への参加を禁じること)はほとんどなくなっています。それでも、少なくとも上に述べた第一及び第二の段階のやりかたは一応実行可能でしょう。残念ながら、それらさえも今やごく稀になっているのが実情なのではないでしょうか。あったとしても、罪を犯した疑いのある者について教会員同士で陰口を言い合うくらいでしょう。心が痛む事柄について本人に直接話すことは実に難しいのに、本人のいないところで陰口を言い合うことがいとも簡単にできてしまうのはどうしてなのでしょうか。いったい私たちは何を恐れているのでしょうか。

何ものでもない私たち

他の人が罪に陥ったのに気がついた者は高慢になる場合があります。「私は少なくともあの人よりはましだ」などと人は考えがちだからです。しかし、そのような思い込みは錯覚にすぎません。なぜなら、私たちは「何かしら優れたところがある存在」ではなく「何ものでもない存在」なのだからです。

「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章3節、口語訳)

教会員が具体的な罪に落ち込んでいるとします。他のキリスト信仰者がその人の罪を的確に咎めてその人を本来の信仰の道に引き戻そうとするときに、どのような態度を取るべきかについて上掲の節は教えています。もしも鳥のように全てを俯瞰できる視点から他人を見下して咎めるのなら、その叱責は「裁きのための裁き」と受け取られることでしょう。しかし、叱責が平等の目線からなされる場合には、他の人からの叱責も受け入れやすくなるでしょう。もしも私たちの誰もが「ゼロに等しい何ものでもない存在」なのであれば、私たちは常に他の人々と平等の立場にいることになります。そしてそのような状態においてこそ、罪を咎める行いが神様の望まれる通りに「罪を犯している者が悔い改めてキリストの御許に立ち返る」という結果を生む可能性は高くなります。神様御自身もキリストにおいて私たち人間と等しいゼロの立場にまでへりくだられたことをここで思い起こしましょう。

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節、口語訳)。

このキリストと同じ「何ものでもない立場」にとどまり続けることが私たち人間にとても難しく感じられるのがどうしてなのか、私たちは自らに問うてみる必要があるでしょう。

その一方では、カエルのような視点から他の人々と比べて自分をむやみに卑下する態度も避けるべきです。もしも私の罪が私のことを他の全ての人々よりも劣った存在にするのだとしたら、私の心はいともたやすく恨みや妬みによって蝕まれてしまうことでしょう。「どうして神様は私を他の人たちと同じくらい善い人間にしてくださらないのか?」「どうして他の人は皆いつも私よりもうまくいくのか?」といった恨みや妬みは最悪な形で私たちを破壊する負の感情です。それらは万事につけ物事を悪い方向に考えるように仕向けるからです。

「ゼロ」の位置はそれよりさらに下には行けない場所でもあることも覚えておくとよいでしょう。ゼロは「何ものでもない」ということです。神様の視点からすれば、私たちは罪深い存在であり、それ以外の「何ものでもありません」。

「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章4節、口語訳)

上掲の節でパウロは私たちに自己吟味を勧めています。神様の御霊だけが私たち自身の罪深さ、すなわち「私たちは何ものでもない」という真実を明るみに出してくださるのです。しかし聖霊様はそれと同時に「私たちは限りなく尊い存在である」という真実もはっきりと示してくださいます。なぜなら、私たちは「神様の愛の対象」とされているからです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章16節、口語訳)

私たちは「何ものでもない存在」でもあると同時に「測り知れないほど尊い存在」でもあるということです。

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」
(「ローマの信徒への手紙」8章32節、口語訳)

これは到底ありえないことのように感じられます。しかし、このような神様の愛に基づく場合にのみ真の隣人愛が生まれるのです。たしかに人間はそれ自体としては「何ものでもない存在」です。しかし、神様によって創造されまた贖われた存在として人間は「限りないほど尊い存在」でもあります。それゆえに、私の隣り人を愛することは私にとっての大切な義務であり権利なのです。

「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章2節、口語訳)

このようにして私たちはキリストの律法を全うすることになります。これは愛の律法に他なりません。

「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章14節、口語訳)

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」
(「ヨハネによる福音書」13章34節、口語訳)

重荷を負い合う大切さ

すでに引用した「互に重荷を負い合いなさい」(「ガラテアの信徒への手紙」6章2節)という奨励は、私たちには皆それぞれ「重荷」が実際にあることをも教えています。しかし、自分の抱えている重荷を負うのを他の人たちにも助けてもらおうとはしない人たちも中にはいます。「キリストが私たち全員の重荷を負うことを約束しておられる以上、他人の助けは必要ない」と言う人すらいます。

この最後の考えかたについて言えば、たしかにキリストは次のように言われています。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。」
(「マタイによる福音書」11章28〜30節、口語訳)

それでも私たちは、キリストが私たちの重荷を軽くする一つのやりかたとして他のキリスト信仰者を用いる場合もあることを知っておくべきでしょう。私たちは自分の行いを周りに見せびらかす高慢さによって隣人愛を失うことがあってはなりません。

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

「重荷を担い合いなさい」とパウロが奨励する「霊の人」(ギリシア語で「ホイ・プネウマティコイ」(複数形))とは一体誰のことを指しているのでしょうか。極めて霊的な特定のグループのことでしょうか。そうではありません。「霊の人」と呼ばれる彼らはごくありふれたキリスト信仰者たちです。神様なる聖霊様がキリスト信仰者一人一人と向き合っておられるからこそ、キリスト信仰者は皆「霊の人」と呼ばれる資格をいただいているのです。ここで次の二つの聖書の箇所も参照してください。

「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。」 (「ガラテアの信徒への手紙」5章18節、口語訳)

「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章14節〜3章4節、口語訳)

具体的な罪に陥っている者を叱責することは「肉の人」の思いによってではなく、御霊の指導によって行われなければなりません。「私のように罪にまみれた人間が罪に陥っているあの人の罪を咎めるなんておこがましい」とか「私自身の生活にも罪があるではないか」などと考えて、他人の罪に対して見て見ぬふりをするということが度々あるのではないでしょうか。しかし「自分には罪がない」と思えないことは他の人の重荷を担うことの妨げにはなりません。むしろ逆なのではないでしょうか。

「罪のない完全な人間」は一人もいません。ですから「私の罪」は隣り人が罪から解放される手助けをするのを私に躊躇させる理由にはなりえません。人は自らの罪深さに疚しさを覚える時にどのような態度を取るのでしょうか。ここで旧約聖書の有名な「弟殺し」の場面を参照することにしましょう。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
(「創世記」4章8〜9節、口語訳)

妬みから弟アベルを殺した兄カインは主に弟の所在をきかれて「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」と嘘をつきます。これは自分が罪を犯したことを自覚している者がそれを隠そうとした行動であると言えるでしょう。

再度ここで次のことを強調しておきます。「隣り人の罪を指摘して叱責する者自身も罪深い人間なのであるから、誰も他の人の罪を咎めるべきではない」といった論理によって一切の叱責行為を無効にするような真似は避けるべきです。もしも「完全なキリスト信仰者」にしか私の罪を叱責する権利がないのだとしたら、私は地獄の門に行き着くまですっかり弛緩しきって平気で罪を行い続けるようになってしまうでしょう。

その一方で「隣り人と一緒に重荷を担う者は、神様の面前で自らの罪についての責任を問われなくなる」という考えかたも正しくありません。必ずやってくる最後の裁きの時に、私は他の人たちの後ろに隠れることはできないのです。人はどこまでいっても自らの責任を問われ続ける存在なのであり、己の罪深さの責任を社会やその仕組みなどになすりつけることはできません。人は各々いつか訪れる最後の裁きの時に神様に対して自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。

「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」
(「ローマの信徒への手紙」14章12節、口語訳)

種蒔く人だけが得る収穫 「ガラテアの信徒への手紙」6章6〜10節

「最初期のキリスト教会では雇用された牧者がおらず、皆が御霊から直接教えと導きを受けていた」といった主張が今日ではよく聞かれます。しかし、果たしてこれは聖書と合致する考えかたでしょうか。

「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章6節、口語訳)

すでに西暦五十年代にはキリスト教会の支払う賃金によって働く「専業職員」が存在したことを上掲の節は教えています。以下に引用するパウロの最初期の手紙にも教会の職務を担う職員についての記述があります。

「兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。」
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章12〜13節、口語訳)

次の引用箇所から分かるように、西暦三十年代には教会での食事の配給などを担当する専門職員として「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人」が教会員の中から選出されています。

「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。」
(「使徒言行録」6章1〜6節、口語訳)

上掲の箇所は、使徒たちが神様の御言葉を宣教する専業職員であったことも明らかにしています。教会内の様々な専業職の歴史は教会自体の歴史と同じ古い伝統を持つものなのです。次の引用箇所にあるように、イエス様も七十二人の弟子たちを宣教の旅に派遣する際に「働き人がその報いを得るのは当然である」と言われています。

「どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」
(「ルカによる福音書」10章5〜7節、口語訳)

「キリスト教会の職制は後の時代になってから設定された」と強弁する人々には、聖書への忠実さとは異なる何か他の動機があります。

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章9節、口語訳)

上掲の節からは、神様御自身によって立てられた諸計画が実際よりも速やかに実現することを期待しすぎて疲労困憊してしまった教会員たちがすでにキリスト教会の最初期に存在したことが伝わってきます。しかしキリスト教伝道とは、私たち自身の希望や期待にではなく神様の御計画に基づいて様々な実を時に応じて結んでいくものなのです。このことをイエス様は次の譬えを通して教えてくださっています。

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。」
(「マタイによる福音書」13章24〜30節、口語訳)

種を蒔く人がいなければ収穫も得ることができません。それゆえ教会員たちは、教会を教え導く立場にある職員たちが生活資金を得るためにあまり時を費やすことなく、全力で福音を宣べ伝える時間的余裕が十分取れるように配慮する必要があるのです。

他方では、蒔かれる種だけによって伝道の実が決まるものでもありません。種が蒔かれる土壌も大きな役割を果たしています。

「すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章8節、口語訳)

どのような種を蒔こうとも「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り」ます。私たちが自分の肉に対して行うべき唯一のことは、それを「十字架につける」ことです。

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章24節、口語訳)

日常の生活では一部の人間の目を騙し続けることはできるでしょう。一時的なら、ほぼ全員の目をごまかすことさえできるかもしれません。しかし、全ての人間を騙し通すことは不可能です。それと同じように「人間はわずかの間ならば神様を欺くことができるのかどうか」という可能性を考えるのは無駄なことです。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節、口語訳)

蒔かれた悪い種から実際に毒麦が目に見えるようになるまでには意外なほど長い時間がかかる場合もあります。このため「悪い種は決してその実を結ぶことがないだろう」と思い込む人も出てきます。しかし、良い種である福音がそれを受け入れる者に「永遠の命」という実を結ばせることが全く確実であるのと同じように、悪い種である間違った教えもそれを受け入れる者が「永遠の滅び」という実を刈り取るようにさせるのもいつか必ず起こることなのです。

上掲の節に出てくる「侮る」という単語(「ミュクテーリゾー」)はギリシア語では「鼻孔」という単語(「ミュクテール」)と同じ語源を持っています。フィンランド語には「鼻」にまつわる熟語によって軽蔑を表すことがありますし、日本語にも人を小馬鹿にするという意味で「鼻を鳴らす」という表現があります。

「良い実」や「悪い実」に関する次の諺は真実をついていると思います。

考えを蒔くと、その行いを刈り取ることになる。
行いを蒔くと、その習慣を刈り取ることになる。
習慣を蒔くと、その特質を刈り取ることになる。
特質を蒔くと、その目的を刈り取ることになる。

私たちは「肉に蒔く」のを避ける一方で、熱心に「御霊に蒔く」ようにしなければなりません。ここに「聖化の奥義」の全てがあります。ところが、多くの人はこれとは全く反対のことをしています。自分の聖化は省みもせず、肉に蒔くことばかりに熱心で、御霊に蒔くことは怠るのです。

十字架の神学の署名 「ガラテアの信徒への手紙」6章11〜16節

古典古代の世界では、手紙を実際に書き記すのは筆記の専門家に任せ、手紙の結尾だけを自分で署名するやり方が一般的でした。パウロもこの作法に従っていました。

「ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章17節、口語訳)

しかし「ガラテアの信徒への手紙」でパウロが自ら認めた箇所は例外的なほど長大です。

「ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章11節、口語訳)

「こんなに大きい字で」とはどういう意味なのか、いくつかの解釈が提案されています。

例えば「パウロは書き慣れない書き手だった」という説明がなされることがあります。しかし、この解釈には次のような問題点があります。当時手紙を記すために用いられたパピルスや羊皮紙は非常に高価なものでした。それゆえ、スペースをできるだけ節約するために、筆記の専門家は極めて小さい字で手紙を書き記しました。しかし、パウロの筆記者がどれほど専門的な技術を持っていたか、私たちは知りません。その一方で、パウロはかなり高度な教育を受けていたことが聖書から読み取れるので、彼は若い頃から「書く技術」を習得していたと考えられます。

また「パウロの視力は悪かった」という説明も提案されています。パウロの病は何らかの眼病であったと思われます。そのため、パウロには小さい字のテキストを読むのが困難だったのはたしかです。

しかし、私(パシ・フヤネン)が見るところ、正しい説明はおそらくとても単純なものです。要するに「パウロは特に強調したい事柄を大きな文字で書いた」ということではないでしょうか。

ここでパウロは再び彼の敵対者たちのことに話題を戻します。彼らが割礼を熱心に勧めた背景には「割礼を受けることでユダヤ人たちからの迫害を回避できる」という現実的な理由がありました。このようにすれば「十字架の躓き」は取り除かれ、迫害も終息するからです。

このことからわかるのは、パウロの時代のキリスト教の最大の迫害者はローマ帝国ではなくユダヤ教であったということです。ある意味では、今日でも同様の事態が繰り返されているとも言えます。今日でも「偽りの宗教性」こそが、正しい信仰に対する最も悪質で残酷で執拗な敵なのですから。

おそらくパウロの敵対者たちはガラテアの信徒たちに対して律法の「核心部分」のみを遵守することを要求していたものと思われます。

「事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章13節、口語訳)

「イエス様の十字架の死」が人間自身の宗教性に基づく全ての行い(割礼など)から人間の救いに関わる意味を剥奪したことをパウロは明瞭に把握していました。だからこそ、彼は真の勝利者の側に立って十字架の旗を高く掲げることを望んだのです。そのように行動することで自分が迫害や苦しみにあうことも彼はよくわかっていました。

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章14節、口語訳)

どうして十字架はこれほどまでに激しい反対を生むのでしょうか。多くの場合、その理由は間違った形で宣べ伝えられた福音にあります。「虚偽の福音」は知らず知らずのうちに人を欺いて律法に変質してしまうのです。しかし、たとえ全てがうまく行って、福音が明瞭かつ純粋に響き渡る場合であっても、福音への反対運動は途絶えることがありません。このことは福音書に記されたイエス様のこの世での公生涯からもわかります。十字架は私自身の罪深さとその罰を私に思い起こさせます。しかし、悔い改めを望まない人々は罪の自覚を喚起するものを嫌います。彼らはまだ悔い改めていない事柄について苦しむくらいなら、むしろ心おきなく永遠の滅びへと向かって進んで行くことを選ぶのです。

教義をもたないキリスト教

自由派の教会だけではなくルター派の一部の神学者も一緒になって強弁している主張があります。それは「キリスト教の最初期にはキリスト教の教義を記した定型文はまだ存在しなかった。あったのは信仰と御霊の導きのみだった」という主張です。

パウロは信仰の「法則」(ギリシア語で「カノーン」)について次のように述べています。

「この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章16節、口語訳)

教会の最初期にはキリスト教信仰を定型化した信仰告白(例えば「イエス様は主です」)がまだ存在しなかった可能性はたしかにあります。しかし、もしも信仰が何らかの内容を持つものであるのなら、その信仰は言葉の形でも表現されなければならないはずです。

教義と信仰は本質的に相反するものと考えられることがしばしばあります。しかし実際には、教義的であることは信じることと矛盾し合うものではありません。「活ける信仰」の反意語は「死んだ信仰」や「間違った信仰」です。

上掲の節にある「神のイスラエル」とは誰のことを指しているのでしょうか。キリスト信仰者のことでしょうか、それともユダヤ人のことでしょうか。どちらの解釈にも支持者がおり、それなりの根拠も提示されています。「ローマの信徒への手紙」9〜11章においてパウロは「この世の終わりにはユダヤ人たちもイエス様も信じるようになる」という信仰を表明しています。その一方で、パウロはキリスト信仰者たちを「新しいイスラエル」とみなしています。

恵みに頼りキリストに忠実に前進 「ガラテアの信徒への手紙」6章17〜18節

「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章17節、口語訳)

上掲の節にある「イエスの焼き印」とは何か、様々な憶測がなされてきました。キリスト信仰者がイエス様の受苦に思いを馳せている時、十字架上のイエス様の身体につけられたのと同じ五つの傷がその人の身体に浮かび上がってくる「聖痕」(ギリシア語で「スティグマタ」(複数形))のことを指しているのでしょうか。ちなみに聖痕を受けたとされるよく知られた例としてはアッシジのフランチェスコをあげることができます。

しかし、パウロがこの箇所で意味しているのは聖痕ではなく日常的な意味での傷のことです。これらは彼が迫害や虐待を受けてできた傷でした。

「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。」
(「ガラテアの信徒への手紙」11章23〜25節、口語訳)

これらの傷はパウロの身体に具体的に刻印されたものです。それは彼のキリストへの忠実を表す印でした。それに対して、パウロによれば、割礼はキリストへの不実と肉への忠実を表す印だったのです。

ユダヤ人たちの手紙の作法に従い、パウロは「ガラテアの信徒への手紙」を祝福の言葉をもって閉じます。そこで彼はガラテアの信徒たちのことを「兄弟たち」と呼んでいます(6章18節)。このことからも伺えるように、パウロはガラテアの信徒たちが異端の教えを捨てて真理へと立ち戻る可能性を終わりまで期待し信じていたのです。

普通の場合なら、パウロは手紙の末尾に彼の傍らにいたキリスト信仰者たちからの挨拶も一緒に書き記すのですが、今回は筆記者からの挨拶さえ見当たりません。このことは、パウロが「ガラテアの信徒たちの手紙」を送るにあたって他の著名なキリスト信仰者たちの権威にすがろうとしなかったことと関係していると思われます。

以上で「ガラテアの信徒への手紙」ガイドブック(パシ・フヤネン著)を終わります。